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239年に卑弥呼は使節を魏に送りましたが、この年数は偶然なのでしょうか?偶然かそうでないか、できれば理由もつけて説明お願いします!

A 回答 (4件)

西暦の年数自体に意味はありませんが、卑弥呼がこの時期に使節を魏に送ったのは偶然ではないでしょう。

当時の中国は魏、呉、蜀の三国時代で国内が統一されておらず、特に当時の日本から中国に向かうルート上にあった遼東半島では、公孫氏(公孫淵)が事実上の独立政権を打ち立てていました。従って、魏に使者を送ろうとしても公孫氏によって朝貢ルートが遮断されていたため、朝鮮も倭も魏ではなく公孫氏に朝貢使節を送っていたと考えられています。三国志魏書東夷伝によれば、この時期、朝鮮と倭は公孫氏の支配を受けていたと書かれています。

237年に公孫氏が魏からの出頭命令を拒否し、燕王を自称したため、238年に魏の皇帝、曹叡は遼東に司馬懿を派遣して公孫氏を滅ぼします。これによって公孫氏という障害が取り除かれて朝鮮半島や倭から魏に使節を送ることができるようになります。倭にしてみれば、朝貢相手が今までの公孫氏から、より強大な魏に変わったわけで、そうした政治情勢の大変化について情報が入った直後の翌年239年に、卑弥呼は新しい支配者である魏の曹叡への挨拶のために使節を派遣したと考えられています。政治的事件の背景には必ず何らかの理由、因果関係が存在します。
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この回答へのお礼

丁寧な解説でとても分かりやすかったです。本当にありがとうございます!

お礼日時:2022/09/29 09:02

239年? ああ景初二年か、これは238年です。


よく三年の間違いとか思っている人がいますが、三年だと皇帝が変わっているので、あれだけのお返しもありえなかったでしょう。

伊都国の説明のところに、郡の使いが常にとどまるところと書かれているように、梯儁がくる以前から郡の使いが来ていたことが伺えます。つまり公孫氏帯方郡と前から交流があったということです。

なので、たまたま景初二年に公孫氏に使いを送ったら、司馬懿に討たれていたので急遽そちらに品物を献上したという可能性はあります。(ちなみに、倭の使いが行った六月は、まだ公孫氏の城を包囲していた頃で、七月に討ち取られているらしいです。)

しかしそれより、魏の動きや公孫氏の状況を判断して、新たな帯方郡の支配者となる魏に贈物を送ったのではないでしょうか。
公孫氏もいきなり討たれたわけではなく討たれるに十分な理由があったわけで、そのような情報というのは当時でも海を渡って伝わっていたのだろうと思います。
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その年数に意味はありません


偶然も必然もない
ただ単に、記録にそう載っていたというだけの事
漢にも送っていたかもしれませんね
晋にも送っていたかもしれない
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世間の出来事はすべて偶然です。

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