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日本の戦国から徳川にかけてを根ほり葉ほり調べているヨーロッパ人の友人から、「つまるところ、秀吉はねねと淀殿どっちを愛してたんでしょうね?」と聞かれました。私には手に負えない無理難題です。どなたかよろしくお願いします!

A 回答 (4件)

日本に住む日本語をしゃべる外国人の方って、日本人以上に日本史に興味ある方がたまに居るんですよね。

私の友人にも同じような方がいます^^

さて、表題の件。。。。
実際は知ることも出来ないですが、秀吉好きとしては、ネネさんを好きであって欲しい・・・というところじゃないでしょうか?
言っちゃ悪いですが、淀君ではイメージが悪い^^;

でも、政治的に考えると違った歴史が見えてくるのでは?
豊臣秀吉一代記となる太閤記は1625年に小瀬甫庵により書かかれた書物。(正確にはどこまで記述されていたか知りません^^;)
つまり、徳川の時代になってからの書き物です。

豊臣秀頼を滅ぼしたのは徳川家。
淀君=秀頼の母。従って、徳川氏は淀君の印象悪くする必要があった。
秀頼がナヨナヨしたイメージがあり、淀君の陰鬱たるイメージもこのあたりが要因?
一方、北の政所。結果的に関が原で徳川家に一大勢力を作る要因となる。
家康自身、北の政所を粗略に扱えなかったし、政治的にも家康は高台寺(ネネさんの隠居先)に多くの寄進をしている。
従って、北の政所を悪者扱いは出来なかった。
こういう雰囲気が作られていたとしてもオカシクは無いと思うのです。

徳川は結果的に北の政所を支援して関が原へ、という事も言えるわけですから。。。

歴史は勝者が作る・・・から言えば、
あながち、言いすぎでは無いようにも思うのですが。。。

でも、日本史上最大の「陽」キャラの秀吉。
単純に「ネネさんとアツアツだった・・・」であって欲しいですよね。
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この回答へのお礼

本当にそう思います。私も、ドラマや小説の影響でしょうか、ねねさんに肩入れしたくなるんですね。ただ、歴史はそれぞれの人間がそれぞれのリアリティに基づいて作るものである、ということは確かです。「徳川の意向が歴史の記述に反映している」なんて言ったら、友人は大喜びするかもしれません。そういうフシがありますから。本当にありがとうございました。

お礼日時:2005/04/12 00:52

この質問は直接本人に聞くしかありません。


そう答えるのが正解です。

強いて答えるなら当時の社会事情などを説明するしかありません。
当時、特に秀吉は後継者の誕生を切望していました。
正妻「ねね」にはそれを望めない事は確実でしたから、当時の有力者の常として側室により後継者を得るしか選択肢はありません。
淀君は後継者を生んだ功労者でありしかも名門出身で美人であれば「ねね」とは異なる愛情を感じたでしょう。
両者への愛情はその性質が異なるものであった、どちらがどうという比較出来るものでは無かったと考えるのですが・・・
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この回答へのお礼

すごい!やっぱりそうですか!私もそう思ったんですけど、その場でそう切り返す度胸がありませんでした。でも、もう少し本を読んでみます。ズバリの回答ではなくても、友人の知識にプラスアルファできるものがあればいい、ということかな、と思います。

お礼日時:2005/04/12 00:48

一つは現在でもよくあるパターン。


下積みの時に支えてもらった世話女房を
出世してからその地位で得られる綺麗な女性に
取り替えて満足する。
二つは年令と権力の取得により、
母性・依存の要がなくなり、
対象が異性・支配に変わるケース。
秀吉の場合はこの二つに、信長の娘を
収めるという意義が重なっていると思います。
どちらを愛しているのか…の質問は
いささか短絡で答えは出ないのでは…。
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この回答へのお礼

私は心理学の素養がまったくないのですが、なんだかそれっぽいお話です!母性依存と異性支配か…でも、こんな風に説明して、あとは示唆にとどめておく、というのも、件の友人の趣味に合うかもしれません。ありがとうございました。

お礼日時:2005/04/12 00:46

二人の内どっちを愛していたか?なんて本人以外には実際には答えは解りません。


私見として述べさせていただきます。

秀吉は若い頃は相当な頑張りやさんだったようです。
その秀吉の女房として彼を支えた「ねね」さんは非常に聡明な女性であり、主君である信長でさえも彼女のことを非常に気に入っていて、二人が夫婦喧嘩した際には「ねね」の味方になり秀吉を戒めるような手紙まで「ねね」に送ったりしています。
こうした状況から秀吉にとって「ねね」とは女房であり、同志、盟友といった類の存在だったと思われます。

これに比べて天下人になってからの秀吉は単なるエロ爺といった感じで若い「淀殿」にご執心だったようです。
秀吉は昔から信長の妹である「お市の方」に憧れていたようで、その延長上に彼女の娘の「淀殿」があったようなので「淀殿」に関して一女性としてどれほど愛していたのか、疑問があります。

秀吉は「淀殿」に対しては格好付けた姿しか見せていないと思われ、「ねね」に対しては本当の自分をさらけ出していたのだと思います。
すなわち、生涯を通じて「ねね」を愛していたのだと思います。
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この回答へのお礼

早速ありがとうございました。「生涯を通じて」というところがポイントになるのでしょうね。淀殿とねねについての史実をもう少し詳しく話す、というところで勘弁してもらうのが妥当な線でしょうか。

お礼日時:2005/04/12 00:43

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