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クリミア戦争が起こった原因について、「ロシアがオスマン帝国支配下にある正教徒の保護権をオスマン政府に要求したことから起こった」とあったのですが、この「保護権」とは何ですか?
教えて頂きたいです。

A 回答 (1件)

19世紀中頃、キリスト教の聖地イェルサレムにある聖墳墓教会やベツレヘムにある降誕教会といった聖地は、カトリック教徒と様々な正教徒が共同で占拠していました。

しかし典礼上の違いや主導権争いから両者は反目・対立していて、用心のためにトルコ政府は教会前や内部に兵士を配置していました。ところが、これでは不十分で、1846年の復活祭には、どちらが聖墳墓教会でのミサを優先的に行うかの論争から血なまぐさい争いとなり、死者40人を出す騒ぎとなりました。

当時、鉄道や蒸気船の発明による新しい交通手段が開発されたため、聖地への巡礼者が激増していました。特に正教徒のロシア人が多く、その数は19世紀前半に急激に増加します。1840年代のイェルサレムの復活祭には1万5千人ものロシア人が参加していました。
これに懸念を抱いたのが西側のカトリック教徒たちでした。16世紀以来、カピチュレーションを根拠としてフランスが聖地を管理していたのですが、フランス革命の混乱期にロシアの支援を受けた正教徒が正教会に管理権があることをトルコに認めさせたことで、正教徒が聖地で勢力を持つようになったのです。このため、カトリック教会が支持基盤であったナポレオン3世は1852年にオスマン帝国に外交的圧力をかけて管理権を取り戻します。

これにロシアのニコライ1世が猛反発します。ニコライ1世は正教徒の保護者を自任していたので、今度はロシア帝国がオスマン帝国に対して管理権の復活を要求すると同時にオスマン帝国内の正教徒たちの安全保障、権利保障を強く要求します。ニコライ1世の要求は、第一次露土戦争の講和条約である1774年のキュチュク=カイナルジャ条約で、聖地巡礼をするロシア臣民のトルコ国内での安全な通行や滞在をトルコ政府が保証すると定めたことを根拠としていました。これがロシアによる正教徒の保護権要求です。
最終的にトルコがこれを拒否したことで、クリミア戦争が勃発します。
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この回答へのお礼

分かりやすかったです!ありがとうございます!

お礼日時:2023/08/01 10:32

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