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No.15
- 回答日時:
宗教でなく、親を信じる、子を信じる、妻を信じる、夫を信じる、恋人を信じる、友人を信じる、教師を信じる、政府発表や広報・白書・新聞報道を信じる、医師の診断や治療方針を信じる、製品の取説の記載を信じる、交差点では進行方向の交通信号が青のときには横方向の交通信号は赤で突っ走ってくる車はないと信じるとか、手に持ったものを手放したときには重力が働く方向に物が移動すると信じるとか、3時を示している時計は数十分後には3時ではない時刻を表示しているはずと信じるとか、そういうような「信じる」はそこそこ理解出来るのでしょうか。
「躊躇なく」というのは、「ぐずぐずせず。ためらわず」のような状況に関わる表現です。 アクションが重要なゲームやスポーツゲーム、あるいはテストで解答時間が重要な場合には、パッと反応することが大事です。
記憶に「手続き記憶」という説明があります。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E6%89%8B%E7%B6%9A% …
「意識にはのぼらないが、反復により次第に習熟するような技能であり、行動に記憶が反映される」との説明があります。
何度か似た印象形成をすれば、歩行や座る立つ跳ぶも思考なく出来ます。ナイフとフォーク、箸の使用と同様に、「藤井将太、大谷翔平ならきっと……」のようなのも、将棋の指手、バッティングや投球も、さっと出てくるのと同様に、親でも、子でも、犯罪を重ねる人でも、警官や、タクシードライバーでも、僧侶や牧師の行動でも、だいたいは先が読めます。 電気のスイッチやパソコンのマウスやキーボード操作でも、きっとこうなると信じられるのですから、統計処理した選挙結果予想でも、神や仏でも、気象予報士の言説でも、日常的には、躊躇なく、ぐずぐずせず、ためらわずに信じてるのと同じだと思って、何らおかしくないでしょう。
物理の力学、光学、電磁気学だって、躊躇なく、原則で反応・理解することが多いでしょう。 歴史や政治、社会、経済の仕組みについての説明でも、受けた説明、自分なりに理解したやり方を、”さしあたり”という台詞をおかずに、信じるのがごく普通です。
No.14
- 回答日時:
宗教でなく、親を信じる、子を信じる、妻を信じる、夫を信じる、恋人を信じる、友人を信じる、教師を信じる、政府発表や広報・白書・新聞報道を信じる、医師の診断や治療方針を信じる、製品の取説の記載を信じる、交差点では進行方向の交通信号が青のときには横方向の交通信号は赤で突っ走ってくる車はないと信じるとか、手に持ったものを手放したときには重力が働く方向に物が移動すると信じるとか、3時を示している時計は数十分後には3時ではない時刻を表示しているはずと信じるとか、そういうような「信じる」はそこそこ理解出来るのでしょうか。
「躊躇なく」というのは、「ぐずぐずせず。ためらわず」のような状況に関わる表現です。 アクションが重要なゲームやスポーツゲーム、あるいはテストで解答時間が重要な場合には、パッと反応することが大事です。
記憶に「手続き記憶」という説明があります。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E6%89%8B%E7%B6%9A% …
「意識にはのぼらないが、反復により次第に習熟するような技能であり、行動に記憶が反映される」との説明があります。
何度か似た印象形成をすれば、歩行や座る立つ跳ぶも思考なく出来ます。ナイフとフォーク、箸の使用と同様に、「藤井将太、大谷翔平ならきっと……」のようなのも、将棋の指手、バッティングや投球も、さっと出てくるのと同様に、親でも、子でも、犯罪を重ねる人でも、警官や、タクシードライバーでも、僧侶や牧師の行動でも、だいたいは先が読めます。 電気のスイッチやパソコンのマウスやキーボード操作でも、きっとこうなると信じられるのですから、統計処理した選挙結果予想でも、神や仏でも、気象予報士の言説でも、日常的には、躊躇なく、ぐずぐずせず、ためらわずに信じてるのと同じだと思って、何らおかしくないでしょう。
物理の力学、光学、電磁気学だって、躊躇なく、原則で反応・理解することが多いでしょう。 歴史や政治、社会、経済の仕組みについての説明でも、受けた説明、自分なりに理解したやり方を、”さしあたり”という台詞をおかずに、信じるのがごく普通です。
No.13
- 回答日時:
私は子供のころから、ほのぼのしたオカルト体験がいくつもあって、不可思議な存在はバッチリ信じてます。
ただ、どの宗教にもどっぷり漬かってるわけではないです。そんな人間から見ると、
『信じる』事以外に『頼る』事があるんじゃないかなと思います。悪辣な新興宗教って、他人の不幸に付け込んできますね。人はその心のスキを突かれて神様に頼ってどっぷり浸かってしまうんですね。
願いが叶わなくても、神様がでたらめなんじゃなく、自分の信心が足りないんだとかんがえて、もっと貢げ物を差し出す感じの悪循環。
No.12
- 回答日時:
どうして『信じる』事が出来る、
もしくは出来たのでしょうか。
↑
そういう能力があるからです。
つまり、そうプログラムされている
からです。
それは人間にとって必要だったからです。
存在しないモノを存在すると信じることが
出来るのは、
ひとえに想像力のたまものです。
人間には、これがあるので、神を信じる
ことができ、
同じ神を持つことにより価値観が同一になり
国家のような巨大な組織を設けることが
出来るようになったのです。
ローマ帝国がその典型です。
この組織の力により、人間は食物連鎖の
頂点に立つことが出来ました。
ただの紙を貨幣として流通利用出来るのは
その派生効果です。
No.11
- 回答日時:
??文学が分かれば宗教も理解ではなく、分かるはずですが。
「教えの理屈は理解できる」とおっしゃっていますが、
大変失礼な言い方ではありますが、
私に言わせれば、甚だしい無知な輩の思い上がりのご質問かと思われます
聖書やコーランはともかく、仏典にいたっては理解していませんね。
帰納法的に理屈で理解できる訳ありませんから。
かって近世中世の科学的知見や宇宙論が未成熟な時代は理解できなくても
現代の科学や宇宙論のおかげで仏教を理解し易くなっていますが。
「理解せずに信じてしまえるのかが不思議」とおっしゃいますが
宗教に限らす、人間の行動は理解してからではなく、信じてから行動し、理解するのです。
人間は、疑えば一歩たりとも動けません。
信じて行動、信じて行動、この反復堆積が人生なのです。
宗教を否定する共産主義と並べて語るのも、かなり違和感がありますね
ミソクソめちゃくちゃだな。
No.8
- 回答日時:
様々な会合で「体験発表」があるんですよ。
で、最後に{教えが良かった}なんて言われると、そう信じてしまう。
そういった、それらしき話をいくつも聞くうちに、信じてしまうのです。
中身をバラせば、ネズミ講(マルチ商法)と同じです。
No.7
- 回答日時:
逆の発想ですね。
信者になる人は救われるために信じるしかなく、そこに付け入るのが宗教です。
信じる事で幸せになる人がいるなら宗教も悪くないと思いますが、
「信じる」ことに疑念を持つ人にとっては必要のないものということで良いんじゃないでしょうか。
キリスト教を長年教えられてイエス様が助けてくれなかったのでそういう考えに至りました。笑
No.6
- 回答日時:
人は何かを信じながらでしか生きていけません。
たとえば、水道から出る水を飲めるのは、水道には毒が入っていないことを信じているからです。
水道水を飲んでも大丈夫かどうか、毎日きちんと毒性を調べてから飲んでいる人はいません。
同様に、生活のすべては信じることが前提になっています。
なぜあなたが無条件に水道水を利用できているか、そこを改めて考えていくと、信じるという意味に少し近づけるはずです。
この「信じる」という意味は、宗教であっても水道水を毎日無批判に飲んでいることであっても、同じことです。
あなたが勝手に「信じる=盲目的な信仰心」と決めつけているだけですね。
また、すべての宗教が、たとえば神などの、あなたより上位の存在を規定しているとは限りません。
それは単に宗教に対する勉強不足といえるでしょう。
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始めの質問の内容が不充分で失礼しました。
私も大自然や大宇宙に人智の及ばない存在がある事は信じています。
只、それが始祖や教祖という個人レベルやが全宇宙の救い主と崇めよと言われたり、
人智を超える偉大な存在が人間の言葉で、人間の姿形の人格に括られているのを
躊躇いなくどうして信じられるのだろうか と疑問に思います。
かって近世中世の科学的知見や宇宙論が未成熟な時代は、理解できる形態への仮託も容易かったかもしれません。
仏典や聖書など宗教的な知識は身に付けているから、全知全能の救世主とか、仏陀の転生した姿 と云われても
どうやってこれを理解して、若しくは理解せずに信じてしまえるのかが不思議です。
信じてしまえたら楽であり幸せなのかもしれませんが。