プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

ショックなこと(いい意味でも悪い意味でも)があった時、現実感を感じることができません。

夢と現実のリアル度がさほど変わらない時さえあります。

夢がリアル(悪夢ばかり見る)はともかく、現実をもっとリアルに感じるにはどうしたらよいのでしょうか。

A 回答 (2件)

お返事ありがとうございます。



>>ピリピリ、と感覚を鋭くすると、丹田に自然と力が入るのですが、…何か違うような気もします。

これが「雑念(煩悩)」というものなんです。
今度、こういう想いが湧いてきたら、そんな自分にこそ気が付くようにしてください。

例えば「悩んでいる・・」とか「混乱している・・」「自己査定している」「上手にしようと想っている・・」「上達しようと焦っている・・」「欲が出ている・・」「何かを期待している・・」「回復を夢みている」という要領で「今、此処の私は何を想っているか?」に気が付けばいいんです。

つまり、ちょっと天邪鬼に気づくんです。

「今、此処の自分を感じたいな~」と想っている、< そんな自分に”こそ”気が付いて >
「焦っている・・」「欲が出ている・・」と2~3回、確認すればいいんです。
そして、また、歩行する身体の感覚に集中するんです。

コツはVTRで自分を観察するように、他人を観察するように自分を客観視することです。


・・と、こんな説明で、わかりますか??

「はあ? わかんない」と想ったのであれば「疑問に想っている」です。
「なるほどぉ」と想ったのであれば「納得している・・」です。



「今、此処の自分が何を考えているか?」
「今、此処の自分は何を感じているか?」
「今、此処の自分は何をしているか?」
・・に、ひたすら気が付き続け、言葉でラベリングしていくんです。
これを続けていくと、不思議なんですが、「今、此処の自分」に居られるようになります。
これは習うより慣れろの世界ですね。。。





で、ここからが大切なんですが、

>>…何か違うような気もします。

と、いうような解釈や査定をしてはいけないんです。
解釈や査定をしている瞬間は「今、此処の自分」ではなくなってしまうからです。

これが、脳の厄介な機能なんですね。
解釈や査定、他者との比較、・・・・とゴチャゴチャと初めてしまうんです。
でも、そうやって何かに【【執着】】すると「今、此処の自分」ではなくなってしまうんです。
下心で頭がのぼせ上がってしまうんです。

そうなると、うつ病にもなるし、発狂もするし、正気を失ってしまうんです。
気が狂ってしまうんです。

つまり、言い換えれば、何かに執着して、気づきが絶えれば、正気を失うんです。
逆にいうと、執着せずに、気づき続けることが出来れば、正気でいられるんです。

”気”というのは本当にあるんだと想います。
気づくとは、「気をくっつける」という解釈も出来ますね。

それでも解釈している自分に気がついたら、「ああ、私は駄目だな」などとは想わないで、
「解釈している・・」「執着している」と2~3回確認すればいいんです。
そして、手放すことです。




質問者さまは武道をしてらっしゃるとのことですから、話が早いと想うんですが、

例えば、試合中に「痛み」に執着してしまったら、「今、此処の自分」がおろそかになってしまって、試合どころではなくなって、あっという間にやられてしまいますよね。
逆に「痛みなんて、こんなものだ。一過性のものだ」と客観視していれば、痛みに執着することもなく、平常心を持っていられるので、試合に集中できます。
痛みを痛みとして気づきながらも、執着しないことが重要ですよね。
手放すことが重要ですよね。


これと一緒なんです。

過去の辛い思い出、裏切られた憎悪・・・
幸福になりたい、負けたくないという欲望、願望、希望・・・
私は不幸だという劣等感、絶望感、消耗感・・・
逆に、今が最高に幸せだという幸福感・・・
・・・等々の感情に執着してしまうから、
「今、此処の自分」がおろそかになってしまうんです。


これを「煩悩」というんですが、煩悩に執着すると正気を失ってしまうんです。

ですから、たとえ、それがどんな感情であっても、
「煩悩なんて、こんなものだ、一過性のものだ」と悟ってしまうことで、
「今、此処の自分」でいられるようになるんです。

そのための日頃からの訓練として、歩行という試合に集中しながら、あらゆる雑念という「痛み」を平常心を持って客観視し、気づきながらも執着しないでやり過ごしていくんです。

または、坐禅をして、呼吸という試合に集中しながら、雑念という痛みを客観視していく平常心を養うんです。
これが前にも紹介したヴィパッサナー瞑想というもので、お釈迦さまの本来の教えなんです。
(伝統的な仏教というのはこういうものなんです。葬式屋じゃないんです)


それでも、どうしても雑念という「痛み」に耐えかねたときは、眼球を左右に早く振ってください。
しばらくは、これをやったほうが良いかも知れませんね。
これをやっていても平常心は養われるし、執着を手放すことが出来るようになってきます。
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この回答へのお礼

なるほど…!!

(納得している…喜んでいる…感謝している…><)


物分りの悪い私に、こんなにも、懇切丁寧に教えてくださって、ほんとうにありがとうござます。


そして、解釈や査定をしてはいけないと一度教えてくださっているのに、すみませんでした。


以前の投稿の時に比べて、大変楽になったように感じます。

これからも、日頃から常に「気付き」を実行しようと思います。


学生のうちに無理してパソコンを買って、ほんとうによかったです。

とてもつらかった苦しみから、導いてくれたSyo-yaさんは、どんな方なのだろう、と思いますが、それも執着なのでしょうね。


心から、感謝しております。

本当に、どうもありがとうございました。

お礼日時:2005/05/03 19:13

以前も投稿したものです。



脳というのは1mmも動かないんですが、体の中で、一番、エネルギーを使っているんです。全てを吸い込む掃除機の化け物のようなものです。

で、大人になってものごとに対する概念が増えたり、ショック体験があったり、いろいろ経験を積むと、身体性というものが失われてしまうんです。

私も昔、過度のストレスに晒されて、自分の腕がどこにあるのか判らないという状況にまでいきました。頭の中は仕事、人間関係、心配事、不安、恐怖、夢想、希望・・・・そんなことばかりに占拠されていたからです。

ですから、まず、前も紹介した眼球運動は必ず(!)してください。


あと、普段からの動作(食事、トイレ、歯みがき、歩行、立つ、座る、パソコン入力・・・・)を丁寧にユックリとすることです。
一つ、一つの動作を言葉でラベリングしながら生活してみてください。

例えば、立ち上がるときでも、ユックリラベリングしながら立ち上がるんです。
「右足出した」
「右手ついた」
「腰移動した」
「左足出した」
「右に体重移動した」
「立ち上がっている」と、いう具合に、子供の遊びのように言葉で確認しながら生活するんです。

今までの人生とは逆をやるんです。
「なんでも早く、瞬時にこなす」という生き方から、一つ、一つを丁寧に、ユックリと確認しながら生きるように生活から変えてしまうんです。

こういうのを「気功的生活」と呼ぶ人もいます。
ヨガの世界では「サティ(気づき)を絶やさない」ともいいます。
和風に言えば「心を込めて生活する」となると想います。
「禅的生活」ともいえるかも知れませんが。

例えば、禅僧というのもトイレの作法から、食事の作法、全ての行動に決まりがあるんです。
太極拳もそうですよね。目の動き、手の動き、呼吸をあわせて動きます。

この習慣を我々も日常の生活の中に織り込むんです。
通勤中も、
「右足、左足・・・」と足の運びを感じたり、
顔に風を感じたら、それは正面からの風か? 右からきた風か? 
 左から来た風? 温かいか? 冷たいか? を感じたり、
「私は今、息を吸っている、吐いている」
・・・・ということを確認しながら暮らすんです。


本当にこんな子供の遊びのようなことでも良いんです。
逆に言えば、私たちは、いろいろな出来事で、頭が占拠され、のぼせてしまっているので、「今、此処の自分」を失ってしまっているんです。私たちの感覚というのは非常に鈍感で退化しているんです。

この退化した感覚、子供時代の感覚に似たものを取り戻すことは言語を駆使した思考も必要ですが、やはり、体で感じる「体験」なんです。

筋肉トレーニングだっていいんです。
使っている筋肉に集中している間、頭は空っぽになるからです。


「無心」というのは心が無くなるのではなく、心が一点に定まらない状態なんです。
子供時代のように、匂いから、触感から、気配から、全ての「今、此処で感じられる感覚」に気づき続けている状態をいうんです。
大人のように、何か一つに執着してない状態です。
今、起きている全てのことをありのままに、受け止めている状態をいいます。
「ポワ~ン」とした状態です。

http://security.okweb.jp/kotaeru.php3?q=1156213
こちらの#12のお礼欄を読んでみてください。
こんな覚醒の体験が必ず訪れます。

あと私のHNをクリックして歩行瞑想をやってみてください。
立っている感覚を確認するだけの立禅(立つ瞑想)でもいいんです。

それでも耐え切れないフラッシュバックや憂鬱感に襲われたら「眼球運動」をしてみてください。これだって一つの気功法です。
自分がフラバ中なのに「あ!、フラバが始まった!」と気づくだけでも大変なことなんです。それだけ「平常心」を必要とするんです。



大切なのは<< 気づくこと >>なんです。
これが心理療法、気功法、ヨガ・・・全て!!に共通したキーワードです。

この回答への補足

ひとつだけ、

歩行瞑想を続けているのですが、どうしても、つかめずにいます。

ピリピリ、と感覚を鋭くすると、丹田に自然と力が入るのですが、…何か違うような気もします。

「今、此処の自分」を感じたい。
 
よろしかったら、何かアドバイス下さい。

補足日時:2005/05/03 11:02
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この回答へのお礼

一つひとつの動作を、ラベリングしながらゆっくりやるのですね。
そういえば、子供の頃は、とても現実感があったと思います。


あれから、眼球運動と、歩行瞑想を、毎日やっています。
怒りが込み上げそうになったときも、「怒っている、怒っている…」と繰り返すと、だんだん冷静になれます。

そして、今回教えていただいたように、普段の行動をする際も、気付き、をしてみようと思います。


私の人生にとって、大きな「気付き」を与えてくださって、ほんとうにありがとうございます。

教えていただいたことは、毎日、欠かさず実行しようと思います。

お礼日時:2005/05/03 11:01

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