アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

戦国時代など戦が多い時代には、馬もたくさん必要だったと思いますが、その馬はどこから調達していたのですか?
ブリーダーみたいな人がいたのですか?
この地方の馬は良いとかありましたか?
戦で死んでしまった馬は捌いて食べたとかありますか?

A 回答 (4件)

馬の産地・飼育場所は古代から権力者の支配下にありました。

推古天皇の時代には、信濃・駿河を中心とする地域に馬産地があり、騎兵を中心とする軍事集団が形成されて、天皇の軍事力として活動しました。朝廷による馬匹生産制度として「牧」が整備され、国家が必要とする馬を生産していました。但し、馬の生産と言っても、この当時は一年中放牧していて、ほぼ自然増殖でした。しかし、自然増殖だと牡馬が増えすぎるため、発情期に雌を巡って牡馬の闘争が激化し、牧の管理に問題が生じます。当時の日本には馬の去勢技術がまだ入っていなかったため、過剰な牡馬を軍事用途に当てるシステムができていきました。そして「馬飼部」という部民が馬の飼養を行うようになります。

平安中期以降からは農民の間にも馬の使用が普及していき、室町時代になると、使者や物資を馬で運ぶ交通制度である「伝馬」が整備されていき、領主は農家から牛馬を徴発して伝馬として使用していました。従って、この頃には農村で馬の飼育が普及して、農家から随時徴発できるくらい一般に馬が保有されていたことになります。武士も自宅で乗馬用の馬を飼うようになります。尚、馬にも種類があって、体高が高くて長時間乗っていてもバテない馬は高額で取引されました。例えば、奥さんの内助の功で有名な山内一豊は現代の数百万円に相当する金額で名馬を手に入れています。

平安中期以降は、律令制が緩んでいったため、牧は維持困難となり、馬の大量飼養者は荘園主である貴族や地方有力者である豪族へと変わっていきます。これが戦国時代にも受け継がれ、やがて戦国時代には大名が馬産地を領有・支配するようになります。例えば、現在の長野県に当たる信濃地域は古来より日本有数の馬産地で、木曽馬が生産されていたため、武田信玄は信濃を領有したことで、いわゆる武田騎馬軍団と呼ばれるイメージで捉えられるようになります。
戦国大名は、こぞって自領内での馬の生産に注力し、「馬飼」と呼ばれるブリーダーに馬の生産を行わせたのです。また、臨時に農民からの徴発も行われました。自国領で馬の量産ができない大名や、臨時に大量の馬が必要な場合は、馬の取引を仲介する「馬喰」から購入しました。

有名な馬産地は、農地開発に不向きな広大な土地がある南部氏の領国に代表される東国に多く、現代の宮城県、岩手県、青森県、長野県に当たる地域が有力な馬産地となっていました。もちろん西国にも有名な馬産地はありました。

野戦で死んだ馬は、死んで間もない内なら解体して食べることもあったでしょう。また、籠城中に食糧が尽きてくれば、城内の生きた馬を殺して食べることもありました。馬の皮などは武具に加工する解体専門の職業の人たちがいました。そういう職業は不浄なものとして差別されたので、特定の部落民に任されていました。
    • good
    • 2

古代から奥州は名馬の産地として有名です。

特に南部地方は中世から近世にかけて全国に名を馳せました。
    • good
    • 1

日本在来の馬は、木曽馬の様な小型馬でした、鎧兜の武者を載せて


走ると直ぐにスタミナ切れして走れなくなるので、武者は乗馬したまま
両足を地面に付けて馬を休ませたそうです。
鵯越で馬を背負って降りたは、有り得るのです。
南部地方(岩手県)には、体形の大きい馬がいて、馬の供給地でした。

月の輪熊→ヒグマ→北極熊(シロクマ)と動物は寒い所に行く程、
大型するようです。
北海道に1tonを超える雑種の道産馬が居ます、荷物運送を担って
いましたが、今では、ばんえい競馬で見られるだけになりました。
    • good
    • 1

後に土佐の藩主になった山内一豊の話に、馬市で馬を求める話があります。


織田信長の楽市楽座の政策で、各地から馬を売りに来てたようです。合戦で武将が乗る馬は、かなり高い価格で売買されてたようです。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A