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テレビや本で色々言われていますが、石川数正は酒井忠次のように最初期から仕える重臣でかなりの地位、名誉、信頼関係があったはずなのに出奔し豊臣方に付いたのは、簡単に脅されており家康主家滅亡の危機にあったからと思うのですがどうなのでしょう。

A 回答 (3件)

諸説ありますが、当時の徳川においては、秀吉と対峙すべきだという強硬論が強く、和議を行うべきだという石川の意見があまり通らなかったと思われます。



これ以上居座れば、いずれ強硬派によって誅殺されかねなかったかもしれなかったので、出奔にいたったと言われています。

結局秀吉が、妹と母を人質に出してまで和議を申し立てたことで、家康は秀吉に恭順することになりました。
それでも秀吉の母である大政所のいた建屋に火をつける強硬派がいました。
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石川数正が出奔した理由は諸説ありますがわかっていません。


wikiでは「石川数正」が出奔した理由として次の事をあげています。
おそらく一つの理由だけではなくいろいろな事が関連していたのでしょう。

秀吉との外交関連

 次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。
 秀吉得意の恩賞による篭絡に乗せられたとする説。
 対秀吉強硬派である本多忠勝らが数正が秀吉と内通していると猜疑し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。
 数正が徳川家に従わせた経緯がある小笠原貞慶が離反し、秀吉と内通したため、その責任を追及されたとする説。
 秀吉との間で(秀吉のところに行けば)家康との戦を回避するという密約があったとされる説。

松平信康関連

 信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていたという説。
 信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったという説。

その他

 父・康正が家康と敵対して失脚すると、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、数正はその功績にもかかわらず父の一件ゆえに傍流に甘んじざるをえなかったからとする説。
 家康と示し合わせ、徳川家のために犠牲となった形で投降したふりをしたという説。
 秀吉との交渉を行う中で現状を知る数正が、現状を知らずに主戦論を主張する本多忠勝、榊原康政ら家臣団に対し主戦論を放棄させるため投降したという説。
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大坂の陣直前に大阪城から脱出した片桐勝元と同じく、その場に留まりにくくなったから。

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