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信長は天下布武の後、天皇家をどうするつもりだったでしょうか?
正親町天皇に譲位を迫ったみたいな話はあるようですが、、、天皇家はすでに信長の眼中にはなかったのか。
信忠に家督を譲る際の道具にするつもりだった気もしますが、いかがでしょうか?

A 回答 (6件)

明治維新後の天皇家の役割と同じく、政治の権力は織田家で独占して、象徴としてのみ残すでしょうね。


信長の父はかなりの勤王家でした。信長もその影響というより、天皇の影響力をきちんと把握してたはず。
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宣教師フロイスは多くの記録を残しているが、信長との話もいくつか残している。


それによれば、信長は日本統一後に中国に攻め入って征服し、日本は息子に任せて自分は天皇をお連れして征服した中国に行くという趣旨の未来図を描いていたという。

信長は色々考えが錯綜しており、天皇と同等の権威を持つためにはどうすればよいかを模索し、その痕跡を安土城に残してもいるが、フロイスにその話をした時には、天皇とともに狭い日本を飛び出そうという壮大な夢を描いていたのだろう。

天皇について、信長の中では、越えがたい権威を持つ存在として大きな壁となっていたのではないだろうか。少なくとも「眼中にない」という程度の存在とはかけ離れた存在だったと思います。
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滅ぼしたと思います。




天皇が長く生きながらえているのは
その宗教性にあります。

天皇てのは、神と人間を媒介する
ローマ教皇のような存在なのです。

だから、当時の人は怖くて
滅ぼそうなんて考えませんでした。

承久の乱で後鳥羽上皇と戦うことになった北条義時は、
落雷事故などがあると、これは祟りではないか、と
恐れおののいた、と吾妻鏡に記録されています。

しかし、信長は非常に合理的な考えの
持ち主です。
比叡山だって皆殺しにしています。

天皇など怖れていなかったでしょう。

ただ、利用しただけです。
天下を統一して、利用価値が無くなれば
滅ぼしたと思います。
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信長は権力指向より商売指向と思います。


石山本願寺の跡地を難波の港に大改築して、堺・難波・福原の大商業圏
を構築したと思います。
貿易と西国の富は瀬戸内を通り淀川経由で琵琶湖を通って安土に、
日本海側の富は北前船で敦賀経由にて安土に、坂東・陸奥の富は、
東山道と東海道で安土に、太平洋側の富は、熱田経由で安土に。
安土城は流通に置いて格好の位置と思いますが。

天皇を追放すると、統治が難しくなりますので、そのままでしょう。
莫大な富を得れば、天皇とて何するものでしょう、天皇を越えた
存在になったのかも??

豊臣秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城を造り、太閤検地で得た財を
せっせと蓄財しました。
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自分の娘を皇后にして、その皇子を天皇に即位させ、自分が摂政となって朝廷も牛耳るつもりだったでしょう


まさに藤原道長や平清盛がやったことと同じです。
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どうするつもりだったのでしょうね。

信長自らが自分を神格化しようとしてたという説があります。そうなると天皇家は「邪魔」になりますよね。

宣教師ルイス・フロイスの書簡では、信長は総見寺(安土城下)で、同所に置いた己の神体を拝むよう、貴賤を問わず人々に強要したとあります。これは自分自身を神と同一化していいますよね。

ただこの話はルイス・フロイスの書簡にしかでてきていません。信長の障害を伝える同時代の記録「信長公記」にもでてこないのですよ。ですからこの真実はわかりません。

もし自らが神になるつもりだったら天皇家を断絶させたでしょう。そうでなければ、最初に足利義昭を担いだように権威付として利用したと思いますよ。ひょっとして眼中にもなかったのかもしれません。
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