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根拠のない素人の発想で、深く歴史を学びたいほどでもないのですが、最近、弥生時代の渡来人のことが知りたくなって、早稲田大学教授田中史生著「国際交易の古代列島」などを読み、理解するため、まとめていると疑問が出てきたので質問します。
 魏志倭人伝によると、240年頃一支国から末盧国に入ってきた魏使は陸路「一大率」のある伊都国に入り、次いで奴国へと向かった。この頃の日本にはまだ文字がなく、漢字もほとんど普及していなかった。話す人の発音を聞いて魏の使節が記録していた。ただ、通訳はいたかもしれないが使節と応対する人は次から次に代わり、この時代なので人により違った方言を話すような、発音も安定していない状況ではなかったろうか。また、記録する人も代わった可能性もある。
 すなわち、倭人伝にある「一支国」は「一国の支国」、「一大率」は「一国に置かれた大司令官」、「邪馬台国」は「ヤマトにある壱国」とも読める。一支国の「支」という文字は、枝分かれするという意味がある。また、大きな国の出先でないと最新土木技術の船着き場などはできないため、一国の出先であったのではないのだろうか。また、大きな流通ルートを持った王は、他の部族に、朝貢貿易などには使わせない筈である。「一大率」の「率」は、中国語では「帥」(司令官)の意味があり、「一大率」や「大倭」に使われている「大」の文字は、等級・位がこの上なく高いという意味もある。「邪馬台国」の「台」は、「邪馬壹國」(新字体:邪馬壱国)と表記され、晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説だそうである(台の旧字体「臺」は壱の旧字体「壹」と似ている)。なお、Wikipediaには、『魏志倭人伝』では「一大國」、他の史書(魏略逸文、梁書や隋書など)では「一支国」とされているため「一大」は固有名詞であり「一大率」は「一大国の司令官」の意味であると記載している。
 一方、「伊都国」と「一国」は、発音が近いように思う。57年に金印をもらった漢委奴国王は「漢イド国王」と読むのが素直な気がする。また、107年の倭国王師升は伊都国王のようである。この頃に中国王朝に朝貢する能力のある国は伊都国ぐらいしかなかったのではないだろうか。また、「一」は「イド、イキ又はイト」などの発音に近かったのではないか。聞く側の中国では「一」の呉音は「イチ」で漢音は「イツ」と地方によって違う。現在このあたりでは、壱岐島、一貴山、壱岐神社なと「イキ」と発音する地名等も多いが、昔は「イド」に近かい発音だったのかもしれない。また、奴国が金印をもらうような漢委奴国であったなら、魏の使節船はなぜ、倭韓交易の盛んな西新町遺跡へ直接行かなかったのであろうか。伊都国の遺跡は割と密集しているが、奴国は川で分断されそれぞれが都市国家的な集住地程度だったのではないだろうか。なお、倭人伝では、王が居たと明記されている国は、伊都国と邪馬台国と狗奴国で、他の国々には長官、副官等の役人名しか記録されていない。
 このトンデモ仮説に信憑性が出てくれば、邪馬台国の場所や卑弥呼から大和王権への移行について筋道が出てきそうな気がする。
このコーナー向きではないかもしれませんが、どこに質問していいかわからず、あまり専門的なサイトへの質問では、ちょっと気が引けてしまいました。

質問者からの補足コメント

  • うれしい

    早速ご回答ありがとうございました。
    やっぱり私はド素人ですね。「一国」と「伊都国」が同じなら、後は「大」、「支」、「率」、「壹」などうまくつながったものだから。

    田中先生の本から「楽浪郡時代の倭人による漢字の利用痕跡は、一字程度の記号的な文字のある土器片か、漢王朝との身分的つながりを示す印などに限られる。このことは当時の倭人が、漢字を、吉祥的な意味を持つ記号や、自らの地位や権威を高めるための道具・象徴として、つまりは〈文明の記号〉として限定的に受容していたことを示すものだろう。」
    また、『三国志』は、蜀を滅ぼした魏について蜀の遺臣で晋の官僚となった陳寿により50年もたった3世紀末に書かれた。
    などがあり、かなりいい加減に読んでもいいのかなと思ってしまいました。

    皆さんさすがですね。
    もうしばらく、回答を楽しみにしています。今後ともよろしくお願いいたします。

      補足日時:2024/05/12 16:58

A 回答 (2件)

対海国は対馬国で対馬列島ですね。


一は壹の略字ですね。当てる字の種類の違い。
一大国は壱岐島を指すことは問題ないでしょう。
末蘆国は松浦
奴国は「なこく」と発音しているが、古典流にいえば、「ぬのくに」とすべき。「那の津」の「那」を意識しすぎ。奴婢の奴だから、「ぬ」と読むべき。
伊都は糸島に当てる。
不彌からこれより里程から月と日に単位変更。
おそらく港に行って瀬戸内海を超えて航行。丹波・但馬(投馬)国~大坂湾辺に上陸して陸行1月で大和に着いたのでしょう。
狗奴國は熊襲などの敵対国。
卑弥呼・台与・難升米・都市牛利・伊聲耆などが記紀の誰に当てるかは
諸説あるでしょう。さらに漢委奴国王・師升などが誰かも議論が湧きそうですね。
いずれにしても
邪馬台国という翻字は中国式の差別蔑称ですから大和に直すのが
正道でしょう。

文字がなかったと言いながら金印をもらうなど、これを読む力はあったのでしょうか、文字なしは早計という意見は出てこないでしょうか。

何でもアカデミズムの盲信は誡めたいと思います。
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いろいろ質問ありますが、思いついた順に。


まず魏志倭人伝の日本の地名や人名は、中国(魏国)の人が音を書き残していますので、中国の発音を参照してください。日本の現在の発音で何々と読むなどというのは、根拠としては意味がないです。とはいえ当時の漢字の発音がどうだったかも難しいところはありますが。

大倭と一大率ですが、続きの文章に書かれているので、同じ役職を指す、あるいは元は大率と一大率だった可能性が高いのではないかと思っています。また大倭を、大までで区切って倭からが次の文章と読むことも出来そうだと考えています。またこれらの人を刺史の如くと書き残していますが、人を見た目で刺史の如くなどと分かるわけもないので、これは倭人から伝えられた情報ということになります。となれば当時の倭人も刺史など単語レベルでは漢字を理解していたと考えるべきでしょう。

邪馬台国か邪馬壱国かは、宋代の写本のみ壱を使用していること、台与も壱与と同様に書き換えられていること、当時の皇帝の忌み字として台が使われなかった可能性が高いこと、などを考慮して、大元の三国志の本では邪馬台国であったと考えられています。(一人のジジイが壱を主張しているだけとも)

以下は私の説(考え)が入るので、一般的な解釈とは異なる話となりますが、参考までに。
梯儁と張政の行程を多くの人は無批判に同じものだったと考えていますが、実はまったく違うのものだと思っています。梯儁は壱岐国から伊都国に直接行っています。なので伊都国まで船で行っているので伊都国の港で検品した云々とあるわけです。張政はマツラ国から南西に、つまり佐賀平野に抜けておそらく吉野ケ里遺跡のところで台与と難升米に合っています。その南の南に、狗奴国との最前線の山門国、つまり邪馬台国があると倭人から聞いたのです。なので山門国には行っていませんし、卑弥呼の女王国は邪馬台国ではありません。
にわかには信じれらえないでしょうが、頭の片隅にでも覚えててください♪
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