冬の健康法を教えて!

人に喜んでもらう為という文言は偽善ではないでしょうか?  自分のした行為が結果的に人に喜んでもらえた、というならまだわかりますが、「人の為」というのは嘘くさいです。

A 回答 (29件中1~10件)

人に喜んでもらうというのは、心理学的に脳内報酬に繋がるので、必ずしも偽善とは言えませんね。


もちろん、偽善で使う人もいますが、人間の社会性として相手と良好な関係を築くと安心が増えるんですね。
相手を喜ばすことの効能を、理屈的でも本能的でも理解している人は本心から(自己暗示としても)人の為に抵抗が無いですよ。

情けは人の為ならずですね。
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善と悪を語る場合は「人間全体にとってどうであるか?」という暗黙知を含みます。

個人で考える場合は「損」か「得」かでしょうね。

個人も人間の一部です。そのため、

「個人が得をするという事は人間全体で考えても得をしている」

のです。

以下は長いので興味があればお読みください。

では偽善とはどういうことを指すのか?

「自分が得をすることばかり考えてはいけないよ。
 自分を犠牲にしてでも他人のために何かをするべきだ」

「そうだね。そう思ってみんな自分を犠牲にしたよ。
 誰も幸せにならなかったけど、誰かの為に尽くしたと
 いう満足感は誰もが得られた」

「おかしいね。尽くされた人は幸福にならなかったの?」

「そうだね。みんな自分が犠牲になる事に夢中になって
 尽くされている人が本当に望んでいることはどうでも
 良かった。僕の場合は嬉しいとは思ったけど。僕を犠
 牲にした苦しさを補うほどはじゃなかったかな。結果
 として後悔している。また、ある人は、有難迷惑だと
 怒っていた。そういう事ばかり起きたよ。最後は『僕
 らはこんなに辛い思いをして他の人に尽くしたのに神
 様は何のご褒美もくれなかった』と皆でワンワン泣い
 たんだ。その時は気持ちが一つだった」

「ごめん。さっきの話取り下げるよ。偽善を働いたのが
 良く分かったから。僕の言ったことを信じた人たちは
 みんなで不幸になった」

「だったらどうすれば良かったの?」

「そうだね。全ての人は自分の幸せだけ考えて他人の犠
 牲になってはいけない」

「それをやってしまうと、他人の為に何かをする人がい
 なくならないかな?」

「最初はそう思ったよ。だけどある人が本当に自分を幸
 せにする事に成功したのなら、その人一人分の幸せを
 人間全体で得たことになる。もしすべての人が成功し
 たら・・」

「ああ。人類全体が幸せになっているはずなのか。つま
 り、人間一人が誰かを幸せにする義務をと問うた時、
 そのノルマは人類総人口÷人類総人口=一人か。そし
 て誰を選ぶべきかで考えたとき『一番身近にいてよく
 知っている人』であるべきだし、それは自分であるべ
 きか?」

「そうなんだ。最低限のノルマと最大の効率で考えると
 自分の幸せだけを願って邁進するべきなんだ」

「あれ? そういう事言った人が居る。有名な人だ。
 『天上天下唯我独尊』だ。そうかお釈迦様はそういう
 合理性について話していたのか・・・」

「そうなんだね。凄い人が居たもんだ」

この「自分一人を幸せにすればよい」と言う論法を成立させるためには「誰かの力で幸せになろう」と画策する人を減らさないと行けません。そうしませんと「人類幸福計画」の進捗率は下がると思います。

「えっとさ。天上天下唯我独尊の論理はわかるんだ。
 だけど納得いかない。利己主義になりそうだよね。
 そういう社会はどうなんだろう? この気持ちを何
 とかほぐしてくれ」

「そうだね。君の体の中について考えよう。君の体の
 中の臓器は君の一部であり、彼らにとって君は神だ。
 その中で君の臓器が言い出すんだ。みんなの為に私
 を犠牲にしました。また別の臓器も言うんだ。僕は
 もっと自分を犠牲にして皆に親切にしたと。君はど
 うして体調が悪いのか理由が分かった。
 嬉しいかい?」

「いや。冗談じゃないよ。それぞれの臓器には他には
 目もくれずに健康であってほしい」

「だよね。いま怒りを感じただろ? その冗談じゃな
 いと思った怒り。これが神様が人間の自己犠牲に対
 して持つ怒りなんだ。そして神様は皆が勝手に健康
 になってくれる方が楽なんだよ。嬉しいわけだ。余
 計な事を考えて突然不健康になったら嫌なんだ。
 例えばさっきの話。君の体の中の話ね。もし『自分
 は良いことをしている』と臓器たちが自信を持った
 ら君は助からないだろう? どんなに説得しても言
 う事をきかないはずだ。臓器たちであっても善であ
 りたいと思い、君の為に何かしたいと思っている。
 そして勝手に自分を傷つけて他の体の一部に押し付
 けがましい親切をしだす。それが流行ってしまい君
 の内臓は自傷によってズタズタになるだろう。
 君は死に至る」

「恐ろしい病気だな。良くあるのか?」

「良くあるよ。この病気の名を偽善と言う」

偽善とはこのように「確実な死」をもたらす病を指しています。

では「他人のため」と言う発想の何がいけないのでしょうか?

「自分も人類総量の一部であるという発想が消えている」

自分を特別視し「自分vs人類」という世界観を持っている人は「人類の為に自分を犠牲にする」という矛盾を実践できるわけです。先ほどの体の中の臓器の例でいうと「各臓器たち」は自分が体の一部であるという自覚が無いのです。そのため結果として体は死にます。

「でも自分勝手な人が懲らしめられることもあるよね?」

多くの人に報復されてしまい、結果として前よりも損をしていれば「自分を上手に幸せにできなかった」事になります。目的は正しくともやり方が下手糞であるというわけです。

「今の得が後の損になれば収支はマイナスってことか」

「そうだね。なので自分を幸せにするためには関係性を
 良く考えて未来を予測しないと悪手になるということ」

「じゃあ。ちょっとした他人への親切が後々帰ってくる
 ようなら善なんだね。勿論、自分の負担は極力抑えて
 みるわけ。例えば自分の為に何かするツイデニ他の人
 の得も考えるとかだよ」

「そうだね。しかし一つ見落としがある。得をした人が
 君の為に何もお返しをしなかったらどうする? その
 行為は単なる浪費だ。しかもその人が『次も期待する』
 ようになったら? その性質変化によって他人を脅し
 て自分の得を考えるようになったらどうする? 
 例えばだ『自分の事ばかり考える人は悪人だ』と言っ
 て周囲の人を脅す。自分の為に自分で何もしなくなる。
 人類全体ではお荷物をしょい込むことになるだろう。
 結果として君は悪を成したことになり、その行為は人
 類の死に至る道だ。つまり偽善を働いたのだ」

「え・・・じゃあ。親切をされた時に『味をしめて自分
 でやらなくなる人』を見切らないといけないの?」

「そうだね。他力本願に容易に傾く人に親切をした場合
 は偽善と言うもっともやってはいけない悪を成したこ
 とになる。必ず得をした分を返そうとする人を選らん
 で親切を行うべきだね」

「そうか。善人に親切にして、悪人や偽善者には親切に
 してはいけないのか。相手をよく見ないで親切にする
 というのは偽善なんだね。またそのように唱える人は
 偽善を流行らせているという事なんだ」

「そうだね」

ここまでがおそらく基本的な道徳観念でしょう。

「色々やってますが。上手くいきません。何時の間にか
 自分だけ損している気がします。アドバイスをお願い
 します」

「君は相手の為に何かしてしまうあたりがおかしい。
 相手の人が自分の為に何かしたくなる様にアドバイス
 することの方が大事なんだ。魚を与えるのではなく、
 魚の取り方を教えるべきだろう」

「やってみました。教えてもだめでした。魚を要求され
 ることの方が多いです」

「だとしたら君は悪人を助けるという悪を成している。
 だから上手くいかない。これは自分を犠牲にして悪人
 を助けている行為になるので最も罪深い行為になる」

こういう話になるため「やり方を教えてもらう」以上の事は他人に要求しては行けませんし「教えてもらったのにスルーする」と言うのは悪人の典型として判断されても仕方ないんです。また教えてもらっているときに「偉そうにされている」と感じてしまえば「悪人扱い」されても仕方ないんです。

「私たちは『良いアドバイス』を求める人を善人とする。
 アドバイスを無視したり、価値を感じないとする人を
 悪人とする」

「アドバイスを貰うことで得をするとしますよね。これ
 に対して何か返さないと悪人なんですよね?」

「そうだね。そういう人にアドバイスを続けると悪人を
 助けようとしていることになるので、当人は不幸にな
 るだろう。例えば自分を犠牲にしていると感じて怒り
 を覚える。良い気分ではいられない。そういう罰をう
 けてしまうんだ」

「じゃあ。お礼って何を指すんですか?」

「私は善人ですので継続的にアドバイスを出しても貴方
 は悪人になりませんと教える行為だよ」

「そういう符丁だったんですね。まったく分かってなか
 った。礼をしない人を助けると悪人になってしまうの
 で相手が怯えない様に善人信号を返すって事か。礼を
 返す文化を作るだけで識別が容易になるってことだね」

私たち善人には「親切にする対象を識別する」という義務があります。投資対象を選び間違えて「親切をごみ箱に捨てる」ような軽率なことをすれば「人類に損をさせた」事になります。その場合は罰を受けるでしょう。

なので正確に言うと「他人のため」ではなく「善人のため」と言い直した方がよいのです。

「自分のためだけじゃだめだよ。善人の為に何かする事
 も大事だよ」

と唱えれば「諦めて下を向く」人が沢山出てくるはずです。そういう言い方をすれば偽善にはなりませんし「諦めて自分で何とかしようとする人が増える」かもしれません。最小の労力で人類の為に貢献したことになります。

「自分を善人だと確信している人は喜び。自分が悪人だと
 思っている人は怒るだろう」

以上、ご参考になれば。
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はい、自分の為に一所懸命に頑張っていると、他人から喜ばれることがあります。


他人の為にと思ってしても、余計なお世話と怒られることもあります。

結局、他人の為とかは、誰もできないのです。
お釈迦もおっしゃたように、他人が助けてを求めてきたら、話しをよく聞いてから助言することで、当事者が原因と結果を考えてから行動するしかないのです。

ということで、自分の為にしたことで、誰かに感謝されたら、お役に立てて良かったです。と言うことにしています。
自分の為に努力することは、必要ですよ。
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この回答へのお礼

おためごかしというのが偽善なのです。

お礼日時:2024/08/15 00:34

人間は誰であろうと、人と人の関係があって初めて自分という人間が生きられています。

自分があるから人も生きている。と、言う自己中心的なものの考え方をする人は、「人の為」と、言う言葉の意味を理解するのは困難になるでしょうね。

人と人の関係が理解できなければ、「人の為」と言う言葉をそんなものか。と、いう程度でも良いので判っておく事をお勧めします。何故なら、言葉の意味を独自に解釈したり不問のままにしていると、不安が発生する基になるからです。
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偽善だろうがそうでなかろが結果的に人に喜んでもらえればそれでいいと思います。


行動を起こしただけ立派です。
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やらない「善」より、やる「偽善」だと思ってます



自分のためとか他人のためとか理由はどうでもよく、「見える結果を出す」ことに価値があると思ってます
なので、結果を出した人のことを偽善偽善と揶揄しないで欲しいです

「偽善」という言葉を覚えたての猿たちが、24時間TVのことを偽善偽善と毎年騒ぎ立てますが、1日で何億もの募金を集めたり、福祉カーを寄贈したりする「結果」は、善以外の何者でもないと思ってます

偽善偽善という人のほとんどは、エアコンの効いている涼しい部屋でスマホパチパチしているだけで、何かのために汗かいてるわけじゃないですよね?
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だから「御為ごかし」という言葉があります。


今一つ、考えを進めてはどうでしょう?。
例、このこのカテでもありました。
「親切にしてあげたのに、お礼の一言もない」なんて書き込みが。
お礼、という見返りを期待した行動がその人の言う親切なんですね。
自分自身の満足のために何かを期待した行動、これは期待とは逆に裏目に出ることも多い。
例 「与えよ、さらば与えられん」
ならば、その裏をかいて、「与えられん」を期待してだれ彼構わず「与え続けたら」、たぶん期待する結果は得られないはず。
成功者曰く「結果はあとから、勝手についてくる」
具体的なその結果は期待していなかった?。
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人の為という言葉が実は自分の為であって、他人のためになってない場合ですよね。


自分にとってはすごく良くて利益になる行為ですが、他人からそれをもたらしてもらおうとするときは強制に成り、お金などの報酬を全く払おうとしない、いわばずうずうしい人がいると問題です。

詐欺商法・恋愛・子育て・部下育てなどが一番問題でしょうな。
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この回答へのお礼

>人の為という言葉が実は自分の為であって、他人のためになってない場合ですよね。

そうです。最後の4つもそうですね。その中にそれがあるとよくないと。真ん中の言葉はその通りです。

お礼日時:2024/08/18 05:45

そうかもしれないけど、それをせずに自然体で生きていけるのは、筋トレと勉強を頑張った人だけな気はします。

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この回答へのお礼

はい

お礼日時:2024/08/15 00:39

人の為、人の為と書いて偽(ニセ)偽善の偽と読む。


と言う名言?だか迷言?も有名ですが……。

ただ、あなたの質問のしかたはどこか冷ややかないやらしさを感じてしまいます。

あなたのために言ってる(やってる)のよ。
私はいつも人に喜んでもらうために〇〇をしています。

これらをよく口にする人は、確かにどこか恩着せがましく、押し付けがましく、言ってる本人は意識もしていないのでしょうが、最も注意すべく嫌われる言葉だと思います。

ただ、世の中には本当に人を喜ばせたり、面白がらせたり、驚ろかせたりすることが楽しくで仕方なく、自分もそれを見て嬉しくて楽しくて仕方がないのだと言う、ピュアで穏やかで温かなチャップリンのような人たちもたくさん居るのは事実なのですよ。

現に人間の本質は、自分自身が喜ぶことよりも、他者を喜ばせた時にこそ、本当に純粋な満足感や喜びを得られるそうですよ。

あなたの言いたかった事はわかります。
でも偽善から入ったとしても、人が喜んでくれる心地よさから、本当の善を学ぶ人もいるのだと思います。
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