タイムマシーンがあったら、過去と未来どちらに行く?

1865年に水戸藩の武士階級が壊滅したのは、1609年に生瀬村の農民を皆殺しにした罰が当たったのではないでしょうか?

水戸生瀬騒動(なませそうどう)
1609年、江戸時代初期、水戸藩領の常陸国久慈郡小生瀬村(現:茨城県大子町小生瀬)で発生したとされる事件。

秋になり年貢取立の役人が来たので、村人が年貢を納めたところ、間もなくまた別の役人が来て年貢を要求してきたため、村民達は怪しんで、後から来た役人を偽者と判断してこれを殺害した。

ところが前者が偽者で後者は本物であったため、村は水戸藩の怒りを買い、10月10日、芦沢伊賀守を総大将とする侍の一団に襲撃され、村民は皆殺しになった。


水戸天狗党の乱
1865年、捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑された。

天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では市川三左衛門ら諸生党が中心となって女児・幼児を含む天狗党の家族らをことごとく処刑した。

鳥羽・伏見の戦いを緒戦として戊辰戦争が勃発すると、金次郎ら天狗党の残党は、水戸藩庁を掌握して報復を開始し、今度は諸生党の家族らがことごとく処刑された。

こうして市川ら諸生党の残党も捕えられて処刑されたが、金次郎らはなおも諸生党の係累に対して弾圧を加え続け、水戸における凄惨な報復・私刑はしばらく止むことが無かった。

質問者からの補足コメント

  • へこむわー

    水戸黄門(徳川光圀)は「半端ないワル」辻斬り!重税!徳川幕府に喧嘩を売る狂犬!

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/10/12 22:06

A 回答 (1件)

天狗党関係をはじめ、幕末に過激な行動に走り、命を失った武士が多いです。

明治になって、尊王のルーツは水戸藩だから、水戸からも大臣クラスにと考えたけど、有能な人たちが全滅してて実現できなかった。
尊王思想の元を辿れば、水戸光圀の編纂した大日本史・水戸学から。
水戸のご老公のせいだったりして。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

水戸黄門(徳川光圀)は「半端ないワル」辻斬り!重税!徳川幕府に喧嘩を売る狂犬!
https://www.youtube.com/watch?v=Al5ljc3FBMo

お礼日時:2024/10/12 22:05

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