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桶狭間の戦いについて、最近の研究では今川勢は特に油断しておらず、奇襲も受けておらず、正攻法で敗れたと聞きました。しかし、騎兵の数が段違いなのに、なぜ織田軍は勝てたんでしょうか?

A 回答 (6件)

質問されているので大まかな状況をご存じかと思いますが、この質問や回答を読んだ人のために簡単な説明も書いておきます。



簡単な位置関係ですが、三角形△を書いて上の頂点を織田勢、右下を沓掛城、左下を大高城とします。この時、争いとしては、今川勢の大高城を信長が取り戻そうとしていたところでした。なので今川勢は右下の沓掛城から左の大高城に援軍を送ろうと移動していました。
今川勢が動いた報を聞き、信長は少数の部隊が(沓掛城でロクに休息も取らず)強行したと考えた可能性があります。とにかく今川勢が移動しているときに信長は動いたということです。ここで織田勢の味方も信長が大高城に向かったと思っていたのですが、何故か移動中の今川勢のほうに進軍したのです。
当日は悪天候で、さらに丁度大雨になった頃でした。移動中の今川勢は分散して高台に陣取り大雨が去るのを待っていたようです。この時、雨に紛れて移動したため信長軍が見つからなかった、などと言われていますが、もし見つかっても「この大雨の中、移動しているのはどこの部隊だろう、ご苦労なことだ」程度にしか思われなかったのではないかと思います。そして土地勘があったためか、大将が居るならここだろうと目星をつけたところの部隊を攻撃したと思われます。
先に書いたように今川勢は分散して待機していたため、本陣が襲われても今川の味方がすぐに駆け付けることはできませんでした。そのため局所的にほぼ同数の戦いとなり、今川の奮闘もむなしく討ち取られるというサプライズが起こりました。これにより今川勢は体制を組む間もなく撤退戦となり、多くの死者を出したようです。
桶狭間の戦いとなったと伝えられる土地は、結構広い地域にまたがって複数ほど残されていますが、それは多くの死者がでた撤退戦が広い範囲に渡っていたためだと考えられています。

ただ上の説明は簡単に考えただけのものなので、間違いがあるかもしれません。当日は悪天候でしたが、信長勢は当初は水路を使って東側から大高城を攻めようとしていたようです。この辺りのことは、移動中の今川勢を攻撃したこととイマイチ整合性が取れないように思えます。

最後に、織田勢が崖を下り降りて奇襲したという話は、源平合戦の一ノ谷の戦いをミックスした作り話ですw
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大軍で進軍してたものの、比較的強い部隊は、いくつかの砦攻略で、本隊から離れてました。

地形的に守りにくい場所だったこと。突然の雨に注意がそれたこと。
織田側が、狙うは義元の首のみと宣言。大将首だけを目標にすることで、迷いなしの攻撃が可能。今川側が予測してなかった攻め方をされたため、対応が出来なかった。

奇襲ではない。→前田利家たちが、付近の百姓たちを動員して、旗を立てて大軍に見せかけたと言う記述などからの推測でしょう。
城から桶狭間まで最短時間で駆けたイメージがつよいが、途中で神社によって、食事をしてる。しかも、信長が到着してから赤飯を炊き始めてるような記述。途中でこれだけ時間をとれば、当然、今川側にも、織田軍出陣ぐらいの情報はとどいているはず。
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印税稼ぎの詭弁です、油断が有ったから大将首を取られたのです。


今川軍の25000人は、普段は農業していて戦の時に駆り出される兵で、
そこから、荷物運搬係を引くと兵の数は少なく成ります。
尾張の砦を複数攻めて居たので、兵力は分散していますので、本隊は
多く見積もっても5000人くらいでしょう。
信長の尾張軍は全員が普段から武芸の鍛錬をしていたプロの戦闘集団
だったのです、戦法も孫子の兵法にのっとた、少数で多数に勝つには
一点集中で攻めるを用いたのです、この事を為すには、情報が重要に
なります。
今川の情報を逐次もたらした、簗田政綱を一番の武勲として、信長は
褒賞を与えています。

信長は早くから情報の重要性を認識していました、滝川一益が忍び者
を束ねて居ました。(滝川一益自身も忍者だった説が有ります)
木下藤吉郎には蜂須賀小六がいて情報集めに長けていました、信長に
重要されたのは、草履を温めた事ではないのです。
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以下は、「戦国BANASHI」というサイトからの転載です。



今川軍の戦力は約25,000人に対し、織田軍の戦力はたった約2,000~3,000人。

この時点では勝ち目はないといっても過言ではない戦力差でした。

ただ信長は戦力では劣っていたものの、戦略で勝利を導き、義元の首を取ったのです。この戦力差で義元が油断した可能性も十分考えられるでしょう。

両軍の戦略
桶狭間の戦いにて織田軍が勝利したのは、戦略が大きく関係しています。

正面から約25,000人もの兵を相手にするのは厳しいと考えた信長は、今川軍の兵を分散させようと動きます。

そして今川軍は信長の作戦に引っかかり、義元につく兵を減らさせたのでした。

対し今川軍の戦略は詳しく明かされていませんが、約25,000人もの戦力で対抗しようとしていたことから、戦力で押し込もうとした可能性も考えられます。

今川軍にとっては一見勝ち戦のように見えますが、信長の巧妙な策略が義元の上を進んでいたことで、負け戦となってしまいました。


織田信長が桶狭間の戦いで勝てたのはなぜ?
霧が濃い山

戦力差が大きな桶狭間の戦いでしたが、織田軍の勝因は何だったのでしょうか。

織田軍が勝った理由として、以下の3つが挙げられます。

・天候が味方したから
・今川義元が油断していたから
・織田軍にはスパイがいたから

一見不利な織田軍でしたが、勝つための条件は揃っていました。

ここからは織田軍の勝因について解説していきます。

天候が味方したから
信長が桶狭間の戦いで勝てたのは、まず天候が味方した点が挙げられます。

戦いの終盤、織田軍が義元の居場所を突き止め、攻撃を仕掛けるときでした。

織田軍の背後から風が吹き、まるで雹(ひょう)のような雨が義元を襲ったとされます。

今川軍にとっては思いもよらない悪天候。一方で織田軍にとっては絶好の機会ともいえるでしょう。

この悪天候がきっかけで今川軍は織田軍の動きを察知できず、織田軍に勝ちを譲ってしまったといわれています。

今川義元が油断していたから
次に義元が油断していた点が織田軍の勝因として挙げられます。

今川軍は織田軍を撃退したり、砦を攻め落としたりと、順調な流れで戦いを進めていました。

圧倒的な戦略差に加え、順調に駒を進めている状況から、義元にとって勝ちは目前だったのかもしれません。

そのため義元は上機嫌になり油断したことがきっかけで、織田軍は勝利したのではないかという説も上がっています。


織田軍にはスパイがいたから
織田軍の影には乱波・透波の存在があったともされています。

織田軍が義元の居場所を把握できたのはこのスパイの存在が大きく影響していました。

乱波・透波のようなスパイの存在がなければ、また別の結末が待っていた可能性も考えられます。

また信長は寝返った人物になりすまして、義元に向けて手紙を送った話も有名です。今川軍の混乱を招くために、信長は戦略の1つとして手紙を送りました。

案の定義元は手紙によって混乱し、織田軍から寝返った武将を切腹させたとされています。


今川義元を撃ったのは織田信長ではない
青い鎧

信長と義元の戦いで有名な桶狭間の戦いですが、実は義元を討ったのは信長ではありませんでした。

では一体誰が義元を討ち取り、桶狭間の戦いを勝利へと導いたのでしょうか。

桶狭間の戦いに貢献した織田軍の武将は以下の2人です。

・毛利新介
・服部小平太

ここからは義元を倒した武将と、討ち取りに貢献した武将の2名を解説していきます。

今川義元を撃ったのは毛利新介
今川義元を討ったのは尾張出身とされる毛利新介(もうりしんすけ)でした。

信長に力を認められた黒母衣衆の一員であり、西美濃攻略や伊勢攻略に活躍した人物です。

義元を討つ前に、新介は義元に指を噛まれた話も有名で、義元の意地の強さを感じられるエピソードとして語り継がれています。

服部小平太は討ち取りならず
新介よりも先に義元へ攻撃を仕掛けた人物が、服部小平太(はっとりこへいた)です。

信長の馬回りで、首を取るまではいかなかったものの戦いに貢献しました。

小平太は槍を持って義元に突っ込みましたが、義元によって攻撃を阻まれ、膝を切られたとされています。

桶狭間の戦いの勝因はなんだった?圧倒的な兵を目の前にとった織田信長の行動とは|まとめ
元々は松平の内部争いから始まった戦いで、織田信長と今川義元は直接的な関わりはありませんでした。

しかし内部争いが激化していき、織田軍と今川軍の戦いへと発展したのが桶狭間の戦いです。

戦力を見ると勝ち目の薄い織田軍ですが、一歩先を行く戦略で義元を討ち取りに成功。

どんな戦略差でも策略で勝利に導く信長の活躍はさすがといえるでしょう。
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まず、ある程度の研究者なら江戸時代に書かれた読み物である


小瀬甫庵の「信長記」よりも、織田家臣の太田牛一が書いた
「信長公記」の方が史料的価値が高く評価されています。

一般に桶狭間の戦いは「狭間」の名称から、くぼ地に陣取った
今川勢を大雨に隠れて信長が奇襲したと思われますが、
これは「信長記」を参考に明治の陸軍が研究発表したもので、
研究者からは以前から多くの疑問が出されていました。

「信長公記」では「おけはざま山」という山で、両軍が対峙して
信長が何度か少数による突撃を行っているので奇襲ではなく
佐々成政の兄の佐々政次はこの時に戦死しています。
実際に今川軍は主戦力を丸根・鷲津などの砦攻略に回して
本陣はそれなりだったと思われますし、織田は主戦力を
集中して投入して士気も高かったかと思われます。

現代では今川義元を公家趣味の御曹司でボンボンみたいに
ちょっと生まれが良いから京を狙ったみたいになってますが、
実際は海道一の弓取りと呼ばれ、上杉や北条、武田とも渡り合って
領土を拡大できたくらいの大名です。
ほんの少しの油断と運の無さで残念な結果になってしまいました。
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そもそも論として、尾張の信長が小規模な軍勢というのは


盛っているからね。

尾張は当時の石高とかそういうのとか商業とかのランキングで
全国上位に位置するような恵まれた土地であり、

駿河と遠江とかをあわせたところで実際、石高は尾張と同じぐらいか
少ないぐらいだったはずです。

そう考えると動員数もそれほど多いわけではないので、

五分ぐらいの戦力で戦ったのではないかといわれています。

信長の功績を盛るために少数で街道市の弓取りの最後を盛るために
大軍勢だったというような話になったのではないかと

いわれているようですね。 ( ゚Д゚)y─┛~~
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