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【聖徳太子は日本から出たことがないのになぜ世界のことを知っていたのでしょう?】東南アジアのタイやインドネシアに自生する芳香を放つ木に傷が付いて、その傷口から出る樹液にバクテリアが繁殖して木の芳香が固体にとなって定着して濃度が濃くなった木を香木(こうぼく)と言うそうですが、聖徳太子は火を付けると香りがする煙が出る流木を見て、沈香(じんこう)だと言い当てました。なぜ日本に存在しない沈香の香木を知っていたのでしょう?

A 回答 (6件)

> 聖徳太子は火を付けると香りがする煙が出る流木を見て、沈香(じんこう)だと言い当てました



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AD%90 …

香との関わりでは、『書紀』推古天皇3年条に香木が漂着した旨の記述がある。これには「発見した島民が朝廷に献上した」とだけ記されているが、『伝暦』ではさらに「太子が献上された香木を沈香と見抜き、香木から観音像を刻した」と付け加えられている。また太子像には柄香炉をもつ像が多く、太子信仰と共に香を薫く仏教儀礼が全国に広まったと考えられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3 …

延喜17年9月に藤原兼輔(877年 - 933年)によって編纂されたものが原撰本であるとしている。また、成立当初の内容は、校異の書き入れから、現行の流布本よりも簡略であったとしており、現行のものは原撰本に四天王寺本願縁起、「暦録」、「七代記」が追補されたものとして、原文と後柱を分けた復原本を作成し、『聖徳太子全集』三(1944年)などに発表した。この見解は一般の承認を得てきていたが、その後、伝暦の書写本を調査した阿部隆一はこの説に批判を提示している。傍証としての事実や伝承が発見されていないこと、また、『本朝月令』・『三宝絵詞』・『日本往生極楽記』・『政事要略』・『本朝法華験記』・『扶桑略記』などからの本書の古い引用文が復原本よりも流布本に近いことなどから、この説は再検討されるべき必要があるとされている。また、顕真の『聖徳太子伝私記』の記載などにより、現在の形になった年代を正暦3年(992年)とする説もある。林幹弥は後述する阿波本願寺本が永久元年(1113年)本の祖本である寛弘元年(1104年)書写本以前の様態を示すことを重視し、さらに永観2年(984年)以前に『三宝絵』(永観2年撰)に見える『平氏撰聖徳太子伝』が成立し、正暦3年にそれを補訂して『伝暦』ができたのではないか、と述べている。

古くから「平氏撰」と呼ばれ、平基親・平季貞・葛原親王などを撰者とする所伝もある。難波の百済寺の老僧より、『太子行事奇縦之書三巻』を得て編述されたともあり、『日本書紀』の記事を骨組みにし、『上宮聖徳太子伝補闕記』の記事を全面に採用し、現存しない先行の各種の太子伝も参照し、撰者の創作も織り交ぜて内容構成されたものとされている。

内容は、欽明天皇31年(570年)太子の父である橘豊日命(用明天皇)が穴穂部間人皇女を妃としたときから始まり、敏達天皇元年(572年)の誕生、推古天皇29年(621年)2月の薨去までの太子の事績や関連事件を記し、さらに山背大兄王の事件や皇極天皇4年(645年)の蘇我入鹿の討滅までを、ほぼ年代を追って記している。聖徳太子に関する説話・奇談を集大成したような性格の伝記であり、その記事は必ずしも信用のおけるものではないが,後世の太子信仰に大きな影響を及ぼしている。一般の聖徳太子像は、本書を通じて形成されたものとも言える。

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沈香を聖徳太子が見抜いたというのは、10世紀末に、聖徳太子信仰のために作成、膨らませたメルヘンチックな創作なのでしょう。 
沈香と聖徳太子とは事実的な繋がりないのでしょう。
偉人のような人についての伝記物語は、釈迦でも、イエスキリストでも、創作が多いです。
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この回答へのお礼

みんなありがとうございます

お礼日時:2025/04/05 10:06

現代だって、日本から出たことのない


人はたくさんいます。

そういう人たちだって、マスコミや
書物、海外に出かけた人などから
仕入れた情報で
ある程度、世界を知っています。

それと同じです。

特に、日本の場合は、当時世界一の大国だった
中国が隣国でした。

だから、世界中の情報が中国にはいります。
その
中国から、あるいは半島経由で
人、文物が日本に入ってきました。
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沢山本を読んで勉強していたからだと思います。

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仏教の普及に努めていた聖徳太子が、仏教儀礼において香木が重要な役割を果たすことを知っていたことが挙げられます。

仏教では、香を焚いて清める儀式が行われており、沈香はその主要な材料の一つでした。仏教とともに大陸から伝わった知識が、聖徳太子の判断力を支えたと考えられます。
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『日本書紀』や『聖徳太子傳暦しょうとくたいしでんりゃく』に595(推古すいこ天皇3)年に淡路島に漂着した香木を聖徳太子が沈香と鑑定したとの記載が見られます。

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本って知ってますか???

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