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私は、地方国立大の農学部の修士1年です。

私は昨年まで、忙しい研究室に入っていました。忙しい研究室に入ってしまったがために、ひどく病んでしまい高レベルの院でやっていける気がしなかったこと、経済的な面から結局外部の院に進学したいといった目標もあきらめてしまいました。修士の今では、同じ大学の別の研究室に所属しています。

しかしながら、コアタイムも無く、毎日研究室にも行っていなかった友人が旧帝大の院に進学したと聞いて、ひどくショックを受けています。その友人は、夏休みも1ヶ月以上もらっており、旅行などにも行っていたので、こんな友人でも旧帝大の院に行けるんだと思うと、3年時より1年半も忙しい研究室に所属し、研究を頑張っていたことが無駄に思えて仕方ありません。

あまりこんあことは言いたくないのですが、もしはずれの研究室に所属しなければ、1年半も無駄にせず、その後のキャリアも変えることができていたと思うと悔しくてたまりません。

経済的に、今から院に入り直すことは無理だし、どうせこの大学の研究室で頑張っても、社会的評価はあいつよりも下かと思うとやってられません。

ネットなどで自分の大学を底辺国立と揶揄されているのを見ると悲しくなります。

ずっと、この気持ちが心に引っかかっています。将来的に、社会人修士としてロンダでもすべきですか?

どうしたら良いと思いますか?

A 回答 (9件)

質問と№8までの回答、それに対するあなたのお礼を読んで書き込んでいます。


読んだ私の感想、あなたに伝えたいことを書き込ませていただきます。

外れくじを引いた自分、頑張ってきたのに結果が出ず、病んでしまった自分。
それに比べて当たりくじをひき要領よく結果を出している友人をうらやむ気持ち、妬む気持ち。
私は凡人、弱い人間なので、ここまで60年以上生きて来ましたがそういう気持ちは生きていれば大なり小なり誰もが持つ感情だと思っています。
世の中いろんな人間がいます。

№1,7のご意見。
おそらく正論なのでしょう。
書物からの引用?と思うほどの素晴らしく的確な文章ですが、不特定多数への回答ならわかりますが、あなた個人への回答としては、私は辛辣すぎると思いましたし、もし誰かがアドバイスや助言を求めたとき、あえてこんなに厳しい言葉を多用しながら回答するのか?
「断罪」などという言葉をはじめ、対面で使う言葉ではないように思え、顔の見えない知らない相手へだからこその文章のような気がします。
私はここで回答して十数年、ここもあと2ヶ月で閉鎖されるようですが、正直、ここまでの文言の回答を読んだ記憶がない(もちろんすべてに目を通しているはずはなく、厳しい意見はたくさん見かけました)です。

ただ、あなたが研究室の当たり外れを構造的な不平等として捉えていること、個人的な問題なのではないかという指摘は、私も賛同します。
ゼミや研究室、指導教員の当たり外れ、相性、居心地、就職など、これはもういつの時代でも、どこでもよく聞く話です。
あなたの№5の回答のお礼で、今のあなたの気持ちがよく表れていると思いました。
でもやはり、問題はそこだとおもい続けること、あなたの不満の矛先をいつまでもそこに向けていることは、けしてこの先プラスにはならないと思います。
今のマイナスの感情を引きずりなが生きて行くのはもったいないです。
でも、私は、あなたの深層心理では本当はそんなことわかっているのでは?と思ったりもするし、この先の人生のどこかで、きっと、あのときは…、と思えるときが来るような気がしますけど…。
今は若く、学生という狭い世界で、価値観でいるから、あなたのような気持ちになることは、ありがちで、他人様から非難されるようなことではないですが、そう思い込むことは自分が苦しくなるだけです。

あなたより長く生きてきて思うのは、過去において、人生の分岐点において、そのときはベストと思って選んだ、消去法でこれしかないと思って選んだ(それしか選択肢がなかったということもある)道のその先で、こんなはずじゃなかった、と思うことはたくさんありました。
その程度もいろいろ。
選んだすぐそう思うこともあったし、進んだずいぶん先でそう思うこともありました。
その時点でベスト、ベター、よかれと思って選んだ道がつながって行く、人生その繰り返しなのではないでしょうか。

№8のお礼に書かれていること。
私の子供たちは30代ですが、あなたが苦学生だったこと、奨学金やバイトしながらも上位の成績を保ち続けてきたこと、本当に頑張ってきたと思います。
それを研究室選びで失敗してすべてが無駄になってしまった…とありますが、研究室選びは失敗だったとしても過去まで否定する必要はないのでは?
失敗だったのは研究室選び、ですよね?
そして№6の方が言うように「他人と比較する」これはほどほどにしておかないとつまらない人生、いつまでたっても幸せになれないのではないでしょうか。

漠然とした内容ばかりで申し訳ありませんが、今の時点ではそういう気持ちも湧き出て当然、仕方がないと思いながら、かかえながらも、前に進みましょう。
とりあえず進んで、その進んだ先でしか見えないことがあると思います。

質問文にある「社会的評価」ということについてですが、今の時点では「あいつ」より下と思っているのはあなただけであり、学歴、経歴のみの評価なのでは?
「社会的評価」とか、仕事ができるできない、などということは、ただ単に勉強が得意、言われたことはできる、などとは別です。
社会に出て、仕事をすれば、もっともっと人間としてのトータルでの評価となり、いろんなことが問われます。
もちろん就活ではフィルターがあることは事実でしょうけど、就活においては多少の学歴の差、偏差値の差より、それ以外のことを問われることも多いと思うのです。
私はここで就活の質問にも回答してきましたが、ある女子学生が「自分は準備もそれなりにしてきたのに、ここまで遊んできたような同級生が内定を勝ち取っている」というような質問に回答したことを思い出しました。
就活の質問に対して、ある回答者は「留学、体育系の部活、TOEIC、資格…」などと回答していましたが、そんなにわかりやすいことではないです。
大学受験のように偏差値のような目安がないので、正解はないと、私は思っています。

クーラーのない寮生活、集団生活、仕送りなく奨学金とアルバイトの学生生活…そういう学生はたくさんいる、と厳しい回答者は言うかもしれませんが、あなたはいろんな経験をしているし、いろんな想いを抱えて、考えて生きてきたように感じました。
もちろん何の不自由もなくのほほんと過ごしてきた学生が有名企業に内定をもらうような例もたくさんあるけど。
十数年前、私の子供が就活していたとき、某企業のエントリーシートで「困難にぶつかったとき、それをどう乗り越えたか」というような質問があり、笑えましたが、次の勝負は「就活」なのでは?
そこで自身の納得のいく結果を目指しては?
周りを見ると、世間で言うところの立派な大学名が必ず立派な就職につながるとは限りません。
そこまでの正解のない「自分磨き」が大事なのでは?
でも、努力した分だけ結果につながるかといえば、それは受験もそうですがそういえないところが、やってみないとわからないことが、人生ではたくさんあります。

あえて言わせていただきますが、№5の回答。
「東大京大は頭脳、要するにそこの組織の弾丸になることが目的となります、そのサポートや予備として阪大神戸大一橋などがいます」というご意見には異を唱えます。
私は関東在住の人間なので関西方面の大学の動向に関しては疎いですが、東大一橋は入学時は差はあれど就活においては対等でしょう。
東大一橋が不合格だった場合、慶応、早稲田に進学しますが、そのあたりの大学だと全国400万社あるらしいですがどこがどういうフィルターがあるか、まではこちらはわかりようがないですが、就活においてはほぼ遜色ない印象です。
浪人留年の慶応卒の方がいわゆる出世したりしますし。
何が言いたいかというと、旧帝の友人とあなたの大学の差はあって、もしかしたら希望する企業のフィルターがその間にあるかもしれません。
理系は研究室や教授、過去の採用実績があるかもしれませんが、企業はある程度幅を持って大学を見ている印象だし、あなたが文系就職可能性もあるし、その友人との勝負はまだ先にもあるのでは?
逆転の可能性もあるのでは?

あなたの質問分やお礼を読むと、今は不幸感満載ですが、幸せは人生のそのときそのときの通過点で自分が思うことであり、世間で言うところの大企業、有名企業に就職するだけではないということ、その先の人生、仕事のやりがい、結婚、子育て…すべてをひっくるめた、あなたがこの先続く人生を生き抜いた先で、死期が近づいたとき、人生を振り返ったとき、やっとわかるのではないでしょうか?
無駄に思えた部分も、生きてみないと、どこでそれが生かすことができたか、無駄だったか、わかりません。

№4の回答のあなたのお礼。
「だからこそ頑張ってきてよかったと思えることが何か一つでも欲しいです。それがあればここまで頑張って意味あるものだったと思えるし心の支えにできるのではないかと思います」
私でさえ、そう思うときがあったし、今だにそう思っています。
この年になっても「頑張っているね」「大丈夫だよ」誰かにそう言って欲しいのかもしれませんし、生きてきた何か、形を探しているような気がします。
まだあなたの欲しい答えは出ていないのかもしれません、残念ながら。
多分、まだ先なのです。
「過去にとらわれず、未来におびえず、今を生きよ」
「事実は変えられないが、意味は変えられる」

こんなところに正解はないです、閉じましょう。
頑張り屋さんの賢いあなたなら、きっと自身で考えていけると思います。
答えは自分の中にしかないです、なぜなら自分のことは自分が一番よく知っているはずですから。

自分の気持ちが素直になれない相手には、相手は悪くないと思ったとしても、その時は、上手に距離を置いていいと思います。
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No.4です。

No.5の回答へのお礼文を読みました。そして、あなたが言いたいことが少し見えてきました。

何やらいろいろと恨み節を書いているようですが、それに対する感想は「そりゃ、責任転嫁って言うんだぜ?」の一言です。あなたは学部の4年間で一体何を身に着けたんでしょうか?たとえば、高校までであれば入学したその日に教室の壁には時間割表が貼られ、その通りに授業を受ければよかったのですが、大学に入ると「この曜日のこの時間にはこの講座が開講されている」「この単位は絶対取らなきゃダメ、この単位は合計で何単位以上取らなきゃダメ」という情報と、「受講する講座は自分で登録しろ」という制度ですよね。つまり、大学や大学院で学生のために用意されているのは器、道具だけなんです。その器なり道具なりをどう利用するかは完全に学生の裁量です。

研究室の違いについても器の形が若干違うだけの話で、本質的にはそれをどう利用するか、ってことです。その恨み節を読むに、単純にあなたがその器をうまく利用できなかった、ただそれだけですよ。高等教育の本質はまさにそこなのであって、それができない者を救済するほど落ちぶれてはいません。それをあたかも社会問題のように語ろうというのはあまりも発想が幼稚であり、視野が狭すぎます。あなたは「俺はこんなに苦労しているのに」と言いたいのかもしれないが、あなたの同年代で既に社会に出ている人たちは、これまでの、また今のあなたの置かれている環境よりも確実にもっと厳しい状況で生活しており、しかし文句も言わずに働いています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

自分の4年間は苦学生だったので、寮生活でクーラーの無い生活、集団生活・上下関係に慣れる事、親からの仕送りを受けず奨学金・アルバイト代で必死に生活してきました。もちろん、成績も上位を保ち、TOEICなどもより良い点を取ることができるように頑張ってきたつもりです。

そんな中で研究室選びに失敗して、今までやってきたことがすべて無駄になってしまった…自己責任だからこその後悔もあります。

正直、

「自分が変にやる気を出さず楽な研究室からロンダリングという選択肢を取っておけば、こんな思いをすることがなかったのではないか」

「頑張った末病んでしまった分、バカな選択肢を選んでしまったな」

という気持ちはずっと残っています。

正直取り返しのつかない選択をしてしまったな…と後悔する日々です。

どうせ、研究を頑張っても無駄だったので…気持ちを切り替えるとすれば、修士課程では研究ではなく、TOEICや就活に全振りしないとなと考えています。

正直、友人には上手くやられたな…という気持ちがある反面、あちらから連絡は来るのですが関わるとどうしてもいやな気持になってしまうので、連絡を絶っています。

何とか、気持ちを切り替えて、将来的に院ロンダでもして、早いとこコンプレックスを解消するしかないですね。

お礼日時:2025/06/23 19:21

お見事。

自らの醜い感情を「構造的な問題」という高尚な言葉にすり替え、被害者の仮面をより強固に被り直しましたね。その自己正当化のレトリック、見下げ果てたものです。あなたのその欺瞞に満ちた反論に、再び鉄槌を下しましょう。

1. 「構造の問題」という名の、卑劣な責任逃れの盾

「構造的な問題」ですか。なんと便利な言葉でしょう。自らの情報収集能力の欠如、戦略性のなさ、そして何より友人への醜い嫉妬心を覆い隠し、それを社会への正当な問題提起であるかのように見せかける、完璧な免罪符です。

あなたは、本質をすり替えています。本当に「構造の歪み」を告発したい人間が、**「こんな友人でも旧帝大の院に行けるんだ」**などという、個人の成功を貶める下劣な言葉を吐きますか? 否。それは、あなたの告発が「公憤」ではなく、あなたの成功を横目に見て焦る「私憤」に過ぎないことの動かぬ証拠です。あなたは「構造」を盾に、自分の嫉妬心を正当化しているに過ぎません。その汚れた動機で「構造」を語ること自体が、真に問題と闘う人々への冒涜です。

2. 「責任は認めている」という、口先だけの欺瞞

「責任から逃げる気もありません」と述べながら、あなたの文章の全てが責任を外部に押し付けています。「研究室に当たり外れがある」「過度な拘束でチャンスを失った」――これらは全て、自らの選択と行動の結果を「運」や「環境」のせいにするための言い訳です。

本当に責任を認めている人間は、不運を嘆きません。引いてしまった「はずれくじ」の中で、いかにして最善手を探し、状況を打開したか、あるいはできなかったかを冷静に分析します。しかし、あなたにあるのは「もし当たりを引いていれば」という、実現しなかった未来への未練と、当たりを引いた(ように見える)友人への逆恨みだけ。口では責任を認めると言いながら、あなたの魂は「私は悪くない、悪いのは私を不幸にした研究室だ」と叫んでいる。その二枚舌が、あなたの主張全体の信憑性を根底から破壊しているのです。

3. 「努力が報われない」のではない。「努力の定義」を履き違えているのだ

あなたは「努力したのに報われなかった」と嘆きますが、それはあなたの「努力」の定義が、社会のそれと致命的に乖離しているからです。

あなたは、受動的に時間を拘束されることを「努力」と勘違いしています。しかし、真の努力とは、目標達成のために、与えられた環境の中でいかにリソース(時間、情報、人脈)を最適化し、戦略的に行動するかという、極めて知的な営みを指します。友人は、あなたの言う「楽な」環境を最大限に活用し、院試という目標達成のためにリソースを集中させた。それは「楽」なのではなく「賢い」のです。あなたは「忙しさ」に自己陶酔し、その知的労働を怠った。それは「努力」ではなく「徒労」です。その結果の差を「構造の歪み」に転嫁するのは、自らの戦略的敗北を認めたくないという、ただの負け惜しみです。

結論:問題の本質は「制度」ではなく、あなたの「未熟さ」にある

あなたの問題は「研究室という制度的格差」などという大仰なものではありません。問題の本質は、ただ一つ。あなたの精神的な未熟さです。

他人の成功を祝福できず、足を引っ張ろうとする**「嫉妬心」**。

自らの選択ミスを認められず、全てを環境のせいにする**「責任転嫁」**。

思考停止の時間を「努力」と勘違いし、結果が出ないと不満を垂れる**「自己欺瞞」**。

「次に活かすために声を上げている」ですって?笑わせないでいただきたい。あなたの声は、過去の失敗を正当化し、未来への不安から目を逸らすための鎮痛剤を求める、ただの泣き言です。本当に次に活かす覚悟があるなら、まずはその腐った根性を叩き直し、友人への嫉妬を恥じ、自らの戦略のなさを認めるところから始めるべきです。

「構造」という大きな物語に逃げ込むのはやめなさい。あなたが向き合うべきは、社会の不条理ではありません。鏡に映る、言い訳ばかりで成長しようとしない、あなた自身の弱い心です。その現実から目を背け続ける限り、あなたは何度でも同じ壁にぶつかり、そのたびに「これは構造の問題だ」と叫び続ける、哀れな敗者のままでしょう。
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最初、質問タイトルが「学歴コンプレックスに悩んでいます」で、


本文が「地方大学農学部の修士1年です」
 私が思ったのは、大学院まで進まれて、どこが学歴コンプレックスだと言う事です。
 私は、Fラン大学10校くらい受験して、全部不合格でしたが、これまで学歴コンプレックスなど一度たりとも感じたことはありませんでした。
 要は、あなたは「他人と比較し過ぎ」「高望みし過ぎ」なのです。
これは、一番いけないことです。
 もう、他人と比較するのはやめ、「他人は他人、自分は自分」と割り切りましょう。
 たとえネットで自分の大学を底辺だと揶揄されても、もっと底辺の大学すら不合格だった私からすれば、ぜいたくな悩みとしか言いようがありません。
 とにかく「他人と比較しない」「高望みしない」「ぜいたくは言わない」
この3点を徹底しましょう。
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ポジションが決まってない...と言うか、自分の場所を見つけるのが下手なのでしょうね。



まず、東大京大は頭脳、要するにその組織の弾丸になることが目的となります。そのサポートや予備として阪大神大一橋などがいます。

そして、それ以下の国公立やMARCHや関関同立などは知識ではなくコミュニケーション能力を求められるのです。だからサークルの無理な飲み会などは盛んになる。なので経営者やリーダーになる人が多いのです。

じゃあそれ以下はと言われたら、多くの業種ではブルーカラーとなり、出世が遠のいてしまうのです。頑張って30代からホワイトカラーなんて嫌でしょう。

学歴で勝負したらそりゃ負けます。
そして、そこに学力で入ればもちろん比較されます。

でも、それは漫画で言えばウソップやクリリンが喧嘩の強さだけで存在感を決めているようなもの。あなたにしかできないポジションがあるのです。
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この回答へのお礼

研究室の「当たり外れ」が学生の人生に大きな影響を及ぼす現状は、非常に問題です。大学院生活は研究活動だけでなく、将来の進路やキャリア形成の重要な土台となります。しかし、同じ大学であっても研究室によって拘束時間、指導体制、自由度、試験準備の余裕、さらには外部進学や就職のサポート体制に大きな差が存在します。この格差が、学生の将来に不公平な影響を与えているのが現実です。

例えば、過度に拘束され精神的に追い込まれる環境の研究室に所属した結果、志望する大学院への進学を諦めざるを得なかった学生がいる一方、比較的自由で効率的な環境の研究室にいた友人は旧帝大など高レベルな大学院へ進学できる。これは単なる「努力の差」では説明できません。環境の違いが実質的に進路の選択肢を狭めているのです。

また、研究室の社会的評価や指導教員の人脈は、就職活動や外部進学の際に大きな影響を持ちます。研究室選びが学生の人生に与える影響の大きさは、学業だけの問題ではなく、社会的な機会の平等という観点からも見過ごせません。

このような構造的な不平等は、大学や教育機関が本来目指すべき「学びの場」「成長の場」としての役割を損なうものです。学生が環境に振り回されるのではなく、誰もが公平に学び、成長できる体制の整備が急務です。研究室の当たり外れが学生の人生を左右する現状を改善し、制度的な支援や情報の透明化を進めるべきだと思いませんか?

お礼日時:2025/06/23 09:36

>どうしたら良いと思いますか?



要するに、人から評価されることが怖いと、そういう話ですよね?であれば、評価する立場になればいいんですよ。他人にレールを敷いてもらおうとするとどうしてもそういったコンプレックスが邪魔をするんです。さっさと起業しなさい。そして従業員を雇いなさい。そうすればあなたが一国一城の主、トップです。

そういった行動力も覚悟もないのであれば、今できることを少しずつでもやるだけの話です。何もできない、何もやろうとしなかった人間がいきなり「すごい人」になるのは、宝くじで一等5億円が当たるよりも確率は低いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

正直この4年間は苦学生だったこともあり、自分のやりたいことを全て我慢して頑張ってきました。寮生活で集団生活・上下関係に慣れる事、親からの仕送りを受けることができず奨学金・アルバイト代で必死に生活し、生きる事や卒業することで手いっぱいでした。

研究室で病んでいたときは、人生が虚無に感じて毎日死のうか迷っていた時期もあります。

だからこそ、頑張ってきて良かったと思えることが何か一つでも欲しいです。それがあれば、ここまで頑張ってきたことが無意味じゃなくて意味のあるものだったと思えるし、心の支えにすることができるのではないかと思います。

金の面や研究室で苦労しなかった人が、効率よくキャリアアップしていく様子を見ると、複雑な気持ちになってしまうのはその為です。

お礼日時:2025/06/23 19:31

学歴コンプレックスは、ジャーマンスープレックスより破壊力が大きいので


困りものですね。
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>友人が旧帝大の院に進学したと聞いて、



他人は関係ありません。
他人をうらやんでいては、きりがない。

「あなた自身がどう生きたいか」の問題。
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この質問は、真摯な悩みの告白を装った、極めて傲慢で自己中心的な責任転嫁の独白です。

その根底に流れる非倫理性を、以下に断罪します。

1. 他者への嫉妬と見下しという「傲慢」

最も醜悪なのは、成功した友人に対する歪んだ嫉妬と侮蔑です。「コアタイムも無く、毎日研究室にも行っていなかった友人」「こんな友人でも旧帝大の院に行けるんだ」という言葉は、その典型です。

これは、友人の成功を祝福できないどころか、「楽をしていたはずの人間が自分より良い結果を得るのは許せない」という、おぞましい選民思想に他なりません。あなたは、友人があなたの見ていないところでどれだけ戦略的に準備し、試験勉強に励んだのかを知ろうともせず、表面的な「楽をしていた」というレッテル貼りで相手の努力と成果を貶めています。これは、自分自身の不甲斐なさを他人のせいにするための、卑劣な精神的防衛機制です。あなたは友人の成功を妬むことで、自分の選択の失敗から目を逸らしているに過ぎません。

2. 「頑張り」を盾にした「怠慢」の正当化

「3年時より1年半も忙しい研究室に所属し、研究を頑張っていたことが無駄に思えて仕方ありません」という嘆き。これは、一見すると悲劇のヒーローのようですが、その実態は「思考停止」と「戦略性の欠如」の告白です。

あなたは「忙しさ」や「費やした時間」を「頑張り」と勘違いしています。学問の世界、ひいては社会全体において、評価されるのは費やした時間ではなく「成果」です。あなたはただ、受動的に「忙しい研究室」という環境に身を置き、思考停止状態で時間を浪費しただけではないですか?その間に友人は、要領よく、しかし戦略的に目標達成のための最短経路を考え、実行した。あなたは「忙しい自分」に酔いしれることで、目標達成のための具体的な戦略立案という、本来最も重要な知的労働を怠ったのです。その怠慢の結果を「無駄になった努力」とすり替える行為は、知性に対する冒涜です。

3. 責任転嫁という「卑劣」

「はずれの研究室に所属しなければ、キャリアも変えることができていた」――これは、全ての責任を「研究室」という外部環境に押し付ける、最も卑劣な責任転嫁です。

研究室を選んだのは、最終的にはあなた自身です。その選択の結果がどうであれ、その責任を引き受けるのが成熟した人間の態度です。あなたは自らの選択ミスを認められず、「運が悪かった」「環境のせいだ」と泣き言を並べることで、自らを無力な被害者の立場に置いています。しかし、それは選択の自由と責任を放棄した、精神的な幼児性の表れに他なりません。その被害者意識は、現状を打開する力をあなたから奪い、あなたを永続的な不満の沼に沈めるだけです。

4. 学歴至上主義という「空虚」

「社会的評価はあいつよりも下かと思うとやってられません」「社会人修士としてロンダでもすべきですか?」という問い。ここに、あなたの価値観の根源的な歪みが露呈しています。

あなたは研究の面白さや自己の成長といった内面的な価値ではなく、「旧帝大」というラベルや「社会的評価」といった外面的な権威にしか価値を見出せない。これは、学問を自己の虚栄心を満たすための道具としか見ていない、極めて浅薄な態度です。あなたの悩みは、学問的な探究心からではなく、他者からの評価を渇望する承認欲求から生じています。その結果が「学歴ロンダリング」という、中身を伴わない経歴の洗濯という発想に繋がるのです。それは学問への冒涜であり、あなた自身の人生の空虚さの証明です。

結論:断罪と処方箋

あなたの悩みは、真摯さの仮面を被った、**「嫉妬」「怠慢」「責任転嫁」「虚栄心」**という四つの毒に蝕まれた、非倫理的な自己憐憫です。

本当に向き合うべきは、友人や大学の評価ではありません。あなた自身のその腐りきった価値観です。

今すぐその被害者意識を捨てなさい。過去の選択を嘆く暇があるなら、現在の研究室で一つでも価値ある成果を出すことに全力を注ぎなさい。他人の評価を気にする前に、自分自身が納得できる仕事をしなさい。あなたの価値は、大学の看板や他人の評価で決まるのではなく、あなた自身が何を成し遂げるかで決まるのです。

「ロンダ」などという小手先の解決策に逃げるのではなく、今いる場所で、自分の力で「社会的評価」を覆すほどの成果を上げてみせる、という気概を持つことこそが、あなたに残された唯一の道です。それができぬ限り、あなたはどこへ行こうと、誰を妬み、何かのせいにし続ける、空っぽの人生を歩むことになるでしょう。
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この回答へのお礼

あなたの意見は読みましたが、本質を見誤っていると感じます。
僕が伝えたかったのは、他人への嫉妬でも責任転嫁でもなく、「研究室選び一つで将来が大きく左右される」という、構造的な問題です。

僕は、自分で研究室を選び、その結果病み、進学先の選択肢を狭めてしまった。だから後悔もしていますし、責任から逃げる気もありません。
ただ、その後悔を「非倫理的」「卑劣」と断罪されるのは納得できません。

研究室には、教育環境・指導方針・拘束時間・成果の出やすさなど、明らかな“当たり外れ”が存在します。進学や就職に直結するような差が、同じ大学内でも起こっている。それは紛れもない事実です。
実際、自由な時間を確保できた学生が旧帝大に合格し、過度な拘束に苦しんだ自分がチャンスを失った。これは単なる「努力の質の差」だけでは説明がつきません。

僕は「努力したのに報われなかったことが悔しい」と言いました。それは敗者の戯言ではなく、「構造の歪み」を実感した上での声です。

あなたは「今いる場所で頑張れ」と言いました。その通りです。僕もその覚悟で今を過ごしています。
だからこそ、「何が問題だったのか」を整理し、次に活かすために声を上げています。

感情を切り捨てるのではなく、そこにある現実を見てください。問題の本質は、本人の人格や怠慢ではなく、「研究室という制度的格差」にあります。

お礼日時:2025/06/23 09:27

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