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義経は平家追討の功労者だったのに、平家滅亡後まもなく仲たがいをしてしまいました。
実の兄弟なので多少の行き違いがあっても話せばなんとかなるとおもうのですが、両者の関係が決定的に悪くなった原因はなんでしょうか?
人間性によるところが大きいのでしょうか、それとも政治的なものでしょうか。

よろしくお願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

判官贔屓のせいか、江戸時代以降現代に至るまで義経に人気があり、頼朝はあまり好かれていないようです。

このため、ほとんど歴史ドラマのごとき論がでてくるわけですが。

根本的にめざしているものが違う以上、「実の兄弟なので多少の行き違いがあっても話せばなんとかなる」という事にならないと思います。平安時代史を調べると(たとえば岩波新書「平安王朝」)兄弟で政治的に敵であった例はもう山ほどあるわけで。とりわけ新興武士階級の場合、それまでの朝廷の官位の権威ではなくずばり武力をもって支配を行う以上、対立はすぐさま暴力的になります。

また、#2さんなども書いておられますが、その背景とする勢力が頼朝と義経では違います。頼朝のうしろだては関東の武士団で、その中には実は清盛流以外の桓武平氏も多々ありました(とりわけ北条氏)。またこの時点で頼朝が源氏の棟梁であった、というのは正しくありません。清和源氏の嫡流ではあっても清和源氏そのものが諸源氏のなかでは地位が低く、むしろ清盛一党と対立して敗れた義朝の嫡男としての位置がここでは重要でしょう。そういうものとして関東の平氏や源氏をふくむ武士団の共立する将に選ばれたのだと思います。

一方義経はその最大の庇護者は奥州藤原氏で、これは関東とはまたちがった政治勢力でした。

さらに打倒された勢力の「平家」とされているのは6流ある桓武平氏のうち平高望の流れのなかのいわゆる伊勢平氏のうちの清盛に近い一党なのであって、たとえば北条氏と清盛では6代前が同じ、というこの当時としてはほとんど別の一族です。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01100. …
こういうことを考えてみても、小さい頃から一緒に育ったわけでもない、違う勢力の代表である兄弟はもともと潜在敵であったわけです。
つまり、奥州勢力と関東勢力の連合がが西国中心の平氏清盛流と争った、というのが事の真相であり、その際、関東の求めたものはいってみれば関東の独立(というと言い過ぎでしょうが)でしょう。この場合、あくまで敵を倒すための連合ですから、その後は一方が完全に屈服しない限り対立は続きます。北の勢力は関東にとっては放置するには大きすぎる勢力ですから。

というわけで、もともと対立する可能性の方がずっと大きかったので、その通りになっただけでしょう。
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少々誤解のある論もあるようなのでひとこと。



当時において、清和源氏の正統であることがさほど大きな権威を持っていたわけでゃないことに注意してください。

実際清和源氏で源氏長者になったのは足利義満が最初であり、それまでは嵯峨源氏、村上源氏が源氏長者でした。また、その後も江戸時代になるまでは村上源氏の久我氏が何度も源氏長者をにない、徳川慶喜が大政奉還後、最後の源氏長者もまた久我建通です。
このように天皇家の子孫・広い意味としての皇族、という源氏の権威は少なくとも平安末期から鎌倉初期の清和源氏にはありません。というかその程度の皇別氏族ならごろごろいました。

そうではなく、清盛一党への対立者として、かつて清盛と正面切ってたたかった(敗れたとは言え)一方の旗頭たる源義家の嫡男である、ということをもって「反『平家』(実は桓武平氏清盛流とその郎党)勢力」の旗頭(というか代表)になった、ということでしょう。ま、君側の姦を討つ、というあれですね。

そういう政治的に擁立された「東国代表」程度のものと考えた方がわかりやすいでしょう。その点で義経は東国勢力とは異なる勢力を背景にしていますから、もともと潜在的には敵になりうるものだったわけです。
つまり東国勢力による反「清盛一党」連合の内部の粛清であると見た方がすっきりします。
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>足利直義も結局尊氏(の手のもの)によって毒殺?されていますし、養子(実は自分の子)の直冬を攻撃しています。


権力が絡むと、親子兄弟どうでもよくなるんでしょうな。

それは承知してますが、そうならないためにも芽は早めに摘むべきと思います。
結局、早い段階で弟を切らなかったために、滅亡寸前の南朝が息を吹き返し、息子の直冬が九州で反幕勢力を樹立しますから、もし頼朝が義経を切らなければと言う見本になるかなと思います。

http://www.ryomonet.co.jp/p-soft/minami/minami03 …
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思うに、政治的な部分が大だったと思います。


#9の方のいうように、頼朝は、所詮関東武者の旗印に過ぎず、旗は1本でいいということでしょう。

>#10さん
足利直義も結局尊氏(の手のもの)によって毒殺?されていますし、養子(実は自分の子)の直冬を攻撃しています。
権力が絡むと、親子兄弟どうでもよくなるんでしょうな。
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大体正解も出てますが、頼朝の行為は権力者としては妥当な物と思います。


よく引き合いに出される話しですが、日本で幕府を開いた武将は3人います。
頼朝、足利尊氏、徳川家康。
この中で、足利尊氏は一番人間味のある武将で、戦いには勇敢に挑み、部下には思いやりがあり、物惜しみをせずに気前良く恩賞を与え、家族も大切にしました。
頼朝はご承知のように弟の義経と範頼を殺してますし、家康も長男信康と妻の築山を殺し、次男の秀康は捨て子にして、9男の徳川義直より前に生まれた子供達には、これが親のすることかというくらい非情な扱いをします。
尊氏のみは弟の直義と仲が良く、大切に扱いますが、その為政局の中心が2つになって内乱が絶えず、幕府の政権も脆弱な物になります。
足利兄弟の生き方を見ていけば、何故頼朝が弟達を殺したか分かると思います。

http://www.tabiken.com/history/doc/A/A077L100.HTM
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私は、主犯東国武士団説を採ります。


説明の前に、「実の兄弟なのに」の部分ですが、母親を同じにしない兄弟は他人より仲が悪いようです。また、兄弟よりも乳兄弟関係の方が、厚い紐帯で結ばれているようです。頼朝が流されていたときに支援したのが乳母の比企氏だったりします。

大体、歴史上の人物は、直近の世代の成功例を参考にします。頼朝が参考にすべきは、あるいは参考に出来たのは、平清盛ということになります。
とすると、平清盛モデルは、一族郎党を出世させて貴族にしてしまい、政権を安定化すると言うこと。失敗例は頼朝の父親やその祖父などの例になり、一族で内紛してしまった。
なので、普通に考えれば、頼朝は清盛こそよい前例であり、学ぶべきスタイル。
ところが、東国武士団にとっては、かぶるべき帽子は、多くなればなるほど、自分らの取り分が減るという悪いモデルになります。それで、源氏の血統を引く人物を減らすようにしたのではないでしょうか。
義経が源氏の血統上ライバルになるから、頼朝が排除したという説もありますが、当時は母系の血統がどのくらい高いかによって、嫡出が決まる時代ですので、頼朝としては、義経の血統は話にならないという感じだったと思われます。
平治の乱の段階で数え20歳であった長兄義平が無官であったのに対して頼朝が13歳にして、すでに任官されていたことでも分かります。
義平母:三浦氏
頼朝母:熱田神宮大宮職

頼朝と義経が仲が悪かったというのは、北条氏が、自己正当化のために作った吾妻鏡の言い分だと思います。
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戦いにおいて非戦闘員の虐殺を命令した武将です。


頼朝だけでなく、他の清廉な武士たちからも嫌われていたと思います。
それと政治的能力の欠如。
いつまでも庇えるものでも無かったのでしょう。

純粋さ故の残虐性を秘めていた人間ですね。
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#2(政治的理由)に補足します。



人間的な面に目を向けると、
源氏の棟梁の血筋でありながら(平家に)助命された頼朝は、北条氏(平家一門=敵)の監視のもとで、風向きしだいではいつ命を奪われるかわからない孤独な日々を送ることになりますよね。そうすると、「生き延びる」ために何をなすべきか、誰が敵で誰が味方か、という感覚が鋭くなるんじゃないでしょうか。
一方、義経は幼いころから京都に住み、平家や公家たちとのつながりもそれなりにある。奥州に行ってからは秀衡に気に入られ・・・。要するに頼朝のような孤立無援とはちょっと違う、まあ頼朝に比べれば苦労を知らない(楽天家)といえるんじゃないでしょうか。

それが、#3さんご指摘のように「お前の主人はいったい誰か?(京都か鎌倉か?)」というような高度な政治判断をできなくしたんじゃないでしょうか。
また軍事的天才でかつ政治的才能もある、という歴史上の人物はそういないようです。(これも面白いテーマと思いますが)
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こんにちは。


主な頼朝の感情としては、先の方々の通りだと思いますが、政治的に言うならば、官位を受けたまではぎりぎり許せても、3種の神器のうち一つを紛失し、おまけに無事回収した二つを朝廷に返してしまったというのは大変な失態で、現在の政治家で言えば、総理大臣でさえ首になるような大失態です。

これによって、頼朝は自分の考えはどうであれ、厳重な処罰をしなければ、源氏の棟梁として自分の身が危うくなったでしょう。

歴史にIFはありませんが、もしも義経が残りの二つの神器を持参して鎌倉に戻れば英雄として迎えられた可能性が高いと思います。
その位、この外交上の失敗は、重大だったといえると思います。
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政治的・人間性両方だと思います。


そもそも平家は上方で貴族の真似事のようなことをして実権を握り、我もの顔でいたために、皇族・貴族・上方の庶民みんなに嫌われていました。平家を倒した張本人である義経は彼らの支持を得ました。また、鎌倉で上方とは一線を画しドカッと座っているだけの頼朝に対し、そんな中で義経は彼らとの交流を深めていったので、ますます人望が厚くなっていきました。上方で人気を集める義経に危機感を抱いた頼朝は、鎌倉に戻るよう命じましたが、義経はこれを無視。さらに義経は交流を深めた後白河法皇から、頼朝の許可なく位をもらうなどしたために、頼朝は義経を討つことを決心します。始めは義経を支持していた後白河も、義経が京都を追われると頼朝支持に移ってしまいます。

全体の流れとしてはこんな感じです。他にも、兄弟の対立は後白河の策略だったとか、後白河は頼朝に脅されて義経を見限り、義経は京都を追われたなど、いろんな説もあります。義経は「平家を倒したのは自分だ」という自負から、頼朝に反抗的になったとも言えるでしょう。
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