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よくテレビドラマで、織田信長が「本能寺の変」で死ぬ間際に詩?を詠んだと伝えていますが、死ぬとき一人だったのにどうして詠んだとかわかるのでしょうか?かなり疑問です。

誰だったかは忘れてしまいましたが、織田信長だけではなく他の人も何人かあったと思います。

お分かりの方は宜しくお願いいたします。

A 回答 (5件)

多分、質問者様がおっしゃっておられるのは「敦盛」のことでしょう。


信長が本能寺の際にお気に入りに「敦盛」の「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり~」の一節を謡いながら舞ったと言われています。
その後切腹し、森蘭丸らの側近の者が信長の首級を敵に(光秀方に)奪われないように火を掛けたのだと思います。

また、「他の人も」とのコトですが、一般に辞世の句といいまして、死に際に短歌や句を残すのが嗜みとされていたわけです。死に際にパッと詠めればよいのですが、死期を悟るとあらかじめ用意したりするもするようで。
えーと、例えば高杉晋作の「おもしろきことも無き世をおもしろく」の上の句で絶句してしまい、とっさに下の句を野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」と付けた話などは有名です。
「辞世」「辞世の句」などでググルと色々と出てくると思います。

この回答への補足

早速の回答ありがとうございます。
私がみたドラマでは信長は、火が掛った部屋で障子を閉めて一人になり、すぐ切腹して
>人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり~
と書かれた画面がでていました。
夢幻と書かれていたことは覚えているのでおそらくこれだと思います。

とすると、一人になったのは間違いで側近が見ていながら謡いながら舞って、切腹し、
>森蘭丸らの側近の者が信長の首級を敵に(光秀方に)奪われないように火を掛けたのだと思います。

ということでしょうか?

そうだとしたらなぜTVドラマではあのようなかたちで演じられていたのでしょうか。。。紛らわしいな~と思ってしまうのは私だけでしょうか。

補足日時:2005/09/25 01:51
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ドラマですからね~。


紛らわしいって言うかいい加減なものが多いですよね。時代考証してるとは思えないものとか。映画でも良くありますけど。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
ドラマのための演出だったのですね。納得できました。ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/25 19:10

あれはドラマの演出です。


「信長公記」には信長の最後の詳細は書かれてません。ただ討たれたという事実だけ書かれています。
○弓をとって戦ったけど弓の弦が切れた
○しかたないから槍で戦った
○本能寺にいた女性たちに早く逃げるように促した
○人に見られないように奥に引っ込んで自裁した
というのが「信長公記」にある信長の最後で、これが公に残っている事実?のすべてです。ですから自裁する前に舞を舞ったり、詩を残したりというのはドラマの演出です。
信長の自裁の前にすでに本能寺は燃えていたと「信長公記」にあります。
だから放火したのは光秀で、信長の側近ではありません。
ただ、記録に残ってなくても、信長が舞を舞った方がドラマとしては感動的じゃないでしょうか。それぐらいの演出がないとドラマがドラマである必要がなくなってしまいますし。時代考証を全部まともにやったら、江戸の人たちのほとんどが疱瘡でアバタの顔になり、結婚女性は皆、眉なしお歯黒べったりの世界で、ドラマ以前に異次元ワールドのような映像になってしまいます。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

ドラマの演出だったとわかり疑問が解けました。ありがとうございました。

>記録に残ってなくても、信長が舞を舞った方がドラマとしては感動的じゃないでしょうか~

確かにそうですよね。ドラマやテレビの場合面白さや興味を惹くものであることも要求されますからね。

歴史ドラマだけではなく本のドラマ化や映画化等は多少の演出があったことを思い出しました。同じく考えれば納得できます。正しく理解するにはやはり原作本を見ないと本当のことが理解できないと改めて実感しました。ドラマや映画は原作本の興味を惹くための宣伝?見たいな物、簡単に理解できるあらすじ見たいな物と思えば何の不満も起こりません。ありがとうございました。

補足日時:2005/09/25 19:21
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私も以前疑問に思ったことがあります。


太平記の楠正成ですが、湊川の戦いで

湊川の民家に入った楠木一族十三人、その家来六十余人が客間に並んで座り、念仏を唱えて一斉に腹を切った。最期に上座に座った正成は、弟 正季に向かって「来世では何を願うか」と問うと、正季は「七生まで、ただ同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と答えた。それを聞いた正成は、嬉しそうに「罪業深き悪念なれども、われもかやうに思うなり、いざさらば同じく生を替えてこの本懐を達せん」と約束して、兄弟ともに刀を刺し違えて死んだ。

と書いてあるのですが、楠兄弟に先立って関係者全員がここで死んでいますから、最後の様子を誰が伝えたのかと、突っ込みを入れたくなりました。
「七生報国」という言葉は有名になりましたが。

本能寺でも
>「女はくるしからず、急ぎ罷出でよと仰せられ、追出させれ、既に御殿に火を懸け焼来り候

と、侍女達は火をかける前に逃げてますから、彼女達の目撃した光景が信長の最後ということになります。
こうした状況証拠と、普段の信長の行動から多分ということで演出したのではないかな。

主な武将の辞世の句
http://www.m-network.com/sengoku/senjisei.html

この回答への補足

回答ありがとうございます。
同じような疑問をお持ちの方がいらっしゃってうれしいです。周りに歴史に詳しい人がいなくて悩んでいました。インターネットってこうゆうことがいいですよね。

>彼女達の目撃した光景が信長の最後ということになります。

ということは、森蘭丸が最後に見たのではなく侍女達が信長を最後に見たということになるのでしょうか?
N0.3様に記載されているだけが事実と考えると、ドラマで森蘭丸が最後にあったというのも演出であるということになるのしょうか?

>こうした状況証拠と、普段の信長の行動から多分ということで演出したのではないかな。
ということでしょうか?


あと、楠正成の話も演出ということでしょうか?
そうだとしたら楠木兄弟が歌を詠んだかも実際のところはわからないということなのでしょうか?
だとしたら、太平記の兄弟のやり取りの辞世の句は後から誰かが付け足したということなのでしょうか?

質問攻めしてすみません。

ご存知でしたら宜しくお願いいたします。


確かに事実をそのまま放送するよりかっこいいですよね。

補足日時:2005/09/25 19:28
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私も疑問を抱いていました。


楠木正成の話は最後の家の壁越しにでもなければ聞けない筈でと不審でした。

おそらく太平記語りの法師が創造したものか、南朝方の創作が伝播したと見るのが妥当でしょう。

織田信長の場合は、森蘭丸は別の場所で明智方の武将四方田政孝に討ち取られています。 信長の身辺にいたのは別の小姓でしょう。
もしくは誰もいなかった。
この話も謡曲を好んだ信長にかこつけた創作でしょう。
昔の武将は最後の時に女性を身辺に置くことはないもので、女性の脱出はかなり早い段階の筈ですから疑問はあります。

昔の人は臨終の苦しい息の下で辞世の句を詠んだといいますが、これも以前に辞世の句を作っていたのが正しいといいます。

全て後世の創作と考えると味けないですが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私の他にも同じ疑問をお持ちの方がいてうれしいです。

映画やドラマもつまらないものという見方をすると面白くなくなってしまいますね。知れば知る知るほど夢をみなくなってしまうのと似てる感じですね。ただ、間違い探しをするつもりで観たり、本当は誰もわからないことなんだ、と自分だけの楽しみになったり、脚本家がみんなが歴史を面白いと思えるように考えて映像にしたんだ、その脚本家って想像力ある人なんだなーと考えたら楽しくなってきました。なんでも自分の物事の捉え方次第ですね。
ただ、今回事実を知ることができてよかったです。危うく創作を事実と勘違いしそうでした。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/30 04:42

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