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昭和天皇がマッカーサーを最初に訪問したおり
「私が全責任を負う」との発言がマ元帥をひどく感動させ、その後の占領政策にも大いなる影響を与えたという逸話がいろいろな本に書かれていますよね。
どうもマッカーサーはあちこちでこのことを言いふらしていたふしがあるようですが、一方の昭和天皇御自身は「男子の一言」としてお語りにはならなかったようです。
ところが最近(平成14年10月17日)日本外務省が公開した会見録には、こういった天皇発言は見当たらないと云うではありませんか。
(東京裁判がよくわかる本 太平洋戦争研究会・著)
この件に関してご存じの方がいらっしゃいましたら教えていただけないでしょうか。
またこの外務省の会見録というのは、我々でも見ることができるのでしょうか?

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A 回答 (5件)

〔まとめ〕


天皇・マッカーサー第1回会見での「朕が全責任を負う」発言は、
(1) マッカーサー回想録にある。
(2) 2002年10月17日外務省公開の公式記録にはない。
(3) 2002年8月5日朝日新聞が公表した「松井明手記」によると、奥村勝蔵が削除したと、松井は奥村から直接聞いたという(奥村、松井は外務省高官。奥村はこの会見の通訳、松井は奥村の後任の通訳)。
(4) しかし、松井の言うように奥村が削除したかどうか、研究者の間でも定説がない。「朕が全責任を負う」発言自体なかったのか?

〔解説〕
浅学の私が、嵩にかかったような言い方をするのはおかしいですが、ご質問者は下手(したて)に出過ぎのようです。この件に関して、世間の俗説(マッカーサー回想録が出どころ)よりも正しい知識をお持ちなのですから。信頼性から言って、
日本外務省が公開した会見録 > マッカーサー回想録
です。マッカーサーは自分を美化する癖があり、回想録は少なからぬウソを指摘されています(回想録の訳者が、下巻366ページで次のように注釈しているそうです。マッカーサー自身、回想録を「完全な『歴史』とは考えてなかったものであり、読む方でも『歴史』として受取るべきではない」)。

ここで、ちょっと不等号を連発して、物事の大小を確認しましょう。まず、敗戦当時の日本では、
国体護持 > その他もろもろ
でした。ポツダム宣言受諾が遅れたのは、米国から天皇制維持の言質を取ろうとしたからです。その間に、原爆は落とされるわ(むしろ米国は、投下前に日本が降伏しないように逆算していたらしい)、ソ連は参戦してくるわ(ヤルタ協定の秘密条項の発動)。「朕が全責任を負う」発言は、これほど後生大事だった「国体」を危険にさらすことに他なりません。昭和天皇は、言っていいことと悪いことの区別がつかなかったのでしょうか?
また、当時からシビリアン・コントロールの米国においては、
大統領(ホワイトハウス高官、有力議員) > マッカーサー
です(形式的には、極東委員会 > マッカーサー)。Hirohito を戦犯にするか免責するかは、マッカーサーが「感動」したくらいでは左右できず、もっと上層部(米本国)でないと決められません。
法律的なことを言うと、昭和天皇は戦前から立憲主義者で、
憲法 > 天皇
であることを認めていました。その旧憲法第3条は天皇無答責を定めています。つまり法的責任は免除ですから、天皇が「全責任を負う」と言うのは矛盾しています(政治的責任・道義的責任があるとしても、「全責任」ではない)。

要するに、「朕が全責任を負う」の話は、田舎芝居の筋書きレベルなのです。前述のように、物事の大小関係から言って、寸法が合わないじゃありませんか。もちろんご質問者はそれらを承知の上で、「事実は小説より奇なりかも知れない。虚言癖のあるマッカーサーが、真実を言ってたりして」と質問なさったのだと思いますが。
こんな安っぽい美談が、教育水準の高い日本でなぜ信じ続けられているのでしょうか。私は、白黒の古いニュース映像で見たプロレスを思い出すのです。力道山が悪役外人レスラーをやっつけるという、お決まりの筋書きでした。会場は超満員で、立派な身なりをした中年以上の男の多さが目に付きます。当時まだ日本は貧しく、さしずめ学校出のインテリなどで、会社や役所でそこそこ出世した人たちでしょう。その人たちが、「日本男児が卑怯なガイジンに勝つ」という八百長ショーに熱狂していたのです(力道山がキム・シンラクだったことは、当時知られていなかった)。

〔参考〕
毎日新聞によると、宮内庁は2002年10月24日、同庁が所蔵する第1回会見の公式記録を開示した。その内容は、外務省が17日に公開した記録と全く同一で、同省の用紙に和文タイプで記されており、同庁はカーボン紙を使って作られたうちの1セットと見ている。印字は同省所管のものよりやや薄かった。昭和天皇が自らの戦争責任を認めた個所はなかった。

前出の奥村勝蔵によると、第1回会見の冒頭は次の通り。
「初めの挨拶が一応済むと、元帥の語調がサッと変わり、演説めいた調子(相当力強キ語調ヲ以テ約20分ニワタリ)滔々とやり出した。(中略)演説口調の合の手に、私に向って厳然と『テル・ジ・エンペラー』(天皇に告げよ)といった言葉が、鋭く私の耳にひびいた」
衝撃の写真(田村譲・松山大教授)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/potyudam …

昭和天皇は本格的な軍事教育を受けた人だった。天皇・マッカーサー会見は11回(1945年9月27日~51年4月15日)、天皇・リッジウェー会見は7回(51年5月2日~52年5月10日)行われた。リッジウェーはマッカーサーの後任。
天皇・リッジウェー会見(ネットジャーナル「Q」)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no17.htm
朝鮮戦争さなかの51年5月に始まるリッジウェー会見で天皇は「(国連軍の)士気は」「制空権は」など一貫して戦況について質問。
滴水亭
http://www.asahi-net.or.jp/~MI6M-FRYM/diary/2002 …
(天皇はリッジウェーに)「目下、共産側は大攻勢に転ずる兆候はないとのことであるが、仮に大攻勢に転じた場合、米軍は原子兵器を使用されるお考えはあるか? この問題に対してはおそらく貴司令官も答弁する立場にないと言われるかもしれないが?」などと質問している(引用終わり)
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この回答へのお礼

そこまでくわしく解説いただいてまことに恐縮いたします。特に〔まとめ〕で教えてくださった項目がとても参考になりました。それにプロレスの例えも実に的を射ている感をお受けします。いろいろな資料をつき合わせて考えますに、敗戦から東京裁判・判決までの流れは、多分に政治ショー(儀式)の要素が強いようですね。
かといっていつ「お約束」がやぶられるかもしれない。「全責任を負う」とおっしゃったか否かは別にして、GHQ本部に乗り込んでいかれるときの陛下は、そうとうの勇気が要ったことでしょうね。

お礼日時:2006/06/04 05:26

マッカーサー自体が、乃木マレ輔を崇拝し、


師と仰いでいました。

島国でありながら大国と渡り合う国家に
彼は、相当な注意を注いでいました。

元々、日本びいきであった訳です。

マッカーサーは、天皇を良く理解し、
親交も厚かったようです。

「天皇を死刑にした場合、
日本の治安は維持出来ない。
大暴動が発生し、現在の5倍の軍隊を必要とする。」

これは、昭和天皇と仲が良かった為に「嘘」をついて天皇をかばったのです。

また、マッカーサーの助言により、
日本の4分割、南北日本の構想も消滅しました。

>全責任を負う
私が死刑になり、この問題を解決したい。

これは違います。

>責任の全ては私にあります。

私一人が悪いのであって、
日本の責任は全て私にあります。
一億の国民や軍人は
全く悪くはありません。

こう言う人間であった事は事実であるようです。

平成天皇が、
一般庶民から皇后を選ぶ事が出来たのも、

昭和天皇の反対が無かった事が大きいです。

特に、昭和天皇の
子供の育て方(偉い、家柄、お金、)

こう言う、違う方面の価値観の重視や、
風習と言う概念、良し悪し、更に行動力。

こう言う思想は
受け継がれるものです。
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この回答へのお礼

天皇家の持つ債券を風呂敷包みにして面会したという本まであるようですから
おそらくそういう方だったのでしょうね。
有難うございます

お礼日時:2006/06/03 19:13

お読みになった「東京裁判がよくわかる本」はご指摘の「日本外務省が公開した会見録には、こういった天皇発言は見当たらない」というのは事実であっても、それだけで昭和天皇が「私が全責任を負う」とは言っていない証拠にはならないと思います。

#2の方の回答がお詳しいですが、私も同意見です。
ちなみに、お読みになった「東京裁判がよくわかる本」を私は読んでいませんが、著した「太平洋戦争研究会」の他の本は読んだことがあります。
どうも、全て日本が悪かったという主義主張が強くて一方的に日本を責める記述が多いという感想を持ちました。
太平洋戦争研究会著の「満州帝国」という本でも、日本側が行った事実を述べるだけで、なぜ日本がそういう行動をとったのか(とらざるを得なかったのか)や、逆に日本人はどのような目に遭わされていたのかなどの考証や言及がほとんど見られなかったので、そのまま受け止めれば過去の日本は非道な民族と言う印象になってしまいそうでした。
どうも、あるイデオロギーありきで中立的な観点の会ではなさそうなので、それを念頭に読まないといけないと思います。

amazonのレビューで、「参考文献には岩波、朝日などが並んでいて、執筆者も不明確」と指摘している方もいますので、それだけでも偏見がある本と言っても良いかと思います。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569664 …
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この回答へのお礼

昭和天皇のお人柄からいって自慢話をなさるはずはなかっらだろうと私も想像します。
レビューは「買って損した」ですか。図書館で借りた本ですのでご安心ください。

お礼日時:2006/06/03 16:55

この発言はマッカーサーと昭和天皇のサシの会談での出来事であったとマッカーサーの回顧録には記されています。


で、この会談の内容なのですが、わかっていません。

内容をうかがわせるものはこの回顧録程度で、ほかはいわゆる通訳からもれてきた程度でして、天皇は質問者さんの言うとおり、男子の一言、として会談の内容は語らず、マッカーサーもまた、回顧録に載せた以上のことは語らず、両人とも墓場の中にもっていってしまったのです。
つまり、どちらも意向としては内容は秘密なのです。
天皇が「これは男子の一言だから~」とでも言えば外務省も公式記録から大部分を消すなどの配慮を見せた可能性はあります(実際はどうか知りませんけど、お役所仕事というのはえてしてその程度)。
そもそも公式記録というもの自体に問題があり、あのときの会談において実際に聞いていたのはマッカーサーと通訳のフォービン・バワーズ少佐、そして副官のボナー・フェラーズ代将、昭和天皇、そして通訳の奥村勝蔵の5人です。

つまり書記などがいないのです。となればその公式記録も「奥村メモ」が元になっているのではないでしょうか?このメモにはその言葉がないことは昔から知られています。
しかし、その言葉については向こう側の通訳が「あった」としています。
どうもこのあたりに回答のヒントがありそうです。
もしかしたら、通訳の食い違いがあった可能性はあります。当時の通訳は全般的に優秀かどうかといわれると疑問符が多くつきます。通訳同士の解釈が食い違ったのかもしれません(実際に極東軍事裁判でちぐはぐな通訳になったことが多々あったようです)。
なぜなら話している当事者は言葉はわからず、わかっているのは通訳の2人だけなのですから、ありえます。
それに、会話というのはある程度食い違っても結構成立してしまうものです。
まあ、仮説の域はでませんが、参考程度に。

ただ、マッカーサーの論ではあの会談の後では明らかに天皇廃止反対に傾いていることから、あの会談においてマッカーサーの心を動かす何かがあったのは間違いないかと思われます。
参考サイトとしては2つほど・・

http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist …

参考URL:http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/kaike …
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この回答へのお礼

公式記録とはその奥村メモが元になっている可能性がありそうですね。
詳しい解説を伺っておりますと、koon1600さんの分析なさるところが真相なのでは、という気がしてまいりました。

お礼日時:2006/06/03 09:53

個人的に本当に言ったか怪しいとおもいます


単に占領しやすいから天皇を殺さなかっただけでしょう
この一言を言おうが言うまいが占領政策が変わるなんてありえない 天皇を残す大儀を内外に示す必要があるためにこの発言をもちだしたのでしょう 私はこの発言を見ると感動ではなく おまえそんなにすごい存在なのかよ と思ってしまう
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この回答へのお礼

もう60年も前の話で、しかも敗戦直後の密室会談ですので、いろいろな見方ができるのでしょうね。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/06/03 09:57

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 その場合、その側室である女性はどういう人だったのでしょうか。側室の人も公表されて系統図に残るのでしょうか。

Aベストアンサー

今上天皇
皇后・正田美智子…父:日清製粉社長 正田英三郎
側室なし

昭和天皇
皇后・良子女王(香淳皇后)【今上天皇の生母】…父:久邇宮 邦彦王
側室なし

大正天皇
皇后・九条節子(貞明皇后)【昭和天皇の生母】…父:従一位大勲位公爵 九条道孝
側室なし

明治天皇
皇后・一条美子(昭憲皇太后)…父:左大臣従一位 一条忠香
側室 権典侍・葉室光子…父:権大納言 葉室長順
    典侍・橋本夏子…父:橋本實麗
    権典侍・柳原愛子【大正天皇の生母】…父:権大納言 柳原愛光
    権典侍?・園祥子…父:園基祥

孝明天皇
女御・九条夙子(英照皇太后)…父:従一位関白 九条尚忠
側室 典侍・中山慶子【明治天皇の生母】…父:従一位権大納言 中山忠能
    典侍・坊城伸子
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仁孝天皇
贈皇后・新皇嘉門院 藤原繁子…父:関白 鷹司政熙
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光格天皇
中宮・新清和院 欣子内親王…父:後桃園天皇
女院・東京極院 藤原婧子【仁孝天皇の生母】…父:勧修寺経逸
側室 内侍:菅原(東坊城)和子
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    小侍従局 藤原(富小路)明子

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今上天皇
皇后・正田美智子…父:日清製粉社長 正田英三郎
側室なし

昭和天皇
皇后・良子女王(香淳皇后)【今上天皇の生母】…父:久邇宮 邦彦王
側室なし

大正天皇
皇后・九条節子(貞明皇后)【昭和天皇の生母】…父:従一位大勲位公爵 九条道孝
側室なし

明治天皇
皇后・一条美子(昭憲皇太后)…父:左大臣従一位 一条忠香
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    典侍・橋本夏子…父:橋本實麗
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例えば、「世界の王室が集まった時、天皇が最も上座に座る」と聞いた事が
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Aベストアンサー

私も以前考察しました。
その結果、多国間での「格の違い」は存在しません。

>>日本の天皇家は最も格が上というのは本当でしょうか?
ガセネタです。

まずタイ国王即位60周年記念式典での写真をご覧下さい。
http://www.thaiembassy.jp/photo%20gallery/60th/Albums/Album3/Source/Best_Wish_Expression_116.htm
天皇皇后両陛下はスウェーデン・ブルネイ両国王王妃より下座です。なぜなら、国の公式行事で複数の元首が並ぶときは、即位(就任)順で席順が決まります。ただしカトリックを国教とする国ではローマ教皇を自国元首よりも上座に位置させる国も存在するようです。

ただし、国(公的)ではなく王室(皇室)の行事、つまり私的な席では元首同士、国同士でのつきあいの深さによって、席次が決まることもあります。

ですから国家間では格に違いはない、国の規模、王家の歴史、称号の違いなどは関係なく、また元首が王であろうと大統領であろうとすべて平等です。

 西欧社会のEmperor、Kingの関係と、中華文化圏の皇帝(天皇)と王の関係を混同させて「天皇はKingよりも格上である。なぜならEmperorだからだ」というのはむちゃくちゃな理論です。
 ヨーロッパにおけるEmperorと、中華文化圏の皇帝(天皇)はまったく異なる政治概念です。ただ、似たような意義が含まれるから皇帝(天皇)をEmperorと翻訳に当てただけにすぎません(King・Queenを王・女王と訳すのも同様です)。また近代以降ではEmperor、King、皇帝、王と、どのように名乗るのも勝手でした。

だから明治になって天皇の訳語にEmperorを当てたに過ぎません。

参照
ヨーロッパにおける「皇帝」
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020628c.html

ヤマトの王が天皇を名乗った理由
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20050413A/?FM=cukj&GS=book

より詳しい回答が教えてgooにもあります。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3952917.html
No.3氏の良回答をご覧下さい。

また、
http://q.hatena.ne.jp/1145697267
の3番目の回答者さんもご覧下さい。

さらに重要なことは三大権威とか、天皇はKingよりも格上などというものは、ネットで、しかもなんら確たる証拠も提示しない掲示板やブログの書き込みでしか見あたらないということです。この時点で眉唾物です。
そういったものが公的に認められているのであれば、その条文なり、条約なりを提示すればいいのにしない。「不文律なんだ」「世間では隠されているのだ」とすれば、それほどのものがだれが書いたとも分からぬ掲示板ごときに流れること自体がおかしいでしょう。

誤解無きようにいえば、わたし自身は毎朝、神仏に天皇家の繁栄を祈り、皇室に敬意を持っています。
だからこそ、このようなデマにすがりつく必要はない。なぜなら、天皇は「日本の天皇」だから敬意を持っているのです。ほかの国よりも偉いから敬意を持っているのではないのです。
正直、この手のデマにすがりつく人って、天皇を敬うフリをしながら、正直天皇に敬意など持ち合わせていない。天皇の権威が分からない。だからこんな恥ずかしい理屈にすがりつかなければ、「天皇への敬意」が表現できないのではと思えます。
また、この手のデマにすがりつくサイトは、天皇への敬意、敬愛の念よりも、「俺さまの天皇は偉いんだぞ!! お前らなんか…」といった他国への憎悪、罵倒が表立っています。正直、他国を見下すダシに皇室を利用しているのではとしか思えません。

わたしは日本の天皇だから敬意を持っています。決して他国より偉いから、他国を見下したいからではありません。

私も以前考察しました。
その結果、多国間での「格の違い」は存在しません。

>>日本の天皇家は最も格が上というのは本当でしょうか?
ガセネタです。

まずタイ国王即位60周年記念式典での写真をご覧下さい。
http://www.thaiembassy.jp/photo%20gallery/60th/Albums/Album3/Source/Best_Wish_Expression_116.htm
天皇皇后両陛下はスウェーデン・ブルネイ両国王王妃より下座です。なぜなら、国の公式行事で複数の元首が並ぶときは、即位(就任)順で席順が決まります。ただしカトリックを国教とする国...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

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実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q昭和天皇は”誰に対して”責任を負う、と考えていたの

昭和天皇はマッカーサーと会見した際に、次のように発言したようです。
<「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」。>

いわゆる、戦争責任は、自分にあると明言したようです。
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(誤解無きように付け加えますが、教えて頂きたいことは、彼が考えていることであり、彼以外の人が言っていることではありません)

Aベストアンサー

ご質問自体が間違っています。
下記の既出質問をお読みいただければ幸いです。

昭和天皇 マッカーサーに「全責任を負う」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2192295.html

Q日本がハルノートをを受け入れ戦争しなかったら?

歴史で”たら、れば”は持ち出す事は駄目なんですが、もし、太平洋戦争に突入しなかったら日本はどうなっていたでしょう? 戦争で余りにも多くの方がなくなりましたが、戦争しなかった方が日本の将来は明るくなる事が期待できたのでしょうか?

Aベストアンサー

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の失業者が
街に溢れ、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
さっぱりです。
それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。
その現れがハルノートです。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。


米西戦争では、 1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しています。
これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、
ということになり戦争が始まっています。

ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。
1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の
哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した
とされる事件です。
これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、
その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し
真実が明らかにされました。

湾岸戦争 1990年 では
アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
イラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しており
これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、
米国軍等により撃退されています。
米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。

その他にも怪しいのはいくらでもあります。
以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の...続きを読む

Q昭和天皇の戦争責任もあることではありませんか

http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20060720/K2006072001880.html

昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」 A級戦犯合祀
というのが昭和天皇のお言葉ですが、
終戦への過程とか、
戦争のなかで昭和天皇自分が自ら軍部を助ける面もあると思いますし、
それとも、旧日本軍は昭和天皇のみの為に戦うはずのでしたものの、
昭和天皇一人だけ「なんの責任ございません」ということはよく分かりません

Aベストアンサー

既に他の方も述べているように、今回の報道から、「昭和天皇が一切自分に責任がない」と考えていたと読み取る事は困難ですが、それはさておき、日本側にも、退位という形で責任をとってもらう考え方はありました。↓

http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20050812A/index3.htm

↑には、高松宮が「昭和天皇は戦争を止める事ができた」と発言した事が載っていますが、高松宮は、戦争中も、天皇に対してもっと自らの権威を使って戦争を終わらせるよう、要求しています。↓

http://nekotamago.exblog.jp/1683949/

そんな訳で、それなりに責任は自覚していたようで、最初に入れたURLにもあるように、ポツダム宣言受諾後間もない段階では、「自分が退位する事で、(戦犯が裁かれる事がないように)うまく納める事はできないか」と、まぁ後の展開を知っている我々からすれば、けっこう呑気な事も言ったりしています。

参考URLに入れたのは、天皇が終始戦争を止めようとしていたかどうかに関する、他の方への回答です。宜しければ、ご覧になってください。

それから、日本では個人(特にトップ)の責任を追及しない傾向があるとはいっても、敗戦のような大事件があったら、普通は責任はとらされると思いますよ。例えば、会社が、経営方針が結果的に間違いで、ほとんど潰れそうなぐらいな損失を出してしまったら、実権がなかった役員も含めて、経営陣総退陣ぐらいあるでしょう。

まして、天皇は、敗戦直前の、早期降伏派と一撃講和派の対立のなかで、はっきりと一撃講和派を支持していたのだから、「ただ言われたとおりに判子をついていただけです」とは、普通の常識では言えないでしょう。そこらへんは本人も理解していたと思いますよ。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1946860

既に他の方も述べているように、今回の報道から、「昭和天皇が一切自分に責任がない」と考えていたと読み取る事は困難ですが、それはさておき、日本側にも、退位という形で責任をとってもらう考え方はありました。↓

http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20050812A/index3.htm

↑には、高松宮が「昭和天皇は戦争を止める事ができた」と発言した事が載っていますが、高松宮は、戦争中も、天皇に対してもっと自らの権威を使って戦争を終わらせるよう、要求しています。↓

http://nekotamago.e...続きを読む

Q日本人は農耕民族で、欧米人は狩猟民族?

「日本人は農耕民族で、欧米人は狩猟民族」と良くいわれますよね?

何故なのでしょうか?
日本人だって縄文時代は、狩猟採集生活だったでしょうし、
欧米人だって、何時からなのかは、詳しく知りませんが、農業が食料調達のメインになったと思います。

何故、「日本人は農耕民族で、欧米人は狩猟民族」とメディアで良く語られるのでしょうか?

外国でも、「〇〇は農耕民族で、欧米人は狩猟民族」という言い方がされる事があるのでしょうか?

Aベストアンサー

ある目的のために農耕民族的特質と狩猟民族的特質を
となえた人がいたと思われます。文字通り、民族の特質を分かりやすく説明するためであり、日本人対欧米人を対比するために考案された説ではないはずです。
一部の評論家、政治家、軍人などが自説を展開するために拡大解釈して利用したのでしょう。最後に俗説となって一般大衆に広がったものと考えます。

よく血液型(4種類)で人の性格を判断します(日本人)が農耕民、狩猟民は地球上の人類を二種類にするので血液型以上に便利です。

地球の風土を「モンスーン」「砂漠」「牧場」の三つに類型化して説明した学者がいました。日本から中近東を通り、ヨーロッパに至るルートを観察すればこの
三つの類型化で地域の特色とそこに住む人々の特徴が
説明しやすいからです。しかし、飛行機の時代を経て宇宙から地球を観察できる時代になれば古い学説になってしまいます。

欧米人と日本人を比較するとき、便宜的に農耕民・狩猟民説を利用する人は健在です。血液型に似ています。あたらないケースは除外し、当たるケースのみを対象とするから一見正しい理論のように見えます。

農耕民族(日本人)    狩猟民族(欧米人)
短い脚          長い脚
集団志向(共同作業)   個人志向(獲物の分配)
定住           移動
2拍子(鳥ー2本足)   4拍子(4足獣)
別れを重視        出会いを重視

ある目的のために農耕民族的特質と狩猟民族的特質を
となえた人がいたと思われます。文字通り、民族の特質を分かりやすく説明するためであり、日本人対欧米人を対比するために考案された説ではないはずです。
一部の評論家、政治家、軍人などが自説を展開するために拡大解釈して利用したのでしょう。最後に俗説となって一般大衆に広がったものと考えます。

よく血液型(4種類)で人の性格を判断します(日本人)が農耕民、狩猟民は地球上の人類を二種類にするので血液型以上に便利です。

地球の風土を「...続きを読む

Qアメリカ大統領の国賓の迎え方について

以下のようなことをサイトで鵜呑みししてたんですが本当でしょうか?
ニュースではブッシュ大統領が水色のネクタイで法王を迎えてます。(URLはニュースです。)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080416-00000000-jijp-int.view-000

アメリカ大統領がゲストを迎える時の序列は
1、空港にてホワイトタイで出迎える
2、空港にてスーツ姿で出迎える
3、ホワイトハウスの玄関で出迎える
4、ホワイトハウスの執務室で出迎える

1が適用されるのは世界で3人。
ローマ法王・英国君主・天皇陛下
2が適用されるのは大国の元首級
日本国首相は元首ではないが2が適用されることが多い。
3は小国の元首級
4は外務大臣クラス

Aベストアンサー

【結論】

それはガセです。

【解説】

(1) 反証となる写真

1971年9月26日、アラスカ州アンカレッジのエルメンドルフ空軍基地。昭和天皇とニクソン大統領夫妻が写っている。
http://narademo.umiacs.umd.edu/cgi-bin/isadg/getfile.pl?file=/nara-umiacs/home/images.umiacs/nara-cd/30/4,30-0329A.GIF
英語による説明
http://narademo.umiacs.umd.edu/cgi-bin/isadg/viewobject.pl?object=9057

この年、天皇・皇后はヨーロッパ諸国を歴訪した。行きがけに立ち寄ったのが、アンカレッジである。それに合わせて、大統領夫妻がわざわざアンカレッジまで出向いた。エルメンドルフ空軍基地に降り立った両陛下を、ニクソン夫妻はスーツにコートの姿で迎えている。タキシード(ブラックタイ)や燕尾服(ホワイトタイ)ではない。写真は、基地の巨大な格納庫での歓迎式典である。
なお、「ホワイトタイ」というのは、単に白いネクタイをさすのではなく、燕尾服一式(上着だけでなく、服装一揃い)の意味だそうだ。同様に、「ブラックタイ」といえばタキシードの一揃いのことだという。

(2) ものごとには釣り合いというものがあろう

「大統領のコートの下は、燕尾服かも知れないじゃん?」と、ごねる人がいるかも知れない。しかし、シャツの襟やネクタイが見えているが、燕尾服と釣り合うようなものではなさそうだ。
それに、夫人を見れば、コートの下はスーツらしくて、イブニングドレスではない。夫婦で社交(というか外交)の席に出るときの、服装の釣り合いから言って、奥方がイブニングドレスじゃないのに旦那が燕尾服だったら、珍妙ではないだろうか。
もうお分かりと思うが、大統領夫妻は、両陛下の服装と釣り合うような服装をしているのである(皇后は写ってないが)。そもそも、飛行機から、燕尾服やイブニングドレスを着込んでシャナリシャナリと降りてくるなんて、あまり見聞したことがない。そして、平服というか略礼服(ダークスーツ)で降りてくる相手を、燕尾服で出迎えるとしたら、その絵柄はまるで漫画である。まあ、一流レストランの給仕長がいつも燕尾服を着て、背広姿の客を迎えるのは、おかしくないけれども。
なお、1975年昭和天皇、94年今上天皇の、それぞれ訪米時の晩餐会の写真を見つけた。天皇(皇后)も大統領(夫人)も燕尾服(イブニングドレス)で、釣り合っている。これが「ホワイトタイ」である。
http://www.whitehouse.gov/news/releases/2006/12/images/20061226-2_07-29-0641a-fordhal-400h.html
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070509054833.jpg
昭和天皇、アメリカを行く(誰か昭和を想わざる)
http://www.geocities.jp/showahistory/history06/50b.html

(3) ご質問者は免責でしょう

それでも、ごね続ける人がいるかも知れない。「71年のアンカレッジは、正式な『ご訪問』というより『お立ち寄り』に過ぎなかった。だから例外だ」などと。75年に昭和天皇、94年に今上天皇が訪米しているが、あいにく私は、空港での写真や録画は持っていない。ネットで検索して、(1)や(2)の写真はすぐ見つかったが、まぐれ当たりであろう。英語もできないし、検索能力も乏しいのだ。
しかし、「挙証責任」(という言い方も大仰だが)は、「ホワイトタイ伝説」を広めている人たちのがわにある。この話をありがたがってコピー&ペーストしているサイトは、数多い。けれども、私の見た限り、どれ一つとして証拠写真を載せているものはない。米国大統領がホワイトタイで、天皇を空港に出迎えている写真を、お見せくださればよいのである。
念のため申し添えておくが、当質問のご質問者に、上述の挙証責任はありません。なぜなら、反証となる写真(ローマ教皇訪米)をご提示のうえで質問なさっているし、「鵜呑みししてたんですが」と率直にお書きになっているからである。「ごねる人がいるかも知れない」というのはご質問者のことではなく、第三者を想定している。

(4) だまされる心理

なぜ、こんな安っぽいガセネタに引っかかる人が少なくないのだろう。馬鹿だからじゃないの?で片付けるのは短慮である。インテリや社会的地位のある人も、引っかかるのだ。拙文で恐縮ですが、次の質問のNo.5をご参考になさってみてください。
昭和天皇 マッカーサーに「全責任を負う」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2192295.html
(引用開始)
さしずめ学校出のインテリなどで、会社や役所でそこそこ出世した人たちでしょう。その人たちが、「日本男児が卑怯なガイジンに勝つ」という八百長ショーに熱狂していたのです(引用終り)

また、「愛国オナニー」という言葉で説明している書き込みもある。
massangeana のいろいろ :: パラオ(ベラウ)国旗と日章旗の関連をうたがう
http://www.massangeana.com/mas/cgi-bin/iroiro.cgi/world/belau.htm
(引用開始)
近頃は保守よりも「自慰史観」派が流行りです。「愛国オナニー」のネタを、売るほどたくさんコレクションしている人たちです。パラオ国旗やアインシュタインをズリネタに「おれたち気持ちよがってたのに、何で文句つけるんだ」と、おなにぃを邪魔されて怒ってるコメントが多いですね……。(引用終り)

(5) 長くなるけど付け足しです

下記は、75年9月30日、昭和天皇がバージニア州のパトリック・ヘンリー空港に到着したときの写真らしい。英語が苦手なので、よく分からないけど。後姿が写っているが、天皇はダークスーツだ。断定はしにくいが、大統領が来ている様子には見えない。来ていたら、天皇と大統領はピッタリ並んで歩くのではないだろうか。
http://www.history.org/Foundation/newsroom/images/meditKit08/F&D-Hirihito.jpg
下記のサイトで「hirohito」で検索すると、1件ヒットします。
http://www.history.org/

次いで10月2日午前10時5分、天皇・皇后はアンドリュース空軍基地(メリーランド州だがワシントンD.C.に近い)に到着、午前10時40分からはフォード大統領出席の下、歓迎式典が行われたという。このとき、大統領は空軍基地で天皇を出迎えたのだろうか。下記のCNNの記事によると、そうでもなさそうなのだが。
ローマ法王初訪米 ブッシュ米大統領が出迎え(CNN2008年4月16日付 )
http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200804160004.html
(引用開始)
法王は大勢の招待者らの歓声のなか、ブッシュ米大統領夫妻と娘ジェンナさんの出迎えを受けた。(中略)また、現職の米大統領がアンドリュー基地で世界の要人を出迎えたのも初めてという。(引用終り)

また、次のサイトもご参考になさってください。
裏日本観察学会総本部 10月1日:検証・「天皇」は他国元首よりもエライのか?
http://yamakazuc62.blog45.fc2.com/blog-entry-436.html

【結論】

それはガセです。

【解説】

(1) 反証となる写真

1971年9月26日、アラスカ州アンカレッジのエルメンドルフ空軍基地。昭和天皇とニクソン大統領夫妻が写っている。
http://narademo.umiacs.umd.edu/cgi-bin/isadg/getfile.pl?file=/nara-umiacs/home/images.umiacs/nara-cd/30/4,30-0329A.GIF
英語による説明
http://narademo.umiacs.umd.edu/cgi-bin/isadg/viewobject.pl?object=9057

この年、天皇・皇后はヨーロッパ諸国を歴訪した。行きがけに立ち寄ったのが、アンカレッジである。そ...続きを読む

Qなぜ満州族は中国を征服できたか。

昔清朝をたてた満州族は300万人程度しかおらず、当時の明は
3億人くらい人口があったそうですが、歴史の本を読んでもなぜ
1%程度の人口で満州族が征服できたのか、いまだに不思議です。
いくら明の国内が疲弊していたとはいえ。
モンゴルも同じですが、なぜ北方民族はこういうことが可能なのでしょうか。
秀吉が20万近い鉄砲で武装した精兵で朝鮮をせめても、撤兵せざるを
えなかったですよね。
ちかくには日中戦争でも日本軍は苦戦しましたし。

Aベストアンサー

色々理由はありますが、簡単に書くと・・・
1.明が一つにまとまっていなかったから。
2.優れた指導者が明におらず、清には優れた指導者がいたから。
3.清軍が分裂した勢力をうまく取り込んだから。
4.清が明より民衆に優しく、民衆としては自分やその家族が暮らしやすくなったから。

明が一つになって清に対抗できていれば、清が明を倒す事などできませんでした。
しかし、あまりに明の腐敗が酷く重税で民衆を苦しめており、あちらこちらで大規模な反乱が起きました。
しかも、兵士に与える筈の給金、食料までが上官に不正に搾取されるなどして、兵士達が反乱に加わっています。
明の宮廷では清との戦いや反乱軍鎮圧のための軍費を賄うために、民に臨時の重税をかけ、それに反発した民衆が反乱を起こし、それを鎮圧するために新たな軍の徴集と新たな税が取り立てられるという、重税、軍拡、反乱という最悪の悪循環の拡大再生産が繰り広げられました。
つまり、この時、明は軍の全てを清軍にあてる事ができなかったのです。
また、明の第17代皇帝の崇禎帝が有能な人材を処断してしまったという失敗もありました。
名将の袁崇煥を処刑したのは大きな失敗でした。

「袁崇煥」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%81%E5%B4%87%E7%85%A5

そして反乱が拡大していき明の軍が反乱軍に敗北し首都北京も攻められた結果、明の第17代皇帝、崇禎帝は李自成率いる反乱軍の前に自殺します。
つまり、この時、明は内憂外患の状態であり、清軍が首都に攻めてくる前に、既に首都は反乱軍に占領され、皇帝は死亡していたのです。

そして清と対峙していた明の呉三桂将軍は、皇帝の死を知った結果、明を見限り敵対していた清軍に味方しました。もともと清軍は呉三桂を味方に引き入れるために、大きな褒美を申し出ていたようです。実際、後に呉三桂将軍は大きな領地と地位を得ています。
他の明の将軍の中にも呉三桂将軍のように清に味方するものが出ました。
皇帝が死に反乱軍が首都を占領したとあっては、自分とその部下達の身の振り方を考えねばなりません。清での新たな成功と生活を望んだというところでしょう。
なお、清軍は明と戦う時に兵士に「抵抗しない者は殺すな。捕虜から衣服をはぐな。女を奪うな」という命令を出したり、首都北京に入った時も、兵士に民家への立ち入りを禁止して略奪を戒めたり、明の官吏に対してはその身分の保証をしました。
さらに占領した後の政策としては民衆に対して税の大きな軽減を行っています。明の時は臨時の税が何種類もありましたが、それを全て廃止し、税自体の軽減も行いました。
つまり、民衆にとっては明の時代より住みやすく、生活しやすくなりましたし、官吏も身分を保証され安堵しました。
これでは抵抗の意思も鈍ろうというものです。

首都を占領した反乱軍は李自成が皇帝となり順王朝を始めますが、呉三桂将軍らに攻められ倒されます。
明を回復しようという動きは南部にいた明の王族を中心にありましたが、圧制により民衆の支持が得られなかった事もあり、呉三桂将軍や元明軍の将軍とその部隊が主力となって平定していきます。

つまり、腐敗して内部分裂を起こしていた明を清がうまく料理したというところです。
もし、呉三桂将軍らの元明軍が味方しなければ、清の中国制圧はかなり難しくなったでしょう。
もしかしたら失敗したかもしれません。
味方に引き入れる事に成功した清の方策が旨くいったというところです。

ところでモンゴルが中国を制圧した時は、中国は西夏、金、宋の三ヶ国に分裂しており、やはり一つにまとまっていませんでした。
モンゴルはそれを利用して、互いに争わせたりして、各国の力を弱め制圧していきました。
金を滅ぼした時は、宋と共同で攻撃しています。モンゴルは一カ国づつ料理していきました。

いつの時代にも中国の北には常に北方民族がいます。しかし、全ての時代で全ての北方民族が中国を支配化に置いてきたわけではありません。成功する時は必ずと言っていいほど、その時の中国が数カ国に分かれているとか、内部分裂などしており、そこにつけこんでいます。

なお、呉三桂将軍が清に味方した事については、女性が原因であるという話があります。
陳円円という好きな女性がいたけれど、首都北京を占領した反乱軍の将軍に奪われ、それに怒った呉三柱将軍は清に味方する事にしたという話です。
「陳円円」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%86%86%E5%86%86

色々理由はありますが、簡単に書くと・・・
1.明が一つにまとまっていなかったから。
2.優れた指導者が明におらず、清には優れた指導者がいたから。
3.清軍が分裂した勢力をうまく取り込んだから。
4.清が明より民衆に優しく、民衆としては自分やその家族が暮らしやすくなったから。

明が一つになって清に対抗できていれば、清が明を倒す事などできませんでした。
しかし、あまりに明の腐敗が酷く重税で民衆を苦しめており、あちらこちらで大規模な反乱が起きました。
しかも、兵士に与える筈の給金、食料までが...続きを読む

Q特攻隊の司令官は約束を守ったか?

私の父が亡くなりました。
88歳でした。
父は先の大戦に行きましたが戦争体験を
聞いても口をつぐんでほとんど話しません。
数少ない話として
父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに
大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。
木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河と
いう爆撃機に乗っていたようです。
多くの同期の人が沖縄方面に出撃し戦死、同期の生き残りは
ほとんどいないと言う事を聞いたことがあります。

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示していたが
宇垣中将や大西中将や他の上級将校たちの終戦の日の行動は調べると解かりましたが、
実際現地で特攻隊員を送り出した現地司令官たちはどうしたのでしょう?
実際約束を守って出撃したのでしょうか?
それとも約束を反故にして戦後恩給をもらい続けたのでしょうか?
解かる人がいればお教え下さい。
学徒動員された人や予科練に志願した多くの人は沖縄の海に眠り
生き残った人も「苦労をかけた]という感謝状一枚もらっただけなのに
実際送り出した司令官は生き延びて、ずっと恩給をもらったというなら
なにかやりきれない気分となります。

私の父が亡くなりました。
88歳でした。
父は先の大戦に行きましたが戦争体験を
聞いても口をつぐんでほとんど話しません。
数少ない話として
父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに
大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。
木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河と
いう爆撃機に乗っていたようです。
多くの同期の人が沖縄方面に出撃し戦死、同期の生き残りは
ほとんどいないと言う事を聞いたことがあります。

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必...続きを読む

Aベストアンサー

「父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河という爆撃機に乗っていたようです」

父上様は、海軍の「飛行予備学生」を志願して士官搭乗員(少尉以上)になられたのでしょう。
「飛行予備学生」については、下記の本を読んで頂けるとどういう制度か分かります。

海軍飛行科予備学生学徒出陣よもやま物語―学徒海鷲戦陣物語 (光人社NF文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/476982324X/

「予科練」というのは、今で言うと高校生くらいの「少年」を教育し、下士官搭乗員にする制度です。父上様のような、大学レベルの教育を受けていた方は対象外です。

さて、特攻隊が編成される際は、海軍なら航空艦隊司令長官、陸軍なら航空軍司令長官といった中将クラスの指揮官が出向いたようです。こうした人が、特攻隊員に訓示をします。

また、質問者さんは「現地司令官」と言っておられますが、佐官クラスの「航空隊司令」や「航空隊飛行長」
といった立場で、特攻隊員を選考したり、実際の出撃を指揮したりする将校がいました。また、海軍や陸軍の中央で特攻作戦に関わった将校もいました。

そうした人たちの、敗戦時・戦後の身の処し方を述べます。最初の3名が、敗戦時に自ら死を選んだ人です。

大西瀧治郎 海軍中将:
レイテ沖海戦の際に、第一航空艦隊司令長官として特攻隊を編成し、送り出した。敗戦時には軍令部次長。特攻隊員に詫びる遺書を残して自決。

宇垣纏 海軍中将:
軍令部次長に転じた大西中将の後任のような形で、第五航空艦隊司令長官として、九州から沖縄方面への特攻作戦を指揮。8月15日に「玉音放送」を聞いた後、最後の特攻隊に同乗して戦死。「最後には自分も行くという、特攻隊員への約束を果たした」という擁護意見と、「死なないで済む若者を道連れにした」という批判意見が常にぶつかる。

寺本熊市 陸軍中将:
陸軍航空本部長として敗戦を迎え、玉音放送が放送された8月15日に自決。陸軍では数少ない「知米派」で、高い見識で知られており、寺本中将の自決を知った人は「寺本中将が自決するなら、先に自決しなければならない者がいくらでもいる」と驚いたそうです。
一般に、寺本中将の自決と、陸軍航空特攻の関係が指摘されることはありません。陸軍航空本部長は、陸軍航空隊を「直接に」指揮する職務ではないからです。私見ですが、寺本中将が自決したのは「陸軍航空の特攻について、誰かは責任を取らねばならない」と考えたからではないかと考えます。

富永恭次 陸軍中将:
レイテ沖海戦の後、陸軍の第四航空軍司令官として、特攻隊を編成して送り出した。米軍がルソン島に上陸して自分の身が危なくなると、上級司令部に無断で、部下を置き去りにして飛行機で台湾へ移動。「敵前逃亡」とみなされる行動です。その責を問われて予備役に編入され、即日召集されて、ずっと格下の職である「臨時編成の武器もない師団の師団長」として満洲に送られ、敗戦後にソ連軍の捕虜となる。10年後の1955年に日本に帰還して恩給生活を送り、5年後の1960年に68歳で死去。「帝国陸軍の恥さらし」という意見以外は見た事がないです。

菅原道大 陸軍中将:
1944年12月に第六航空軍司令官となり、敗戦まで、陸軍航空隊の特攻作戦を指揮。長崎県出身ですが、戦後は、埼玉県の飯能で農民となり、養鶏に従事しました。ジャーナリストが取材に行くと「自分はどんなに罵倒されても良い、だけど特攻隊の若者を悪く書かないでくれ」とだけ言い続けたそうです。1983年に95歳で死去。

源田實 海軍大佐:
この人は「特攻の指揮官」ではなく、海軍中央の参謀です。もともと、戦闘機パイロットでした。大西中将が第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに赴任する前に、軍令部参謀の源田大佐が、「もはや、飛行機が爆弾を抱いて敵に体当たりするしかない」と全てお膳立てをしていたというのが定説です。源田大佐は、その後、海軍の精鋭を集めた343航空隊司令として防空戦闘を指揮しましたが、この時に部下の飛行長(戦闘機パイロット)と下記の問答をしました。下記は、飛行長の証言によります。ジョークではありません。
源田「ウチの隊も特攻隊を出さねばならないか」
飛行長「分かりました。では、私が特攻隊長となって、海軍兵学校出身の士官搭乗員を引き連れて特攻します。その次は司令が特攻隊長となって残りの者たちを率いて下さい」
源田「・・・慎重に考えよう」
源田は戦後は航空自衛隊に入って航空幕僚長に上り詰め、退官後は参議院議員となり、帝国陸海軍将校として一番幸せな戦後を送った人と言えるでしょうが、「源田さんが、軍令部で特攻を立案したんですね?」という質問には一貫して「ノー」と言い続けました。個人的には、富永と同じくらい卑怯だと思います。

山本栄 海軍大佐:
「最初の特攻」とされる、関行夫大尉の上官(201航空隊司令)。戦後はカソリックに帰依し、伝道生活を送ったが、自分が海軍大佐であったこと、最初の特攻隊を送り出したことは、信者には一切話さなかったそうです。

玉井浅一 海軍大佐:
上記の、201航空隊の副長。のち、航空隊司令として特攻作戦に携わる。戦後は日蓮宗の僧侶になった。特攻隊員の慰霊に尽くしたとされています。

中島正 海軍中佐:
フィリピンや台湾で、航空隊の飛行長、副長として「特攻隊員を選定し、出撃の順番を決める」という、特攻隊員の死ぬ順番を決める仕事に携わる。当時の部下の印象は「軍人と言うより役人のような印象」だったそうです。フィリピンでは、「中島中佐がいる基地には降りるな。降りたら特攻隊にされる」と、搭乗員の間で恐怖を持って騙られたそうです。当時、ある航空基地に着陸した搭乗員は、その航空基地の指揮官の指揮下に入るとされていました。
戦後は航空自衛隊に入り、空将で退官。特攻については何も語らなかったようです。
なお、中島中佐は戦闘機のパイロットであり、太平洋戦争の前半は、「飛行隊長」として、操縦桿を握って数多くの戦闘に参加しています。その頃については、特に悪い評判は聴きません。

「父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河という爆撃機に乗っていたようです」

父上様は、海軍の「飛行予備学生」を志願して士官搭乗員(少尉以上)になられたのでしょう。
「飛行予備学生」については、下記の本を読んで頂けるとどういう制度か分かります。

海軍飛行科予備学生学徒出陣よもやま物語―学徒海鷲戦陣物語 (光人社NF文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/476982324X/

「...続きを読む


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