タイトルの通りです。山賊が出た、という記述が残る山にも茶屋跡などがありますが、山賊にしてみれば金を持っているかいないかわからない旅人を襲うより、旅人から儲けているはずの茶屋を襲ったほうが手っ取り早いのでは、と話をしていました。もちろん茶屋も教われないために何か防護策をとったのではと思ったのですが、何か詳しいことを知っているかたがおりましたらよろしくお願いいたします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

ははははは、何か好きだなあ、こういう質問。



まず「金を持っているかいないかわからない旅人」という点ですけど、常日頃から「道中」をする人=大道芸人や渡世人は別として、商用で街道を歩く商人なんてのは「格好の獲物」だったんではないかと。
(大抵は、大きな商談=品物の買い付けとかで旅をするわけですから)
そうでなくとも最低限の「路銀(旅費)」、すなわち現金を常に懐中にするのは当時の旅人の「基本」だったと思います。
また、たとえ大金を持っていなかったとしても、それこそ「身包み一切」、すなわち衣服や道中差(護身用の刀)、その他の旅道具一式を奪って売り飛ばせば、それなりの「収入」が得られたのではないでしょうか。
「道中手形(身分証明)」なんてのもかなり使い道あるかも知れません。
(もっと言えば「安寿と厨子王」の昔から「人身売買」という手段もありますし)

「峠の茶屋」が襲われなかった理由としては、
・「茶屋まで襲うような狂暴な山賊がいる」ということになれば、自然と旅人もその道を避けて通るようになるので、敢えて手付かずにしておいた。
・山賊自身、峠の茶屋を「飲み食いの場所」にしたり、「情報収集の場所(※)」などに使っている。
(※いかにも大金を持っていそうな客がいたら、一足先に仲間のところへ知らせて待ち伏せをする、等)
・旅人は所詮「余所者」なので、山賊の被害に遭ったとしても「茶屋の主人の言うことを聞かなかった旅人が悪い」ということになりがちだが、「地元民」の茶屋を襲うと、地元の捜査機関が「山賊征伐」に乗り出してくる可能性がある。
てなとこではないでしょうか。

「いくつか時代小説を読んだ」という程度の、あて推量ばっかで恐縮ですけど。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

恐縮なんて、とんでもない。お知恵をいただいてうれしい限りです。
しかし非常に面白いですね。確かに茶屋が襲われてたら、またそこで茶屋商売をしようなんて思う人はいないですよね。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2002/02/28 08:10

現在.子供の頃に読んだ「山賊の出る集落」の近くに住んでいます。


「山賊」といえば聞こえが悪いですが.「山賊」は.その地区に住む地主で.その地区の最高権力者です。極端な言い方をすれば.一国の主で司法・行政・立法の3けんを持っている人間です。

ただ.この山賊は中央の支配者.つまり.天皇に逆らったので「山賊」と呼ばれているのであって.略奪を生業にしているわけではありません。

簡単に言えば.「関所の支払いが悪いので旅人を懲らしめた」ことが.誇張して伝わっているだけです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

へぇえ、これもまたおもしろいです。山賊のいわれが天皇反対にあったとは。
ネガティブなイメージを残しつつ定義が変わってしまったというのはなかなか貴重なご意見です。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/02/28 08:13

私の答え、それは


「峠の茶屋」=「山賊の経営」です。
(わーっ、ごめんなさい「峠の茶屋」の方。)

本当に、こんな回答でスミマセン。

貧乏な人は、そのまま通してあげて、金持ちそうな客のみ襲う。
ちょっと、かっこいいかも。

確か、水滸伝にもそんなエピソードがあったと思います。
(いや、中国の茶屋は、お客さんを喰っちゃったかも・・。)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど!山賊経営の茶屋かあ!納得。
dai-mさんの答えをみて、ショバ代を山賊に払っている、っていうのもありかもしれないと思いました。御回答ありがとうございます。

お礼日時:2002/02/26 11:43

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q福岡から山口県の岩国へ

山口県の岩国(?)というところの山奥にある、夜でも賑やかで食事ができる大きな居酒屋みたいな場所に行きたいと思っています。(できれば夏に)
確か名前は「山賊」みたいな名前だった気がします。
うろ覚えですが、何かで写真を見てすごく楽しそうな所だなど思いました。
そこで、福岡からそこへ公共交通機関を使って
最安値で行くにはどのような方法がありますか?
教えてください。

Aベストアンサー

「いろり山賊 玖珂店」
  http://www.irori-sanzoku.co.jp/omise/kuga/

博多BT→徳山駅前
  http://www.bochobus.co.jp/toshikan/fukuoka.htm

徳山→欽明路駅(岩徳線)
 岩徳線 徳山駅発時刻表
  http://ekikara.jp/newdata/ekijikoku/2701321/up1_35215011.htm

  欽明路駅より徒歩10分 (山賊・玖珂店 HPより)

Q軍や海賊や山賊が侵略や略奪の後、放火する理由

海賊や山賊が略奪を行った後、火を放つのはなぜですか。どういう意味があってそういう行動となるのでしょうか。

Aベストアンサー

海賊や山賊が略奪を行った後、火を放つのはなぜですか。どういう意味があってそういう行動となるのでしょうか。

映画やドラマの絵作りでかっこいいから。

南北朝時代の悪党
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000041255/

山賊行為や海賊行為とは別に放火行為が列記されている

http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/BKK0001777.pdf?file_id=27196
江戸中期以降、放火を伴った犯罪が記録されるようになる。

これらから、山賊行為と放火とは別の犯罪行為であり、山賊行為をすれば放火するということは推測できない。

Q岩国市に住むのならどこがいい?

今広島市内に住んでいるのですが、
旦那の仕事の都合で急に岩国市に引越す事になりました。
今引越し先の賃貸物件を探しているところなんですが、
岩国は錦帯橋や山賊へ行くのに通った事があるだけで、
どこが住みやすいのかとか、便利なのかとか、全くわかりません。
知り合いにも岩国に詳しい者がおらず、ここにいる岩国市民さんに頼る事にしました。是非お力を貸してくださいっ。

1、私は車の免許を持っていないので、交通の便が良い所。
2、静かでほのぼのした感じな所。
3、会社が山陽本線岩国駅の近くなので、岩国駅から車で2、30分くらいの範囲内。
4、治安の良い所。
こんな都合の良い場所はないでしょうか…(笑)お勧めの地区があったら教えてください。

多少不便だがもの凄い絶景が見えるとか、そういうのもあったらお願いします(笑)
山育ちなので、海辺も憧れます。

夫婦二人なので学校関係の有無は問いません。
あと、ついでなのですが和の雰囲気が好きなので
「〇〇町の雰囲気がいいよ。」とかあったら教えて頂きたいです。
あと駅周辺の町の特徴とか…。私の住んでる○○町はこんな素敵なところです!とか…。
逆に〇〇は住みにくいとか、よく浸水するとか…(?)そういう情報もありがたいです。

快適な岩国ライフを送りたいので、どうかよろしくお願い致します!

今広島市内に住んでいるのですが、
旦那の仕事の都合で急に岩国市に引越す事になりました。
今引越し先の賃貸物件を探しているところなんですが、
岩国は錦帯橋や山賊へ行くのに通った事があるだけで、
どこが住みやすいのかとか、便利なのかとか、全くわかりません。
知り合いにも岩国に詳しい者がおらず、ここにいる岩国市民さんに頼る事にしました。是非お力を貸してくださいっ。

1、私は車の免許を持っていないので、交通の便が良い所。
2、静かでほのぼのした感じな所。
3、会社が山陽本線岩国...続きを読む

Aベストアンサー

実家が岩国にあり以前住んでいました。また、今でも岩国に時々帰ります。
岩国駅か南岩国駅の近くで探されるのがよいと思います。

まず1の交通の便の良い所ですが、公共交通機関は市営バスかJR(山陽本線)になります。
岩国駅と南岩国駅の間だとけっこうバスの便があります。
http://www9.ocn.ne.jp/~iwa-bus/
また、岩国に住んでいるとちょっと大きな買い物などをしようと思うと広島に行くことが多くなります。JR山陽本線は岩国発、岩国着というのが多く、南岩国駅を使うと多少不便だと思います。広島に行くことが多ければ岩国駅の近くがよいと思います。

次に2の静かでほのぼのした感じの所ですが、この点では逆に岩国駅の近くはよくないです。2の優先順位が高いのであれば南岩国駅の近くを中心に考えられた方がよいです。また、岩国駅の南岩国駅の間に川下という地域があるのですが、ここに米軍の基地などがあるため、飛行機の騒音がかなりうるさい時間があります。慣れるとあまり気にならないのですが、お住まいになる場所に何回か行ってみて飛行機が上空を通る場所になっていないかチェックされた方が良いと思います。

3の岩国駅から車で2、30分くらいの範囲内は上に書いたあたりの場所でしたらあまり問題ないと思います。

4の治安の良い所はよくわかりませんが、個人的には岩国駅の近くの飲み屋街や川下の米軍基地の周辺は外人がうろうろして怖いイメージがありました。

ちなみに自分で住むとすると岩国駅の近くの東小学校の校区で探すと思います。岩国駅が近く交通の便がよいのと、岩国駅の西側は商店街などになっており、東側の方が住宅街が多く落ち着いて暮らせそうだからです。

実家が岩国にあり以前住んでいました。また、今でも岩国に時々帰ります。
岩国駅か南岩国駅の近くで探されるのがよいと思います。

まず1の交通の便の良い所ですが、公共交通機関は市営バスかJR(山陽本線)になります。
岩国駅と南岩国駅の間だとけっこうバスの便があります。
http://www9.ocn.ne.jp/~iwa-bus/
また、岩国に住んでいるとちょっと大きな買い物などをしようと思うと広島に行くことが多くなります。JR山陽本線は岩国発、岩国着というのが多く、南岩国駅を使うと多少不便だと思います。広島に...続きを読む

Q茶と茶屋

お茶は中国から伝わった平安時代頃には、お団子のようにして食べていたそうですが、
茶の湯と称して飲むものになったのは室町時代くらいからなのでしょうか。

だとすると、平安時代などの山の峠の『茶屋』などでは団子状のお茶を出していた訳ですよね?
飲み物としては白湯やお水を出していたのでしょうか。

江戸時代のお話しや時代劇などでは今と同じように茶葉で茶を煎れ、
その他にお団子などを出しています。

では、それ以前の『茶屋』はどんなものだったのでしょう。最近とても気になっています。
お茶と茶屋の歴史を教えて下さい。お願いします。

Aベストアンサー

質問者さんの想像する茶屋は、江戸時代の街道筋の宿場で喫茶・食事を提供する休憩所としての「茶屋」です。
 茶屋の始原は鎌倉中期に、街道筋の寺院門前で茶を接待する「接待茶屋」・「施行茶屋」までさかのぼりますが、室町期に寺社門前で抹茶を振る舞った「一服一銭」や、戦国から江戸初期まで将軍・大名によって直営された「御茶屋」へと至ります。御茶屋は後に本陣(大名が利用する宿)へと変化し、江戸期に民営の茶屋が誕生します。街道の整備や参勤交代、民間流通の発展に伴い、茶屋は主に宿場町の両脇に集中して建てられますが、街道筋の間(あい)の村にも休憩所としての立場茶屋が生まれます。
 この時代の茶屋の繁盛には、給仕女の売春に依るものが多く、幕府は延宝6年(1678)には、新規に茶屋を営業することを禁止、給仕女は2人まで。日中のみの営業と規制を引き、その後も何度か禁令を発しますが、実際は有名無実でした。しかし、幕末期の物価高騰と、交通手段の変化により旅籠とともに茶屋も衰退します。

 喫茶は、天平元年(729)に宮中大極殿で行われた、季御読経(きのみどきょう)で茶が振る舞われたと伝わります。また延暦24年(805)に最澄が茶の実を比叡山麓に植えたともいいます。
 弘仁5年(814)に嵯峨天皇は藤原冬嗣の閑院第より茶を喫し、翌弘仁6年には梵釈寺で煎茶を献じられます。また同年に嵯峨天皇は畿内・近江。丹波・播磨に茶を植え、宮中に献上させています。当時は煎茶、それも実際に葉を煎じて飲んでいたと考えられます。
 遣唐使の廃止後は茶栽培も中断しましたが、建久2年(1191)に栄西が茶を持ち帰り、また承元元年(1207)に明恵が栂尾で茶を栽培しました。栄西の茶法は抹茶であり、ここから寺院を中心に喫茶が広まります。当時は抹茶は薬効・覚醒・精神修練として取り入れられました。
 室町期に茶は流行し生産量も増えますが、茶葉は石臼で挽いて抹茶とし、庶民は主に引き屑である「ヒクズ」を飲用としました。茶葉を湯にくぐらせて飲む方法は日本では江戸初期に行われていたと考えられますが、江戸中ごろに現在の煎茶技術が確立し、庶民の喫茶法となります。

質問者さんの想像する茶屋は、江戸時代の街道筋の宿場で喫茶・食事を提供する休憩所としての「茶屋」です。
 茶屋の始原は鎌倉中期に、街道筋の寺院門前で茶を接待する「接待茶屋」・「施行茶屋」までさかのぼりますが、室町期に寺社門前で抹茶を振る舞った「一服一銭」や、戦国から江戸初期まで将軍・大名によって直営された「御茶屋」へと至ります。御茶屋は後に本陣(大名が利用する宿)へと変化し、江戸期に民営の茶屋が誕生します。街道の整備や参勤交代、民間流通の発展に伴い、茶屋は主に宿場町の両脇に...続きを読む

Q海賊と言えば村上水軍を思いつきますが、山賊と言えば・・ちょっと思いつき

海賊と言えば村上水軍を思いつきますが、山賊と言えば・・ちょっと思いつきません。
Wikipediaには、
盗賊とは、法規から逸脱し、武装して掠奪・強奪行為を旨とする集団を指す。その形態によって、山賊や海賊などとも呼ばれる、とあります。

少人数の集団でもよいですが、日本の中世以降で山賊はいましたか。
せいぜい2,3人くらいの追剥ぎは除きます。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

海賊が特別視されるのは、船を操るという特殊技能故で、
それが戦争では水軍(海軍)として雇われることになります。

山賊は、ちょっとした腕っ節があればすぐにでもなれますし、
戦争になってもせいぜい雑兵として雇われ程度でしょうから、
あまり歴史に名を残すことは少なかったのでしょう。

日本で有名なところでは、楠木正成といった悪党か、
蜂須賀小六のような野武士といったところでしょうか。
彼らも、雑兵の域に留まらない戦力と戦闘技能を
持っていたので名を残すことになりました。

Q陰間茶屋

陰間茶屋といえば、江戸時代の「可愛い男の子と楽しい一時を過ごす場所」ですが、
陰間茶屋がその名称として登場するのは江戸時代からなのでしょうか。
もしそうならば、
戦国時代、室町後期など、特に可愛い男の子を寵愛する男性が一般的に容認されていた頃には、
その類の店はなんと呼ばれていたのでしょうか。
室町時代にはまだお店として確立されていなかったのでしょうか。

Aベストアンサー

 
日本の「男色」に関係する歴史や文化は、専門に研究している人がおり、研究書もあるはずですが、わたしはそういう本は見たことがありません(西洋の「同性愛」の研究書、とりわけ古典ギリシアの少年愛( phaidophilia と言います)などは、幾らか参考書を見ていますが)。

日本の同性愛の歴史については、日本には、西欧にあったような、キリスト教・ユダヤ教的「禁忌」としての「同性愛の否定概念」が文化としてないため、ごく当然のこととして、古代より存在した為、特筆するような事件性や話題性がないため、記録が少ないのだとも言えます。

----------------------------------------

ところで、質問の本題に戻ると、「陰間茶屋」というのは、江戸中期の「元禄文化」の産物で、これ自身が非常に特殊なものでした。

若い女性を集めて、これを娼婦として客に供する「娼館」は、平安時代には明らかにありましたし、奈良、飛鳥時代にもあったと考えられます。高級な「娼館」と下級の「娼館」があり、これ以外に、単独で売春行為で生計を立てる娼婦の存在も普通にありました。

単独で春をひさぐ少年・青年や、また親方の元で売春をさせられる少年・青年というものはいましたが、見目麗しい美少年を集めて、これを客に供応する、専門の「男娼館」というのは、多分、江戸時代の元禄文化において、初めて出現したのだと思えます。

それ以前には、専門の「男娼館」そのものがなかったので、「名称」もなかったと思われます。

「男娼館」ではないが、それに準じるものとしては、各地に巡業する芝居の一座などがありました。室町時代も無論そうですが、俳優となるのは大体美男子が基本で、役者になるための修行は、師匠の元への弟子入りで、しばしば、どこからか浚って来た少年などを、役者の弟子として育成しました。

当然、「見目麗しい少年」たちなので、芝居の上客が要求すると、男色の相手をするのが普通で、芝居の一座の経営のため、素質があって、将来、役者として育成している少年と、素質がなくとも、春を売るのに十分な美貌を持った少年と、この二種類を抱えていた芝居の一座は多かったのです。

このように、芝居の世界では、都に本拠を持つ高級な一座から、田舎の一座まで、役者は、修業時代も、一人前となってからも、客の男色の相手をするのが普通で、すべてがそうではありませんが、芝居の役者は、大体、「男娼」でもあったと言えます。

もう一つ、古代から、実質的に「男娼」に該当する役割をする少年等を抱えていた組織は、仏教の寺院がそうです。仏教寺院が抱えていた「稚児」と呼ばれる少年たちは、仏僧となる修行をしているとも言えますし、女色が原則禁止されている仏僧たちの少年愛の対象として、寺にいるとも言えます。

豊臣秀吉は、若い頃、ある寺院の稚児をしていましたが、それを伝え聞いたさる女が、いまは成人して一応の武士となっている秀吉に縁談を持ち込むが、秀吉と実際に会ってみて、こんな猿男は話にならないと、縁談が流れたという話もあります。「寺の稚児」をしていたからには、さぞハンサムな男なのだろうという前提があったということです。

----------------------------------------

などなど色々な話があります。「陰間」という言葉も、元々、晴れの舞台で演技する一人前の役者に対し、蔭で雑用したり、師匠の演技を見習っている者を指した言葉で、別に、「色子・稚児」というような意味ではなかったのですが、すでに述べたように、役者は大体、美男と決まっていて、陰間は美少年と決まっているので、自然に、男色の相手の呼称になって行ったのです。

「陰間茶屋」にも、それほどランクの高くないものもありましたが、それでも元禄文化における、文化の精髄への憧れで成立しているもので、性欲を、青年や少年相手に処理する場所ではなかったのです。

対して、女性に対する性欲を処理する施設などは、上級から下級まで無数にあったと言えます。例えば、大抵の大きな宿場には、「飯盛り女」と呼ばれる、客が求めると下級売春婦として応じる女中を備えた旅籠が多数ありましたし、専門の娼館も普通ありました。

しかし、男娼専門の館とか施設は、事実上なかったはずです。美少年・美青年が自分で個人営業で春を売るか(丁度、按摩などが、笛を吹きながら街をまわるように、こういう個人営業の稚児は、それらしい衣装で街をめぐって、客の呼び出しに応じて相手をしました)。または、親方がいて、その指図で春を売るか、あるいは、田舎などを巡業する芝居の一座には、当然、稚児・色子がいるということになります。

江戸時代・元禄の男色文化を描いた作品集として、南条範夫の『五代将軍』という短編集があります。すべての作品が「男色・稚児」を扱ったものではありませんが、元禄文化がどういうものであったか、かなり鮮やかに分かります(現在、絶版のようですが、EasySeek などで探すと見つかるでしょう)。

>「五代将軍」(双葉文庫)  南条 範夫 (著)
>http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4575660159/qid%3D1085749430/250-6819949-1049860
 

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4575660159/qid%3D1085749430/250-6819949-1049860

 
日本の「男色」に関係する歴史や文化は、専門に研究している人がおり、研究書もあるはずですが、わたしはそういう本は見たことがありません(西洋の「同性愛」の研究書、とりわけ古典ギリシアの少年愛( phaidophilia と言います)などは、幾らか参考書を見ていますが)。

日本の同性愛の歴史については、日本には、西欧にあったような、キリスト教・ユダヤ教的「禁忌」としての「同性愛の否定概念」が文化としてないため、ごく当然のこととして、古代より存在した為、特筆するような事件性や話題性がない...続きを読む

Q空母艦載機岩国移転に伴う米軍住宅建設はマンションではダメですか?

空母艦載機岩国移転に伴う米軍住宅建設はマンションではダメですか?
厚木から岩国への空母艦載機移転に伴い、米軍住宅を岩国愛宕地区に建設する計画が浮上していますが、
日本はアメリカに比べ土地の値段が高いので一戸建ではなくマンションにすべきではないでしょうか?

Aベストアンサー

問題なのは「ダメ」か「OK」かは日本が判定しているのではなくて、
アメリカが判定しているということです。

サンディエゴなどの海軍基地の近くは地価が安く、米軍関係者の多くは
一戸建てに住んでいます。彼らが岩国に配属になったときに、住居が
マンションになると、「配属の都合による環境の悪化」と捕らえられるのです。

アメリカ人の傾向ですが、どこの場所でも「アメリカ」を持ち込むのです。
また、テニスコートやプールなどの娯楽&健康維持設備にはこだわります。
アラスカであってもセントラルヒーティングを持ち込み、空母の中で
あってもボーリング場やディスコを持ち込みます。

アメリカ人がどう考えて、どのように行動するかは勝手です。
しかし、問題はアメリカ人が判断して、お金を払うのは日本人であるという
ことでしょう。簿応永のほとんどをアメリカにしてもらっているという
引け目はありますが、岩国の基地と一般地区の境界線を見れば、
まるで日本が植民地のように見えてしまいます。

Q岡崎次郎三郎や茶屋四郎次郎

岡崎次郎三郎信康や茶屋四郎次郎の「次郎三郎」とか「四郎次郎」ってどういう意味ですか?

ほかに有名な、例えば「太郎次郎」とか「三郎次郎」って名前が付く歴史人物はいますか?

教えて下さい。
お願いします。

Aベストアンサー

まず、基本的に、「太郎=長男、二郎=次男」ということではないのです。
元々の意味としてはそれで正しいと思いますが、代を重ねて一族が広がるとそれではとても区別がつかなくなりますし。
# 無理やり区別しようとすると本当に「二郎三郎五郎太郎」なんて名乗りになったりして

武家などの名乗りは、嫡男の場合親からそのまま受け継ぐことが多かったようです。
岡崎信康についても、二郎三郎は松平元康も名乗っています。
これは元康から数えて5~6代前の当主が次男であったこと、4代前の当主が三男であったことが理由ではないでしょうか。
もちろん、信康が二郎三郎を襲名した後には元康(その頃には家康かな)をその名で呼ぶわけには行きません。三河守のように官位を名乗りに使ったりします。
# ある歴史小説で晩年の蜂須賀正勝を小六と書いていたものがありました。その時点での蜂須賀小六は子の家政を指し、正勝は彦右衛門とすべきだと思うのですが

さらに、真田信幸(信之)、信繁(幸村)兄弟のような例もあります。
信幸が長男、信繁が次男ですが、それぞれ名乗りは源三郎、源次郎です。
長男=太郎ではないという面白い例ではないでしょうか。


本題の「他に~」はちょっと思い浮かびませんでした。申し訳ない。

まず、基本的に、「太郎=長男、二郎=次男」ということではないのです。
元々の意味としてはそれで正しいと思いますが、代を重ねて一族が広がるとそれではとても区別がつかなくなりますし。
# 無理やり区別しようとすると本当に「二郎三郎五郎太郎」なんて名乗りになったりして

武家などの名乗りは、嫡男の場合親からそのまま受け継ぐことが多かったようです。
岡崎信康についても、二郎三郎は松平元康も名乗っています。
これは元康から数えて5~6代前の当主が次男であったこと、4代前の当主が三男であっ...続きを読む

Q日本から山賊が消えた日

山賊で検索しても観光旅行関連のページしか出てきません。
詳しい方に質問です。
昔は大名ですらも軍勢を連れなければ物見遊山お一つもできなかったそうですが、今は女性ひとりでも好きな場所を旅行できます。
日本国内限定だと山賊は一体いつごろまで生存していたんでしょうか?

Aベストアンサー

何か特別な裏づけとか史料を持ってるわけではありませんが、たぶん、山越えをするような長距離の移動を、ほとんど徒歩でしなくなった頃からじゃないでしょうか?

つまり、明治の陸蒸気にはじまる鉄道の整備と、乗り合い馬車などに始まるバスや車での移動・・・

鉄道網や道路網が整備されて、乗り物で移動するようになると、ほとんどの人は徒歩で山越えをしなくなるのでは?

そうなれば、数少ない、徒歩や自転車での移動の人が通りがかるまで、山で待っていなければなりませんし、ものスゴイ山奥なら、1年に一度だって通らないかも・・・。

そうなると、乗り物を止めて金品を奪う事になりますが、そのためには、山賊もそれなりの武装しなくてはいけません。
でも、旅人が現在所持している金品略奪が目的となると、武装をガッチリしたワリには、さほどの金額を稼げるとはとうてい思えないので、ハイリスク・ローリターン=「ワリに合わない」って事なのではないでしょうか?

ドロボー系の犯罪というのは、「ワリに合わなくなる」と、自然とすたれていくものでしょう。

そう考えると、今のハイジャックやバスジャック・・・あり得ないけど電車ジャックが、もし、金品目的なら、昔の山賊にあたるのでは?と思いますが、やっぱり今なら、ちょっと電話するだけで稼げる「オレオレ詐欺」のほうがワリに合うでしょうね。

もし、金品目的でハイジャックするなら、乗客を人質にとって、多大の身代金を請求しないと・・・いや、それでも捕まるな・・・きっと。

もちろん、どなたかがおっしゃってたように、個人レベルの山賊系の犯罪は今でもあります。
スリ、ひったくり・・・山奥じゃなくても出没します。

何か特別な裏づけとか史料を持ってるわけではありませんが、たぶん、山越えをするような長距離の移動を、ほとんど徒歩でしなくなった頃からじゃないでしょうか?

つまり、明治の陸蒸気にはじまる鉄道の整備と、乗り合い馬車などに始まるバスや車での移動・・・

鉄道網や道路網が整備されて、乗り物で移動するようになると、ほとんどの人は徒歩で山越えをしなくなるのでは?

そうなれば、数少ない、徒歩や自転車での移動の人が通りがかるまで、山で待っていなければなりませんし、ものスゴイ山奥なら、1年...続きを読む

Q千年前の茶屋について

こんにちは、先日京都に遊びに行って、素朴な疑問を抱いたので質問致します。

ガイドブックに乗っていた、とある神社の門前茶屋に立ち寄ったのですが、その店は「創業1000年変わらぬ味を~」「千利休も茶菓子として好んだ~」など、歴史の長さが売り物らしく、最初は私と友人も「すごいね!」と喜んでいたところ、ふと疑問が…

1000年前に甘味茶屋ってあったんでしょうか。また、その店では白餅を炭火で炙って甘いタレで食べさせるのですが、大学で食物学を専攻していた友人が「古代の白餅は供え物で、庶民は雑穀の餅を自宅で作って食べていたはず」と言うのです。

もしそれが本当なら、お店のうたい文句は間違いになりますよね。ちなみにお向かいにもう一軒、同じ餅を出す茶屋がありますが、こちらは創業400年らしいです。歴史的にはこっちの方が信憑性があるような?

以上、こういう方面にお強い識者の方、1000年前に白餅を売る甘味茶屋はあったのか、お教えください。お餅自体は申し分なく美味しかったのですが、何だかスッキリしなくて…よろしくお願いします。

Aベストアンサー

利休の時代の菓子とは、木の実や果物などです。まず、それからして、素人をだますコピーですね。
利休の茶会記はだいたい残っていますが、「あぶり餅」を茶菓子とした記録はないでしょうね。

近世まで、純粋な砂糖を料理に使うことは、余りありませんでした。純粋な砂糖は高価ですからね。砂糖は調味料としてではなく、医薬品として使われていたようです。その意味でコレラの特効薬として使われたというのはうなずけますが、千年まえから甘味処があったかどうかは、眉唾です。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報