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官位役職の「蔵人」についてですが 

蔵人別当(くろうどべっとう)
蔵人頭(くろうどのとう 又は かみ とも)
蔵人正(くろうどのしょう)
五位蔵人(ごいくろうど)

1 一番地位の高い蔵人はどれでしょうか?
2 五位蔵人以外は殿上人でしょうか?(殿上人は従四位下以上で上の3つが何位かわかりません)
3 蔵人はこんなに必要なのでしょうか?

A 回答 (5件)

1については僕も先の回答者様のおっしゃる通りだと思います。



2についてですが、先の方に少しだけ付け加えさせていただきます。
ご指摘の蔵人は特に「令外官」と表現されることはご存知でしょうか?
令外官とは『大宝官員令』や『養老職員令』に定められた官職や官庁以外のものを指します。
このような令外官はそのあり方の特殊性から、通例の任命形式である「除目」とは別に「宣旨」で任命される形式を取り、任命後は「官」としてではなく「職」といった区別のもと任務を遂行します。
そして、2の回答において一番注意いただきたいことは、「職」の場合、兼官であり別の本官が有ります。

例えば蔵人所別当は左・右大臣または大納言が任じられますし、蔵人頭に関しては弁官から1人、近衛府の官人から1人が選ばれるのが常で「頭中弁」や「頭中将」と称され、参議に欠員がある場合は昇任してゆくなど、それ相応の身分が約束できる位置にありました。

”五位以外”ということで、お知りになりたいわけではないでしょうが、五位蔵人については、衛門佐(検非違使佐)・弁官(中少弁)を兼ねる「三事兼帯」は家の誉れとされたりしますし、六位蔵人についても、職務における必要性から位に関わらず昇殿がゆるされています。

3についてですが、「こんなに必要なのか?」というより、必要に迫られ大所帯になっていったということでしょう。

他の回答者様に対する”お礼”を拝見いたしました。
「私的には多いと思いました蔵人別当と蔵人頭がいれば良いと思ってましたので」

という事ですから。蔵人所設置(薬子の変)当時についてでしょうかね?蔵人所設置についての経緯はご存知でしょうか?簡単にいえば平城上皇と嵯峨天皇の対立の中、上皇側による平城復都の目論見に対する牽制と言った意味で嵯峨天皇などの天皇側により創設される職ですから、創設当初はそれこそ「蔵人別当と蔵人頭がいれば良い」という面も否定できないのですが、やはり天皇の家政機関といった現在の「秘書室」のような蔵人所の役割は、「薬子の変」にピリオドが打たれたのちにも、生き続けることなどから、必要性が十分認められる重要な役割を負っていたのでしょうし、時代を経るごとにやはり仕事も増えるでしょう。当然、人員も増えていってしかるべきかなと…

いつの時点を指して「”こんなに”必要なのか?」はよくわかりませんが、その時々に適宜妥当な人数が任官していたかとは思いますが。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
詳しくて助かりました

お礼日時:2012/10/26 18:31

蔵人は平安初期に起こった薬子の乱の過程で設置されます。

それまで、内裏にいる天皇の秘書役として命令を太政官に伝えたり、太政官の文書・情報を上げたりする伝宣と奏請の役割は、後宮十二司の一つであった内侍司の長官である尚侍でしたが、藤原薬子が尚侍であったために伝宣と奏請がうまく機能しなくなっただけではなく、嵯峨天皇側の機密情報が、薬子を通じて平城上皇側に漏れるとの事態の中で、令外官として蔵人頭・蔵人が設置、任命された経緯があります。そのため、天皇の秘書役・伝宣と奏請が基本的な役割ですが、天皇に近侍しますから、警備、事務、雑務などを含め、広範囲の職掌を持ちます。
また、初期には蔵人・蔵人頭だけでしたが、別当が置かれ、蔵人が五位蔵人・六位蔵人に分離し、更に非蔵人という見習いまで出現します。さらに、天皇の居間的性格の清涼殿の殿上の間に入ることが出来る殿上人は、五位以上で、許可を与えられた者ですが、蔵人はその性格上、六位でも、更に見習いの非蔵人でも殿上人でした(蔵人頭・五位蔵人は当然殿上人でした)。なお、殿上人の性格上、天皇の許可した者であるので、三位以上である公卿(四位でも参議は公卿)でも、殿上人になれない「地下(「じげ」=殿上人でない)の公卿」が時には存在しました。

さて、「蔵人正」は正式な官職ではなく、百官名の一種だと思います。同じようなものに、蔵人守・蔵人佐・蔵人(このような場合は「くらんど」と呼びます)など、武将が勝手にもしくは戦国大名などにより与えられた疑似官職があります。
次に、「蔵人頭(くろうどのとう 又は かみ とも)」とありますが、蔵人頭を「くろうどのかみ」という呼び方はありません。蔵人頭及び蔵人所は令外官及び官庁なので、律令規定の官職のように四等官制(かみ・すけ・じょう・さくわん)を持っていないために、「とう」とそのまま呼びます。蔵人は伝宣と奏請が基本的な役割と前記しましたが、太政官、特に実務の中心である太政官の左右弁官局と関係が深く、蔵人頭の一人が左右大弁・中弁・少弁のいづれかを兼務することが多く、これを「頭弁(とうのべん)」と呼びます。また、警備の関係上左右近衛府との関係も深く、近衛の中将・少将を兼務して「頭の中将」「頭の少将」と呼ばれることが有りました。
なお、蔵人頭は四位相当としてあるものもありますが、令外官ですので官位相当はなく、頭就任者の多くが四位であったというだけです。平安中期には五位の頭もいますし、逆に三位で参議や中納言を兼ねた例外的な頭もいました。さらに、蔵人頭を務めると公卿である参議に直ぐに任官することが多く、官界での出世の登竜門でした。他の蔵人も家柄・学問・才能のある者が任命されますし、天皇・公卿に接触する機会も多く、出世につながる職でした。
次に、「五位蔵人(ごいくろうど)」は一般には「ごいのくろうど」と読みます。これは蔵人の次席で、頭に次ぐ職です。五位の者の内、家柄・学問・才能のある者を任命します。本来は六位蔵人も、五位蔵人も任命は「蔵人」であって、職名に違いはなく、位が違うだけでしたが、六位蔵人が五位になった場合、及び五位蔵人が四位になった場合、自動的に蔵人の職は解かれたので、六位蔵人・五位蔵人が職名のようになりました。なお、同じような名称で「蔵人の五位」がありますが、これは、六位蔵人が五位の位に上り、蔵人の職を解かれた、前蔵人のことです。
蔵人の別当は名目的な蔵人所のトップ(実質・実務は蔵人頭)です。多くの説明に大臣が兼務とか、二位の大臣が兼務と書いてありますが、実際は一上(「いちのかみ」=筆頭の公卿の意味)の大臣の兼務と考えた方が良いのではと思います。従一位の左大臣(一上兼務)で別当に就任した例は多くありますし、左大臣が在任中に右大臣が別当になる場合は、左大臣が摂関などで実務を離れ、右大臣が一上に就任していますので、一上である大臣が兼務とした方が実例に合致すると思います。
なお、太政大臣は最初から実務にタッチしない定めですので、公卿の筆頭(一上)は通常左大臣です。ただ、左大臣が摂関(内覧は含まれない)に就任すると、実務をとらないとされていますので、一上から外れます。

1 一番地位の高い蔵人はどれでしょうか?
蔵人別当です。次に蔵人頭、五位蔵人、六位蔵人、非蔵人と続きます。見習いの非蔵人でも六位の位を持つものでした。

2 五位蔵人以外は殿上人でしょうか?(殿上人は従四位下以上で上の3つが何位かわかりません)
上記したように蔵人別当から蔵人頭、五位蔵人、六位蔵人、非蔵人まで殿上人でした。
なお、殿上人は、5位以上のもので、特に許可されて、天皇の居間的存在である清涼殿の殿上の間に入ることを許された者のことです。この反対語が、地下人です。また、非蔵人以上の蔵人(実質は非蔵人と六位蔵人)は例外でした。


3 蔵人はこんなに必要なのでしょうか?
蔵人別当は一名ですが、名目的で蔵人の実務にタッチしませんが、通常、蔵人頭は二名、五位蔵人が三名、六位蔵人が六名、非蔵人六名の計十七名でした。見習いの非蔵人を除くと十一名。蔵人は職掌が多岐にわたる上に、令外官である性格上「頭弁」のように兼官者も多く、多忙な職であったことは間違いありません。ですから、必要な人数であったと思います。また、ここには書きませんが、蔵人所には非蔵人の下に、雑色・滝口(の武者)などの職員が付属しています。
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この回答へのお礼

なんと そうでしたか
ありがとうございました

お礼日時:2012/10/26 18:30

皆さんの回答に補足。


殿上人とは、清涼殿に昇殿を許された貴族のことであり、原則として五位以上。
ただし「許される」必要があり、五位になったら自動的に殿上人になる訳ではない。
また蔵人には六位蔵人がいるが、天皇の秘書官という性質上、この六位蔵人は
殿上人である。

なお六位蔵人が五位に昇叙された場合は、蔵人を辞任する慣例があり、
この人を「蔵人五位(くろうどのごい)」と呼ぶ。
もちろん、上記の通り蔵人を辞任していて現任の蔵人ではないので、史料を
読む場合には注意が必要。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
殿上人は四位も含まれるみたいです

お礼日時:2012/10/26 18:30

蔵人所の長官は二位の蔵人別当です。


その下に四位の蔵人頭が居り、
その下に五位蔵人、六位蔵人と続きます。
上の二人は殿上人です。

正は司(織部司など)の長(六位)で
所にはいないと思います。

蔵人所は天皇の日常生活に関係し、家政
機関であり、天皇の命令伝達も行う多忙な
組織でした。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
単なる門番ではなかったんですね

お礼日時:2012/10/26 18:31

1 一番地位の高い蔵人はどれでしょうか?


蔵人別当が一番高い。

別当が長官、頭がその下で、五位蔵人はその下です。
蔵人正は知りません。


2 五位蔵人以外は殿上人でしょうか?(殿上人は従四位下以上で上の3つが何位かわかりません)

殿上人から選ばれます。
国会議員から大臣が選ばれるようなものです。


3 蔵人はこんなに必要なのでしょうか?

こんなに、というほど人数はいませんが?
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この回答へのお礼

さっそくありがとうございます
蔵人別当が一番偉いのですね

私的には多いと思いました
蔵人別当と蔵人頭がいれば良いと思ってましたので

お礼日時:2012/10/25 16:49

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Aベストアンサー

1.
いろんな職業があったと思われます。当時はある程度の自給自足をしていたとはいうものの、都市部の人ではすべて自分たちでまかなえていたとは思えません。特に工業では、紙、陶器、武器、などのいろんな職工がいたようです。
女性にも職業があったことが予想できます。「振り売り」といわれる行商、機織、海女、白拍子のような芸能関係など、女性ができそうなものは何でもあったと思われます。専業もいたでしょうし、家事・育児・手伝いの傍らだったりもしたでしょう。また、古今東西、富裕な家のメイドは当たり前ですし、男女の仲を取り持つ「仲人」とか「仲媒」といった特殊な職業も文献に見られます。こんなものまであったのですから、衣食住に関するさまざまな職の基本はすでにこの頃にもあったことがうかがえます。
今昔物語などを読むと、たいそう活発な女性が多くいることから、そんなに窮屈な身分制度に押し込められていたわけではなく、わりと社会に出て元気だったようです。

2.
平安京には東西に市が設けられていました。このことから、全国に店はあっただろうと推測できます。ただし、商流の多くは「振り売り」という行商です。明治・江戸時代まで商業の中心はこの「振り売り」です。

3.
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4.
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5.
もちろん多少違いますが、庶民の服の基本は昭和時代までほとんど変わっていません。変わっているのはブルジョワジーやプチプルジョワジー以上の階級です。
ちなみに土間&高床の住居も、ふすまや障子がふえたくらいで基本は、昭和までほとんど変化していません。

6.
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1.
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