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源頼朝が政治制度を整えたときに将軍は配下の武士の領地を保護するとあったんですが保護するってなんですか? あと武士のほとんどは貴族に土地を寄進して自分の土地は持ってないんじゃないんですか?
あと承久の乱のあと上皇側についた武士や貴族の領地をとりあげ、地頭に東国の御家人を任命したとあるんですが、領地をすべてとりあげたんですか? そうするとその人たちはどこに住むんですか? あととりあげた領地はだれが米を作るんですか?あと取り上げた領地には荘官はいなくて地頭だけで支配するんですよね?

A 回答 (5件)

1.武士が実質的に荘園などを支配していて、その権利を安堵するということです。


このころは、貴族や、寺院への物資の仕送りも少なくなったそうです。
安堵するということは、今で言えば「政府と裁判所と税務署
が保証する」ぐらいの威力があったのではないかと思われます。
2.戦いのつど、褒美として、勝者が、御家人たちに荘園や土地を与えて
いたそうです。たとえば、那須の与一宗隆は、井原の庄(現岡山県井原市)
をもらいました。このように、東国武士が西国にも配備されました。
いわゆる支配層の入れ替えをOKされたのですね。当然農民などは
そのままで耕作などをいていたようです。

身近な、事柄から歴史を見てゆくと、興味がわき、知識もつきます。
楽しんで歴史を勉強してください。
以上
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ANO1さんが仰る通り、「保護する」ではなく正しくは「安堵する」ですね。


まぁ、表向きはどうあれ「貴方がその土地を支配するのを認めるから、私の政治体制を認めてね。反乱したらとりあげちゃうよ」って事ですね。

質問者さまが言う「その人達」というのが、ちょっと分からないのですが。
土地に実際住んでる人は農民や農奴ですよね。
彼らにとっては、領主の変更は「首」がすげ変っただけでしょうね。
良い領主か横暴な領主かは、死活問題でしょうけど、彼らに領主を解任する権利も能力も与えられていませんしね。(たまに一揆とかしますけど)
彼らの事は、歴史では殆ど無視されてます。
考慮されるのは、民俗学とか一揆や反乱で歴史の表舞台に立った場合とかですね。
歴史を学ぶ時には、常に脳の片隅に彼らのことを頭に入れておいて欲しいですね。
まぁ、無視されるのは歴史の殆どが政治関連であり、当時それを仕切っていたのが(現在もでしょうけど)一部の貴族や武士だからでしょうけど。
「その人たち」が武士や役人を指すなら、解任されて追い出されるか打ち首にされるか、逃げ出すかでしょうね。
取り上げられると言うことは、何かしらの政治的ミスを犯したわけですから。

因みに、頼朝が御家人に土地を安堵した経緯ですが、、
以下は私が以前頼朝関連の質問で答えた回答です。
参考URLにはその質問ページを貼っておきます。

===以下・引用==

鎌倉幕府成立以前は、「利害」のため頼朝と東国武士の立場はあくまでも「対等」でした。
そして、「東国武士」たちは「独立国としての鎌倉」を望んでいました。
しかし、頼朝は「朝廷国家内での鎌倉幕府」という位置づけに持って行きました。と、いうのも頼朝の目的が「朝廷国家内での地位の向上」にあったからです。
そして、「朝廷国家内での地位の向上」を目指すには東国武士の暴走はなんとしても阻止しなければなりませんでした。
そこで、「論功行賞」を行い敵方(平家勢力)から奪取した土地を与え東国武士を手なづけていきました。

==引用・以上==

つまり、奪った土地はもともと「敵方」のモノ。
そして、その土地を与えることによって「自分に従えば、あなた方の地位を保証し、良い思いをさせてあげますよ」という保証を与えたわけです。

参考URL:http://okwave.jp/qa2501731.html
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労働組合を作って、労働者を保護した。


ちょっと、きつい比喩ですが、そんな感じ。
※ まぁ実際に労働した農民は無視してください。工場管理者が、武士だと思ってください。
寄進行為によって、荘園が成立したわけですが、基本的には個別契約。京都の巨大な権力に対しては、個別争議では弱いわけです。
それを、団体交渉で、権利を守りましょうというもの。
※ ちなみに寄進といっても、あげちゃうわけでなく、律令国家から自分の土地を守るために、所属を国から個別の権力(有力貴族とか、寺社など)に名義変更するようなものです。寄進って。

根本的には、権利関係が複雑なのが、当時の「職(しき)」といわれた制度理解。
現在のように「一円支配」が完遂されたのは、戦国期以降。それまでは、ある土地の生産物に関して、バラバラの支配体系でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%9C%92% …
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頼朝が幕府を開き武家政治の時代に入ったのは今日的に表現すれば革命政府を作ったと理解してください。


革命政府といってもまだ出来たばかりですから、従来の朝廷による政治形態を完全に否定するわけにいかず、実質的に支配する道をとりました。
これが各地の武士を取り込む方法です。  鎌倉幕府に就いた武士に領地の支配を許すという保証書を発行しました。
これは朝廷による任命と重なるのですが、武力による保証ですから力がありました。

承久の乱での領地の取り上げは土地住民の支配権を取り上げるということですから、会社の社長を首にしたようなもので従業員はそのままですから、鎌倉幕府の任命した新社長(地頭)に従うだけです。
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質問者のように、歴史を関連性をもって見る事が物事の正しい理解に役立つでしょう。

ただ「保護する」と言わずに安堵(あんど)すると言いました。今までの通り認めるから、反乱を起こさず、頼朝の新制度も認めて欲しいと言う、言わば交換条件の意味もあった。
後の疑問については税法上の問題です。誰を納税者として決めたかの問題であって、耕作者や実質的な所有者・居住者はあまり変化しなかったように思われます。
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