自分のセンスや笑いの好みに影響を受けた作品を教えて

中国や、ヨーロッパなどの歴史を見るとひとつの
国が滅んでまた新たな国が起こるというのは、常識ですよね。でもなんで日本だけが、二つの権力が両立していたんですか?武家は、天皇制を何で完全に排除しようとしなかったんでしょうか?専制君主せいだったらなおさら天皇が疎ましくなると思うんですが。不思議です。

A 回答 (12件中11~12件)

1番の方も回答されているのですが、少し補足を。

欧州の専制君主はその権力り源泉を神に求め「王権神授説」を唱えました。教会という「絶対権力」が存在したからです。日本の場合、これとパラレルに考えると天皇家は教会、将軍家が専制君主に当たるのではないでしょうか。征夷大将軍という辞令を貰うのは「神授」になる、という理解で。完全に排除した方が得策だったかどうか、は分かりませんが。頼朝は、そういう発想がなかったし、武家の棟梁という名前だけで満足していた。尊氏もそうでしょう。天皇家の印が権力というより権威の裏づけに欲しかったから北朝の天皇を立てた。信長は権威は無視していたけれど天皇を利用した方が得と判断した。家康は権威として奉って利用しようと考えた・・・ということでしょう。明治維新にしても将軍家を打倒するために旗印として天皇は利用されたわけですが、政治的・軍事的に無能力な権威は、存在させ利用した方が得だ、ということではないですか。GHQもそういう方針だったし。
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日本は専制君主制だったことはないのではないでしょうか。


日本の歴史上、少なくとも中世以降に専制君主として定義づけできるような
人物は皆無といっていいでしょう。
旧帝国憲法下では立憲君主制ですし、それ以前の鎌倉、室町時代、織豊政権下、
さらに江戸幕府の時代でも、大名なり守護なりは、一定の領域に対する
徴税権のみを持っていただけで、土地は地主のものであり、
人民も領主の完全な支配権の下にあったわけでもありません。

とはいえ、二つの権力が両立していたというのも当たりません。
天皇家に国家権力があったのはそれこそ奈良時代ぐらいまでであり、
平安時代からは実質的な支配者は藤原家なり、平家なり、それぞれの
幕府の下にあったわけです。天皇家はその間、神聖な象徴として
細々と存続していたに過ぎません。中国やヨーロッパなどの王朝と
同一に論じることはできないのです。

(例外として建武の新政の時の南朝があります。後醍醐天皇が、
鎌倉幕府への不満勢力を支持基盤として一旦は権力を握ったものの、
あまりにアナクロニズムなやり方をしたため、結局わずか十数年で
足利尊氏に取って代わられた、ってな具合ですね。)

天皇家が長続きした秘訣(世界でもっとも古い王族だそうです)は、
世俗の権力を早くに手放し、神聖な象徴としての性格を残してきたから、
ということがあるのでしょうね。つまり、天皇家を実質的に支配した
権力が、天皇家を上に頂いて形式上その隷下になることで、
日本の実質的な支配者として存在することが許された、という形に
なると思います。その前提として、日本の中世以降の権力者が全て、
各地域地域の支配者の力関係の下で「盟主」として祭り上げられて
支配者になったに過ぎない、という経緯があるから、と考えられます。

長文の上にわけのわからんややこしい文章で、申し訳ありません(__)。
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この回答へのお礼

回答有り難うございます。上のお三人にまとめてお礼いたします。
最近私は中国古典にこっていまして、十八史略なんかを読んで、
中国は、こんなに合理的なのに隣の日本は妙だなー、
と思ったしだいです。皆さんのおっしゃるとおり一概には、
比較できないことですが同じアジア人(日本にもかなりの古代中国の血が流れていると思いますが)でも場所や環境、
あと時の権力者によって違うものなのかなーと思わされます。
でも(こんなことをいったら間違えてるかも)
源頼朝も足利尊氏も織田信長も太閤秀吉も徳川家康も、
すべてを掌握したあと(すべての権力を手中に収めたあと)
天皇を排斥して自分が史上最高、名実ともに支配者への野望はなかったのでしょうか?
(織田信長なんか生きていたら天皇を排斥してそうですけど(^^;)

お礼日時:2002/05/11 23:04

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