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江戸幕府は諸藩の出来事など、どの程度情報収集していたのでしょうか?
「土芥寇讎記」なる本も作られていますが、江戸時代を通して全国に隈なく隠密を派遣して情報を遅らせていたりしたのでしょうか。

公儀はオランダ人を通じて世界情勢をも把握していたとのことですが、どういうニュースをつかんでいたのでしょうか。

A 回答 (5件)

隠密としてはお庭番が有名ですが、お庭番の場合遠国御用といって各地の情報収集に出かけることがよくありました。


またお庭番だけでなく小人目付なども情報収集のために派遣されることもあったようです。
外国の情勢については毎年ジャワからオランダの貿易船が来るたびに世界情勢を記した「風説書」を提出させていました。
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この回答へのお礼

目付配下の小人目付も派遣されていたのですね。
外国の情報も毎年得ていたのですね。少なくとも幕閣や長崎奉行は海外の情報にもタイムラグなしに精通していたのでしょうね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/07 15:04

「我が、敵は、西より来たる。

我が墓を西に向けよ」と、家康が読んだように、西を怪しんでいたと思います。
怪しいところは、重点的に配置ではないでしょうか。
譜代、親藩を適所に配置したのは、見張りや、情報のためもあると思います。
「お庭番」は、後世の創作ではないでしょうか。
「草」・・各藩にスパイを配置くらいは、したかもです。
記録に残ってしまうようでは、スパイの意味がありませんから、記録は、ないと思います。
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この回答へのお礼

島津・毛利・加藤など、西国には油断ならない大名満載だったからでしょうね。
お庭番はいたようですが、時代劇に出てくるような存在ではなかったのかもしれませんね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/08 10:41

御庭番が派遣されるのは、


・大名家当主の代替わり
・将軍家の代替わり時に諸国へ派遣される巡検使(旗本から選抜)の素行調査
・諸国で新規に召抱えられた学者や武芸者の身元調査
・一揆発生など、不穏な地域
・城郭などの修理状況の調査
の場合で、任期は一年でした。

オランダとの関係は↓
http://www.kufs.ac.jp/toshokan/perry/8.htm
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この回答へのお礼

学者や武芸者の身元調査というのは面白いですね。
播州浅野が山鹿を招聘した時は幕府から目をつけられたりしていたのでしょうか。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/09 03:12

 幕府の情報収集の表立った機構は、次の通りです。


(大名関係)将軍←老中←大目付←巡検使、国目付
(外国関係)将軍←老中←遠国奉行(長崎奉行ほか)
 巡検使は将軍の代替わりのときに、天領も含め全国に派遣され、調査に当たります。
 国目付は大名の代替わりのときに、その大名の国元へ派遣されます。
 巡検使、国目付は、いずれも常時あった職制ではなく、その都度臨時に使番や書院番などの旗本数人(家来も含めて数十人)で編成し、当該地へ派遣しました。
 今の会計検査院の監査と同様に、受けるほう大名側は事前に知らされていますので、準備万端整えて待ちます。旗本の家来が庄屋を引見して事情聴取をすることもありますから、大名側があらかじめ庄屋に模範回答を渡しておくようなこともあったらしいです。想定問答集や模範回答など、何時の時代でも同じですね。
 オフィシャルの調査が終わった後でも、不審があった場合は、諜者を残置する、あるいは改めて隠密を派遣して調べるということは、あったと思います。
 水野為長が隠密を使って情報を松平定信に上げていたという実績があるようです。↓
http://www.athome.co.jp/academy/japanese_history …
 全国にくまなく隠密情報網を張り巡らしていたかどうかまでは存じません。
 しかし、能アル老中は公式非公式にかかわらず、情報収集に努めていたのではないかと思います。一般的な情報は、上記の大目付以外の通常の行政機構の各ルートからも沢山上がってくるはずです。ここ一番というときは秘密の情報収集をやったことは間違いないと思われます。
 外国関係については長崎奉行を通じて、結構把握していたように思います。ただそれらの諸知識は幕府内の極めて限られた層にしか伝わっていないような感じですね。それが後年の対外交渉のお粗末振りの遠因になっていると思います。
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この回答へのお礼

国目付が使番と両番クラスから選任されていたのは知っていましたが家臣を含めて数十人の規模だったのですね。京・大坂に加番として赴任する大番頭一行も江戸を出たら十万石の格式と言われますが、一介の国目付2人でも結構な人数なのですね。彼らは監視目的のみで派遣された訳ではないらしいですけど迎える大名側も接待とか気を遣って大変だったでしょうね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/09 03:20

隠密の存在は南北朝時代からすでにあり、戦国時代さかんに活躍しました。

伊賀者と甲賀者です。本能寺の変の時家康を堺から岡崎に脱出させたのも伊賀者。この功で江戸幕府になってからも重用されました。
お庭番は8代吉宗が紀州藩から隠密御用の17人を呼び寄せ、享保元年「お庭番」に任命。表向きは江戸城奥庭の警備ですが、内密には将軍専用の隠密でした。お庭番は代々世襲で桜田、竹橋付近の御用屋敷に住んでいました。17家だったお庭番は別家が認められ、後には22家になったそうです。
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この回答へのお礼

お庭番には将軍自ら、あるいは御側御用を通じて指令を出していたみたいですね。幕閣を通さずに命令を下していたというのが面白いです。
でもたった22家しかなかったというのは意外な感じもします。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/09 03:21

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