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徳川家はなぜ天皇家をつぶし、最高の権威を手に入れなかった

のでしょうか?

自分は徳川家が早い段階で天皇家を滅びさせていれば

明治維新は起きなかったのではないかと思っています。

徳川家は惜しいことをしたと思うのですが、やはり天皇家は

日本人にとって切っても切れない存在だったのでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

>日本人にとって切っても切れない存在だったのでしょうか


一言で言うとそういうことになります。

天皇家を廃止する勢力、機会はそれなりにありました。
例えば天智天皇のときの蘇我氏、足利義満のときの南朝北朝など。
そういう幾多の危機を切り抜け、はたまた日本人の本懐として
先祖を敬うという信仰めいたところがあったのでしょう。

歴史上、日本の武将で天皇家を廃止できる最有力は織田信長でした。
信長は延暦寺、東大寺、本願寺とことごとく仏門を敵にまわしたことは有名であり、
古い制度には捉われない超革新児でした。
しかも、本人は安土桃山城をつくり天皇の上に君臨しようとしました。
その信長でさえ天皇は丁重に敬ったのです。

家康に至っては征夷大将軍の称号を欲しいために先祖を趣旨替えしています。
こんな調子ですから家康に天皇家を廃止するという考えは毛頭なかったはずです。

もし徳川家が天皇を廃止していたらですが、
日本は西欧の植民地になっていたと思われます。
徳川幕府は鎖国政策を放棄しなければそのまま西欧の餌食ですし、
仮に歴史通り薩長が事をおこしても天皇という求心力がないですから、
内乱が長引いてやはり西欧の餌食です。
ひいてはアジアの近代化は遅れ、今頃も植民地ではないでしょうか?

天皇家が廃止される最大の危機は第二次世界大戦敗戦でしょう。
戦勝国はその国を支配するとき王室を廃止するのは当たり前だからです。
ハワイ、ビルマなどの王室は戦勝国によって廃止されています。

当然、中国からは戦犯要求として天皇の裁判、及び皇室廃止は出されました。
ところが当時は共産国家の台頭を懸念していたアメリカは
自国の国益を考えて天皇の戦争責任を回避する戦略に出ます。
こうして、中国、韓国では皇室が廃止されたのに日本の皇室は続きます。
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徳川「将軍」家の権威の裏づけは、天皇から任命された「征夷大将軍」であるということだから。

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まあ、武家社会は本音としての天皇機関説を考えていたのでしょう。



天皇というのを国歌の権威付けのためのシステム、征夷大将軍への任命を一種の王権神授として考えたのだと思います。そのためのシステムとして、神の変わりに天皇は必須であったのでしょう。

すでに指摘がありますが、徳川家が天皇を廃止していたら、二本は列強に蹂躙されていた可能性があります。少なくとも、明治維新と先次大戦直後において発揮された天皇制の求心力は、徳川に限らず、それ以前の武家による政権が天皇を蔑ろにしていればあり得なかったわけで、結果論ですが、天皇制というのは武家にとっては実に都合の良いシステムだったということです。まあ、天と為政者の間のワンクッションですから。強いて言えばヨーロッパ中世に置ける神聖ローマ皇帝の役目でしょうか。
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なぜ徳川家は天皇家を潰さなかったのか?



前例がないから。

これに尽きます。
権威を継続させる方法にはいろいろあります。ローマ法王のように、毎回選挙をする方法もありますが、もっとも歴史上で成功している権威付けは、「血統」です。
家康が、どう育つ代わらない段階で、三代目に家光を指名したのは、長子相続という血統主義が、権威の継承の上で一番効果的だと知っていたからです。それほど血統主義の権威は強いものがあります。

さて、徳川家が天皇家を滅ぼしていたら、どうなるか?
つまり、「新しい血統に権威を移してもOK」というのが前例となります。中国史における易姓革命OKという政治風土です。
となると、徳川家を潰して、他の家が易姓革命してもOKとなりますので、徳川家の権威が揺らげば、他の権威、島津家かもしれないし、毛利家かもしれないし、あるいは、元天皇家かもしれませんが、明治維新類似の政治事件は起こります。
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ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代


に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす為には、天皇に代わる権威(支配の
正統性)が必要なのです。徳川に限らず、結局のところ、力では圧倒
しても、天皇に代わる権威を見出せず、実行できなかったのだと思い
ます。

平家は都落ちに際し安徳天皇を拉致?しますが、京都には天皇家の家
長である後白河院が健在であったため、焼け石に水。
承久の乱では、北条義時が天皇家の家長である後鳥羽院の島流しを敢
行しますが、北条得宗専制ですらまだ始まってはおらず、あまりにも
時期尚早。天皇を頂点とする公家勢力・寺社勢力の息の根を止める以
前に、まだそれ以下の鎌倉「将軍」の権威で武士の統合が必要な時代。
元弘の乱の後醍醐天皇の配流と、建武新政崩壊後の南朝への攻略は、
持明院・北朝の存在を前提としたもので、天皇家抹殺の意図なし。
足利義満による皇位簒奪計画という学説もありますが、事実だとして
も未遂。
織田信長が将軍や関白などの官職を受ける意志がなかったとすれば、
どのように権威(支配の正統性)を樹立するつもりだったか、興味深い
ところ。信長自身の神格化?がそれという説も。
豊臣秀吉は天皇を中国に移し、自分はインド方面まで手を伸ばすつも
りだったとか。天皇を一国王としての地位に留め、その地位を保証す
る世界皇帝になることで、天皇を超えようとしたという説も。
で、本題の徳川家ですが‥
徳川家康の場合は、京都や大坂を掌中に置くのに時間がかかり過ぎ、
短期決戦できなかったのがネックでしょう。家光の代までに幕府も安
定し、禁中並公家諸法度などで従来の権門(公家・寺社)を幕府の法制
下に置き、武家官位と公家官位を分離するなど、色々と手は打ってい
るようですが‥
でも綱吉になると、生母桂昌院に従一位を貰って喜んでみたり‥
そうこうしているうちに将軍の継承問題、そして改革と挫折の連鎖の
時代となり、天皇家に構っている余力はない‥ 要は支配の正統性の
問題は、権力を握ったらすぐに手を打たないと、手遅れになるという
ことですね。

あと、蛇足ではありますが、源・平・藤原・豊臣などの「氏」が、
日本の場合天皇から与えられるという性格を持つという点も、天皇制
存続に関して何らかの意味を持つのかもしれません。平清盛・源頼朝
・平(北条)義時・源(足利)義満が姓を自分で決めて自称せず、織田信
長・徳川家康が源・平姓を名乗り、羽柴秀吉が豊臣姓を貰って喜んで
いるうちは、天皇の風下に甘んじるという一面を持ちます。もっとも、
姓を自分で決めて自称するとか、姓を捨てて天皇家と同じ無姓となる
という発想自体が、思考力の枠を超えるものでしょうけど。でも、信
長あたりは長生きしていたらやっていたかもしれないし‥
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天皇が「征夷大将軍」や「関白」などの位を命じます。



誰かが命じないと俺が「征夷大将軍」だ!と日本に
何人も「征夷大将軍」が存在しちゃいます。

実権は幕府が握っていたのですから天皇をつぶすま
でのこともなかったのでは。
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天皇家がなかったら150年前に徳川家は潰され無くなってますよ



皇室は明治維新とは直接関係がありません。薩長が事を進めやすくするため皇室を利用しただけです。

徳川が逆賊になった時、誰が守ったのでしょうか?叔母の和宮です。
和宮の助言があったからこそ徳川家が存続したのです。もし皇室がなく、薩長中心の討幕運動が起きたら徳川家は滅亡してしまいます。
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短いながらも#2さんが正答でしょうね。


詳しくは山本博文先生の『徳川将軍と天皇』(中公文庫)をお勧めします。
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基本的に明治維新は徳川家が将軍を務めていた幕府勢力と、これを倒そうとする勢力との間の争いの結果起こったものです。

徳川家と朝廷(天皇家)との争いではありません。そして幕府側も反幕府側も、自分たちの政治的な立場の正しさを主張するために天皇の権威を利用しようとしました。このためどちら側にも天皇家を廃する理由はまったくありません。

また家康を含む歴代の武家政権の始祖が朝廷から征夷大将軍に任じられていることからもわかるように、大きな権力を持っていた徳川家の将軍さまといえども、その権力の裏づけは天皇家の権威でした。最後の将軍徳川慶喜が「大政奉還」を行ったのも、徳川家が天下をお預かりしているという意識があったからで、このあたりに日本の歴史で天皇が果たした役割を考える大きなヒントがありそうです。
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日本が封建制度だったからだと思います。



今から千五百年程前に天皇家が日本を武力で統一した後、当時超先進国だった中国から律令制という、中央集権制度を輸入しました。しかし、その当時から日本人には物まねが苦手だったらしく、その制度を色々と骨抜きにして五百年程の大実験が行われました。しかし、結局それが日本には馴染まないということになり、新しく考え出された独創的な制度が、その当時日本近辺にはどこにも存在しなかった幕府制という封建制度だったのです。この制度は、王としての各豪族に国土や国民の所有権を認め、その王達を司る王の王として将軍を戴くという制度で、国土などをたった一人の王に属するものとする中央集権とは決定的に違った制度です。

そうなった理由は色々ありましょうが、将軍家や北条家も含めて、どの豪族も武力的には団栗の背比べだったからではないでしょうか。残りの豪族達がまとまってしまうと将軍家や北条家だけでは勝てない。もし勝てるなら、天皇家を廃止して自分が皇帝になって別の中央集権国家を作れば良かった筈です。これが無理なのは平家のやり方を見て認識したのだと思います。

その後、日本史上で唯一、豪族間の力関係のバランスを崩すことができる信長が現れたのですが、暗殺によってそれが実現しなかった。

その前後の歴代の政治指導者達も、他の大名が一つにまとまってしまったら力で勝てるはずがなかったので、自分が天皇に取って代わるのではなくて、今まで通りの封建制度を選んだのだと思います。

明治政府といえども薩長豪族の支配体形であり、したがって天皇を排するのではなく、それを戴くという支配構造になっています。

因に、幕府制では大名の私有財産権が認められており、それが貞永式目の中で「本領安堵」という形で成文化されています。人類史上で最初にこの資本主義の発展要件として本質的な私有財産権を成文化した憲法が日本の貞永式目だとのことです。
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