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徳川家はなぜ天皇家をつぶし、最高の権威を手に入れなかった

のでしょうか?

自分は徳川家が早い段階で天皇家を滅びさせていれば

明治維新は起きなかったのではないかと思っています。

徳川家は惜しいことをしたと思うのですが、やはり天皇家は

日本人にとって切っても切れない存在だったのでしょうか?

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A 回答 (15件中1~10件)

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代


に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす為には、天皇に代わる権威(支配の
正統性)が必要なのです。徳川に限らず、結局のところ、力では圧倒
しても、天皇に代わる権威を見出せず、実行できなかったのだと思い
ます。

平家は都落ちに際し安徳天皇を拉致?しますが、京都には天皇家の家
長である後白河院が健在であったため、焼け石に水。
承久の乱では、北条義時が天皇家の家長である後鳥羽院の島流しを敢
行しますが、北条得宗専制ですらまだ始まってはおらず、あまりにも
時期尚早。天皇を頂点とする公家勢力・寺社勢力の息の根を止める以
前に、まだそれ以下の鎌倉「将軍」の権威で武士の統合が必要な時代。
元弘の乱の後醍醐天皇の配流と、建武新政崩壊後の南朝への攻略は、
持明院・北朝の存在を前提としたもので、天皇家抹殺の意図なし。
足利義満による皇位簒奪計画という学説もありますが、事実だとして
も未遂。
織田信長が将軍や関白などの官職を受ける意志がなかったとすれば、
どのように権威(支配の正統性)を樹立するつもりだったか、興味深い
ところ。信長自身の神格化?がそれという説も。
豊臣秀吉は天皇を中国に移し、自分はインド方面まで手を伸ばすつも
りだったとか。天皇を一国王としての地位に留め、その地位を保証す
る世界皇帝になることで、天皇を超えようとしたという説も。
で、本題の徳川家ですが‥
徳川家康の場合は、京都や大坂を掌中に置くのに時間がかかり過ぎ、
短期決戦できなかったのがネックでしょう。家光の代までに幕府も安
定し、禁中並公家諸法度などで従来の権門(公家・寺社)を幕府の法制
下に置き、武家官位と公家官位を分離するなど、色々と手は打ってい
るようですが‥
でも綱吉になると、生母桂昌院に従一位を貰って喜んでみたり‥
そうこうしているうちに将軍の継承問題、そして改革と挫折の連鎖の
時代となり、天皇家に構っている余力はない‥ 要は支配の正統性の
問題は、権力を握ったらすぐに手を打たないと、手遅れになるという
ことですね。

あと、蛇足ではありますが、源・平・藤原・豊臣などの「氏」が、
日本の場合天皇から与えられるという性格を持つという点も、天皇制
存続に関して何らかの意味を持つのかもしれません。平清盛・源頼朝
・平(北条)義時・源(足利)義満が姓を自分で決めて自称せず、織田信
長・徳川家康が源・平姓を名乗り、羽柴秀吉が豊臣姓を貰って喜んで
いるうちは、天皇の風下に甘んじるという一面を持ちます。もっとも、
姓を自分で決めて自称するとか、姓を捨てて天皇家と同じ無姓となる
という発想自体が、思考力の枠を超えるものでしょうけど。でも、信
長あたりは長生きしていたらやっていたかもしれないし‥
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ペリーやハリスに脅され、開国を許してしまった徳川幕府は、倒幕される運命であったと考えられます。



国を維持するためや、逆に革命を起こす場合は、国民を納得さすために大義名分が必要となり、そのために天皇家をかつぎあげました。

では天皇家がなければ、徳川幕府が続いていたのか?と、いう問題になりますが、私は関係ないと考えます。

天皇家がなくなると、徳川幕府の軍事力が巨大なものとなるのであれば話はわかるのですが、それよりも欧米列強に取り入って軍事力を手に入れたほうが徳川幕府は続いたと考えられます。
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こんにちは。


結論から言うと#2さんが事実に近いと考えます。
先のご回答の中にもありますが
基本的に当時の法体系は律令制度を引き継いでいます。
征夷大将軍をはじめとする幕府の役職は「令外の官」です。
言い換えると正式な役職ではありません。
武家社会でこそ重んじられますが
実際にはかなり不安定な職務です。
それであればこそ家康は
「内大臣、従一位、征夷大将軍、源氏の長者、
淳和奨学両院別当(じゅんなしょうがくりょういんべっとう)、
兼右近衛大将(うこんえのたいしょう)、
右馬寮御監(うめりょうぎょかん)」
等といった役職に任ぜられたのです。
征夷大将軍だけではその場しのぎに過ぎません。
これらの役職は天皇制を頂点とする律令制があってこそ
機能します。だから公家諸法度を定めたり、一品親王の
ご東下を願ったりして天皇家と公家を守ったのです。
間違っても天皇家を倒すことなど考えなかったはずです。
よろしくです。
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徳川幕府が続く続かないは、天皇家等は関係ありません。


徳川幕府がペリーに驚かされて、鎖国を解いた時点ですでに徳川幕府は終わっています。
つまり弱いところを見せれば、その体制は終わるということです。
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天皇は民間の法が適用されない唯一の存在として保護(保持)されているようです。


法の外側にいるため、状況によっては(国内が上手くいかなくなったときなどは)、そこに必要な機能を求めることが出来るという理由で保持されているのではないでしょうか。

徳川幕府や明治政府が、それまであった法を廃し新しい規則を制定する。こういった活動の象徴・抽象化みたいなものが天皇制として維持されているのではないかなと。そういえば、戦後は勝った連合国や様々な国と友好的な交流をする役割をこなしていたなと。戦前の帝政と戦後の戦争をしない国、相反する体制の中心にそれまでの法と違うものを置くことで、非常にスムーズに移行しているという、このへんが、日本と言う土地に起こっている現象みたいです(どかかで読んだのかも)。

天皇家をつぶせば、つぶす人たちの活動そのものが成り立たなくなる恐れがあるためそういったことが起こらない、というのが#2さん含む他の方々の回答だと思います。

一言で言えば、天皇の役割は、新しい国内体制(法)の維持??権威やある状況を天皇家と結びつけるのではなく、ただ単純に、必要となった新しい状況を維持するための機能として捉えたほうが分かり易い気がします。おそらく、それまでの体制を維持しようとする人たちにとっても、新しい体制を築こうとする人たちにとっても、混乱した状況では、天皇家という機能を排すこと自体が、自らの活動を否定することになる(日本では)ため、存在そのものには抵触する意味はないのではないでしょうか。

憲法の、「天皇は国民の象徴~」は、合っているようで間違っているような気がします。国民とは別の位置に立つため、正しくは「国民(国内)の活動を維持する機能の象徴」かなと。気候的にも社会的にも日本の根底は変化にあり、変化の象徴(変化に対応する象徴、つまり変化と適応の象徴)が天皇制ではないかと思います。今風の学問になぞらえ、「カオスに立つ人」というのはどうでしょう?

連合国が、新しい体制を日本に制定するため天皇制を廃すことができなかった、というのはどこかに書いてあったことだと思います。ということで、マッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真は非常に面白いですね。時代をさかのぼれば、そこにいた人は徳川家康だったり、明治維新の重要人物(誰か良く知らないので申し訳ないです)だったりだと思います。マッカーサー元帥は普段あまり見かけないタイプなので驚きますが。
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No.1さん、連合国による戦後の日本占領の5つの委員国、米国、英国、ソ連、中国、オーストラリアの内で、天皇の責任を問わないこと票を入れたのは、米国、英国、中国で、問う方に入れたのはソ連とオーストラリアだったはずです。

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日本が封建制度だったからだと思います。



今から千五百年程前に天皇家が日本を武力で統一した後、当時超先進国だった中国から律令制という、中央集権制度を輸入しました。しかし、その当時から日本人には物まねが苦手だったらしく、その制度を色々と骨抜きにして五百年程の大実験が行われました。しかし、結局それが日本には馴染まないということになり、新しく考え出された独創的な制度が、その当時日本近辺にはどこにも存在しなかった幕府制という封建制度だったのです。この制度は、王としての各豪族に国土や国民の所有権を認め、その王達を司る王の王として将軍を戴くという制度で、国土などをたった一人の王に属するものとする中央集権とは決定的に違った制度です。

そうなった理由は色々ありましょうが、将軍家や北条家も含めて、どの豪族も武力的には団栗の背比べだったからではないでしょうか。残りの豪族達がまとまってしまうと将軍家や北条家だけでは勝てない。もし勝てるなら、天皇家を廃止して自分が皇帝になって別の中央集権国家を作れば良かった筈です。これが無理なのは平家のやり方を見て認識したのだと思います。

その後、日本史上で唯一、豪族間の力関係のバランスを崩すことができる信長が現れたのですが、暗殺によってそれが実現しなかった。

その前後の歴代の政治指導者達も、他の大名が一つにまとまってしまったら力で勝てるはずがなかったので、自分が天皇に取って代わるのではなくて、今まで通りの封建制度を選んだのだと思います。

明治政府といえども薩長豪族の支配体形であり、したがって天皇を排するのではなく、それを戴くという支配構造になっています。

因に、幕府制では大名の私有財産権が認められており、それが貞永式目の中で「本領安堵」という形で成文化されています。人類史上で最初にこの資本主義の発展要件として本質的な私有財産権を成文化した憲法が日本の貞永式目だとのことです。
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基本的に明治維新は徳川家が将軍を務めていた幕府勢力と、これを倒そうとする勢力との間の争いの結果起こったものです。

徳川家と朝廷(天皇家)との争いではありません。そして幕府側も反幕府側も、自分たちの政治的な立場の正しさを主張するために天皇の権威を利用しようとしました。このためどちら側にも天皇家を廃する理由はまったくありません。

また家康を含む歴代の武家政権の始祖が朝廷から征夷大将軍に任じられていることからもわかるように、大きな権力を持っていた徳川家の将軍さまといえども、その権力の裏づけは天皇家の権威でした。最後の将軍徳川慶喜が「大政奉還」を行ったのも、徳川家が天下をお預かりしているという意識があったからで、このあたりに日本の歴史で天皇が果たした役割を考える大きなヒントがありそうです。
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短いながらも#2さんが正答でしょうね。


詳しくは山本博文先生の『徳川将軍と天皇』(中公文庫)をお勧めします。
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天皇家がなかったら150年前に徳川家は潰され無くなってますよ



皇室は明治維新とは直接関係がありません。薩長が事を進めやすくするため皇室を利用しただけです。

徳川が逆賊になった時、誰が守ったのでしょうか?叔母の和宮です。
和宮の助言があったからこそ徳川家が存続したのです。もし皇室がなく、薩長中心の討幕運動が起きたら徳川家は滅亡してしまいます。
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Q天皇陛下は家康・信長・豊臣家の子孫?

ニコニコ動画には、「天皇陛下の御先祖様を16代前まで遡ってみた」
というのがあって、それによると現在の皇室は、織田信長・徳川家康・
豊臣秀吉(の母)の子孫であるとの事だそうです。
だとすれば、現代の皇室は日本史オールスターですね。

残念ながら、どういうわけか私はこの動画を見る事が出来ないんですが
皇室が上記の人物の子孫だというのは、どういう流れになるんでしょうか?

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4182383.html
ちなみに天皇が徳川家康の子孫という部分はちょっと違うという
指摘があるようです。(他のルートで繋がっている可能性は大ですが)

Aベストアンサー

血は流れていますね。
大名と公家は色々と婚姻関係を結びますので、その関係で色々と有名な人の血が流れたりします。
だから色々なルートで繋がったりします。
そのニコニコ動画とやらは見ていないので知りませんが、以下のようなルートで繋がってたりもしてます。

まず織田信長ですが・・・
信長の次男「信雄」という人がいまして戦国時代を生き延び5万石の大名となります。
その「信雄」には子供がたくさんいまして、その四男「信良」は小幡藩藩主となります。
その「信良」の娘が、臼杵藩第四代藩主の「稲葉信通」に嫁ぎます。
そして次の第五代臼井藩藩主になる「稲葉知通」を産みます。
その「稲葉知通」の子「稲葉恒通」が臼杵藩第六代藩主になります。
その「稲葉恒通」の正室(お嫁さん)になったのが徳川家康の血筋の女性です。

ここで、ちょっと話を置いて、徳川家康に行きますが・・・
徳川家康の次男に「結城秀康」という人がいまして福井藩藩主となります。
この人も子供がたくさんいまして、その六男「松平直良」が大本藩藩主となります。
その「松平直良」の三男「松平直明」の娘が、臼杵藩第六代藩主「稲葉恒通」の正室(お嫁さん)になりました。

そして臼杵藩第六代藩主「稲葉恒通」と、その正室(お嫁さん)の間に娘が産まれます。
つまり、ここで「信長」と「家康」の両方の血をひく子供ができたわけです。
この娘さんが、公家の勧修寺家の当主「勧修寺顕道」に嫁ぎます。
そして跡継ぎの「勧修寺経逸」を産みます。
その「勧修寺経逸」の娘「勧修寺ただ子」が、第119代天皇である光格天皇に女官として仕え、後に光格天皇の子供を産みます。
その子供が第120代天皇になった仁考天皇です。
ここで「徳川」「織田」の血が天皇家に入りました。
そして第121代の考明天皇、第122代の明治天皇、第123代の大正天皇、第124代の昭和天皇、そして現在の天皇陛下へと血は繋がっていきます。メデタシ、メデタシ。


豊臣家の場合は・・・
秀吉には、「日秀」という実姉がいました。
この「日秀」が結婚し「秀勝」という子供が産まれます。
この「秀勝」を秀吉が養子にしたりしますが、それは置いておいて・・・
その「秀勝」が結婚し娘が産まれます。
この娘「完子」が公家の名門「九条家」に嫁ぎ、その跡継ぎを産みます。
そして時は流れて・・・
第123代天皇の大正天皇に九条家の娘さんが嫁ぎます。
そして第124代の天皇となる昭和天皇が産まれました。
つまり、ここで「秀吉」の姉の血が天皇家に入りました。
そして現在の天皇陛下へと血は繋がっていきます。メデタシ、メデタシ。

「織田」と「徳川」なら探せば他にも繋がってるルートが複数あると思います。はい。

血は流れていますね。
大名と公家は色々と婚姻関係を結びますので、その関係で色々と有名な人の血が流れたりします。
だから色々なルートで繋がったりします。
そのニコニコ動画とやらは見ていないので知りませんが、以下のようなルートで繋がってたりもしてます。

まず織田信長ですが・・・
信長の次男「信雄」という人がいまして戦国時代を生き延び5万石の大名となります。
その「信雄」には子供がたくさんいまして、その四男「信良」は小幡藩藩主となります。
その「信良」の娘が、臼杵藩第四代藩主の「稲葉信...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q皇室と徳川家について

初歩的な質問ですが、

徳川家康が幕府を開いて以降に、
朝廷と縁戚関係を築くために公武合体を進めていましたが、
実際にはどうなったのでしょうか?
(江戸開府~大政奉還までの間で)

現在の天皇家は家康の血縁なのでしょうか?
今上天皇は家康の実質の子孫になりますか?
それとも天皇家と徳川家との血縁は切れていますか?

Aベストアンサー

徳川家から皇室に入内したのは秀忠の娘 和子だけですが、和子と後水尾天皇の間には女子(明正天皇)しかおらず、明正天皇を除いては徳川家の血はついでいません。
逆に徳川家が皇室から御台所を迎えたのは、たくさんいます。
ただ、徳川家のほうもほとんどが側室の子ですから、ほとんど直接皇室の血は流れていませんが、徳川慶喜の母は宮家の出身ですので、慶喜の系統は徳川嫡流ではありませんが、皇室の血がながれています。(間接的になら、他の徳川家にも流れているかもしれませんが。)

Q武士政権が天皇家を潰さなかったのはなぜ?

源頼朝から明治維新まで武家の長である将軍家が政権をにぎっていましたが
しかしその間、天皇はその将軍家の君主として滅びずにあり続けました。
これは何故なのでしょうか?
かつての王家が名目だけ残る、というのは、実質上のトップである将軍家にとってやりづらくはなかったのでしょうか?
天皇家を存続させるメリットや、潰すと起こるデメリットなどがあったのでしょうが
考えをめぐらせてもピンと来る答えに行き着きません。
もし「これだ!」というものがあれば教えて下さい。

Aベストアンサー

まず歴史をひも解いてみますと, 平安時代に「摂関政治」が始まって以来, 天皇が権力を持っていた時代はほんのわずかしかありません. 白河上皇の院政期と後醍醐天皇の「建武の新制」, 明治天皇の一時期 (憲法ができるまで) くらい?
ということで, 鎌倉幕府成立時点で既に天皇は「権力を認める背景としての権威を保持する機関」となっています. そして, 武家政権を確立した平氏・源氏ともに「武家の棟梁」として認められたのは「貴種 = 天皇につながる血を持つ者」であるところが大です.
つまり, そもそも権力を持たない天皇をつぶすメリットはありません (天皇家をつぶしたとしてもそれに代わる権威が得られるわけではない). むしろつぶしてしまうと, 自らの権力を認める権威が失われてしまうこと, そして自らの棟梁としての正当性を失うことにより, 2重の意味で自らの権力基盤を失うことになってしまいます. であれば, わざわざ手をかけてつぶすよりも手の上でコントロールしていた方が簡単です.

Q天皇家はなぜ滅亡しなかったか?

中国や、ヨーロッパなどの歴史を見るとひとつの
国が滅んでまた新たな国が起こるというのは、常識ですよね。でもなんで日本だけが、二つの権力が両立していたんですか?武家は、天皇制を何で完全に排除しようとしなかったんでしょうか?専制君主せいだったらなおさら天皇が疎ましくなると思うんですが。不思議です。

Aベストアンサー

うーん、中国の歴史をいくら読んでも日本の歴史はわかりませんよ(^^;。

ただ、誤解があるようなのでもういちど。

> 源頼朝も足利尊氏も織田信長も太閤秀吉も徳川家康も、
> すべてを掌握したあと(すべての権力を手中に収めたあと)
> 天皇を排斥して自分が史上最高、名実ともに支配者への野望はなかったのでしょうか?
> (織田信長なんか生きていたら天皇を排斥してそうですけど(^^;)

日本の事実上の最高権力者である条件は、天皇を意のままに操ることです。
日本人が神聖なものとしてあがめていた天皇家を操ることができて、
はじめて最高権力者として君臨できたのです。

となれば、誰も天皇家に取って代わろうとは思いませんよね。
せっかくの権力の象徴を、自分でつぶしてしまっては、元も子もありません。

織田信長なんぞ、戦国の混乱ですっかり衰微していた天皇家を、
自らの権力の象徴として見出して、再び栄えるように手を打ったくらいです。
もともとは足利将軍家を権威として担ぐつもりだったのですが、
やはりそこは武家の棟梁、信長ごときに操られるのを潔しとしなかったため、
より無害で、かつ足利将軍家に官位を与えることができるほど
高い存在である天皇家を利用することを思いついたのですね。

徳川家康にいたっては、天皇家の地位と名誉のみは残しましたが、
公家も含めて事実上京都に幽閉状態とし、財力も極端にそぎ落とし、
一切世俗権力には近づけませんでした。
ここまで無害にしたものをつぶそうがつぶすまいが、
徳川家の天下になんら差しさわりがあるものではありませんね。

織田家や徳川家など、信長や家康の何代か前はほとんど素性も明らかで
ないほどの家(豊臣秀吉にいたっては自分の氏素性すら不明確)ですから、
自分が天皇に取って代わっても、権威の裏づけに乏しいことはみんな
自覚していました。それに、日本全土を自ら制圧したわけではなく、
既存勢力を傘下に入れての国内統一ですから、それらを心服させられる
手段が多いに越したことはありません。

ただ、信長は最終的には封建制を廃し、中央集権制にすることを考えて
いた節がありますが、本人は無神論者でもキリスト教を認めていた男です、
天皇家が政治に口出しをしない限りは、やはり象徴としてのこしたのでは
ないでしょうかね。

うーん、中国の歴史をいくら読んでも日本の歴史はわかりませんよ(^^;。

ただ、誤解があるようなのでもういちど。

> 源頼朝も足利尊氏も織田信長も太閤秀吉も徳川家康も、
> すべてを掌握したあと(すべての権力を手中に収めたあと)
> 天皇を排斥して自分が史上最高、名実ともに支配者への野望はなかったのでしょうか?
> (織田信長なんか生きていたら天皇を排斥してそうですけど(^^;)

日本の事実上の最高権力者である条件は、天皇を意のままに操ることです。
日本人が神聖なものとしてあが...続きを読む

Q鎌倉・室町、戦国、江戸時代の天皇 権威はあったの?

鎌倉・室町、江戸時代の天皇は権力がなく、室町時代や戦国時代は食べるものに困るほど貧窮した暮らしをしていたと思うですが、その時代には天皇の権威はあったのでしょうか?
あったとすれば、それは祭司王としての権威でしょうか?過去に作られた神話をもとにした権威でしょうか?古代の神(同時に鬼としても)信仰があったのでしょうか?ピースメーカーとして機能していたの?
権威があったのならあの時代、貧窮しなかっただろうし、江戸時代も皇位継承を幕府に握られるようなことはなかったと思うのですが。。。
そこらへんを詳しく解説していただけると助かります。

Aベストアンサー

<参考>
 日本史において、『中世~近世の天皇が、いかなる存在であったか』は、相当重要なテーマでありながら、過去の歴史家に見過ごされてきました。

 最近になって、この点を独自に掘り下げて、続けて論文・著書を発行し、この問題についての歴史的第一人者とみなされているのが、今谷明氏です。
 以下の著書を参考にお読みになればどうでしょうか。

『天皇家はなぜ続いたか 対談集』(新人物往来社 1991.12)
『日本国王と土民』集英社版日本の歴史、1992年)
『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権の逆襲』(福武書店、1992年/講談社学術文庫、2001年)
『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社現代新書、1992年/学術文庫、2002年)
『武家と天皇―王権をめぐる相剋』岩波新書、1993年)
『天皇と天下人』(新人物往来社、1993年)
『象徴天皇の発見』文春新書、1999年)
『象徴天皇の源流 権威と権力を分離した日本的王制』(新人物往来社、2011年)

 今谷氏は、女性宮家創設の是非について、日本政府から公式に意見を聞かれたりもしています。

<参考>
 日本史において、『中世~近世の天皇が、いかなる存在であったか』は、相当重要なテーマでありながら、過去の歴史家に見過ごされてきました。

 最近になって、この点を独自に掘り下げて、続けて論文・著書を発行し、この問題についての歴史的第一人者とみなされているのが、今谷明氏です。
 以下の著書を参考にお読みになればどうでしょうか。

『天皇家はなぜ続いたか 対談集』(新人物往来社 1991.12)
『日本国王と土民』集英社版日本の歴史、1992年)
『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権...続きを読む

Q徳川(江戸)幕府はなぜ滅びたのか?

徳川幕府の滅びた原因に国内と国外からのプレッシャーがあったとあるサイトで読んだのですが、具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?3~4つずつ挙げていただけると嬉しいです。(もちろん一つでも構いません)

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿様から将軍になり、享保の改革を行い、徳川幕府を建て直しました。 しかし、19世紀に入ると将軍は凡庸で、これを補佐する老中にも人を得られず、弱体化して行きます。

(2) 世界の重商主義の波に乗り遅れた
世界は18世紀後半にイギリスで始まった産業革命でそれまでの農業中心から工業中心に変わっていきます。 しかし、日本はこの世界の進歩発展をわずかに長崎の出島でオランダ人を通してしか知ることが出来ませんでした。 

士農工商の厳格な身分制度で経済の実験を握っていた商人を一番低い身分に置いたまま。 これでは世界の波に乗り遅れるのも当然です。 19世紀に入ると、日本にも佐久間象山(さくましょうざん)のように洋学といって欧米の先進技術に精通した研究者はいました。 しかし、徳川幕府は彼を登用しませんでした。 

(3)欧米列強の帝国主義の波に抵抗できなかった
前の世紀に産業革命を経験したイギリスに触発され、ドイツ、フランス、オランダ、ロシア、アメリカはアジア、アフリカに進出し、植民地を巡って競争を繰り返します。 19世紀の後半になると、関心は極東に向けられます。 彼らは強大な武力を背景に徳川幕府に開国を迫ります。 

彼らの武力にたいし、長州藩が1863年馬関海峡を封鎖し、馬関戦争が勃発しますが、鉄砲と大砲の火力の差を骨の髄まで知らされることになります。 この戦争によって、徳川幕府は欧米列強との武力の差を知ることになります。 
 
(4)人材育成の遅れ
徳川幕府の他の諸般に対する一番大きな差は人材育成の立ち遅れにあります。 徳川幕府は昌平坂学問所を作り、旗本の子弟育成に当たります。 しかし、ここの教授陣には洋学の」素養もなく、旧態依然とした朱子学に根ざしたもの。 

19世紀の日本には各地に優れた私塾がたくさんありました。
広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かいぎえん)、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)などです。

幕末の偉人に大きな影響を与えた吉田松陰は10才の時、時の長州藩の藩主に新春の進講講義をして論語を説いたほどの俊英でした。 そこで藩主の毛利公は参勤交代の列に14才の松蔭を加え、江戸に連れて行き、佐久間象山に洋学を学ばせ、さらに広瀬淡窓に博愛の心を学ばせています。 

このように各藩は子弟の教育に励んでいます。 長岡藩小林虎三郎による米百俵(こめひゃっぴょう)の逸話も子弟教育に対する熱意を示すものです。

しかし、権力の座にあった徳川幕府は子弟教育に大きく遅れを取り、薩摩長州を中心とした勢力との権力闘争に敗れてしまったのです。 

これは長年政権与党の座に居続けている自民党の若手議員が、」ひ弱で無能なのと似ていませんか。

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q世界28ヶ国の王家の中では、天皇家が世界一の格上ですか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%A4
世界には、日本・イギリス・ベルギー・スペイン・タイ・カンボジア・
サウジアラビア・スウェーデン等28ヶ国に王制が存在しています。
これらの国王の中でも序列というか「格の違い」ってあるのでしょうか?

例えば、「世界の王室が集まった時、天皇が最も上座に座る」と聞いた事が
ありますが、それは天皇家の格によるものでしょうか?
その理由は、この2つです。
・天皇家は世界で最も歴史のある王室である事。
・「King」よりも格上とされる「Emperor」であるから。
 歴史的に言えば「King」よりも「Emperor」の方が格上。「Emperor」は世界でただ一人。

世界的には、「差別や格差はいけない事だ」みたいな風潮がありますが、
そんな事を言ってしまえば王室の存在が崩壊してしまいます。
王族の世界とは歴然とした格差社会であり、格とか身分の差を公認する
社会だそうです。
彼ら王族は「王族の何たるか」という教育を受けているため、天皇家の
格の高さをちゃんと認識しているため上座を譲りますが、天皇家の権威を
よく知らないのは、もしかすると我々日本人かもしれませんね。

さて、世界の王室において、「格の違い」は存在していますか?
日本の天皇家は最も格が上というのは本当でしょうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%A4
世界には、日本・イギリス・ベルギー・スペイン・タイ・カンボジア・
サウジアラビア・スウェーデン等28ヶ国に王制が存在しています。
これらの国王の中でも序列というか「格の違い」ってあるのでしょうか?

例えば、「世界の王室が集まった時、天皇が最も上座に座る」と聞いた事が
ありますが、それは天皇家の格によるものでしょうか?
その理由は、この2つです。
・天皇家は世界で最も歴史のある王室である事。
・「King」よりも格上とされる「Empe...続きを読む

Aベストアンサー

私も以前考察しました。
その結果、多国間での「格の違い」は存在しません。

>>日本の天皇家は最も格が上というのは本当でしょうか?
ガセネタです。

まずタイ国王即位60周年記念式典での写真をご覧下さい。
http://www.thaiembassy.jp/photo%20gallery/60th/Albums/Album3/Source/Best_Wish_Expression_116.htm
天皇皇后両陛下はスウェーデン・ブルネイ両国王王妃より下座です。なぜなら、国の公式行事で複数の元首が並ぶときは、即位(就任)順で席順が決まります。ただしカトリックを国教とする国ではローマ教皇を自国元首よりも上座に位置させる国も存在するようです。

ただし、国(公的)ではなく王室(皇室)の行事、つまり私的な席では元首同士、国同士でのつきあいの深さによって、席次が決まることもあります。

ですから国家間では格に違いはない、国の規模、王家の歴史、称号の違いなどは関係なく、また元首が王であろうと大統領であろうとすべて平等です。

 西欧社会のEmperor、Kingの関係と、中華文化圏の皇帝(天皇)と王の関係を混同させて「天皇はKingよりも格上である。なぜならEmperorだからだ」というのはむちゃくちゃな理論です。
 ヨーロッパにおけるEmperorと、中華文化圏の皇帝(天皇)はまったく異なる政治概念です。ただ、似たような意義が含まれるから皇帝(天皇)をEmperorと翻訳に当てただけにすぎません(King・Queenを王・女王と訳すのも同様です)。また近代以降ではEmperor、King、皇帝、王と、どのように名乗るのも勝手でした。

だから明治になって天皇の訳語にEmperorを当てたに過ぎません。

参照
ヨーロッパにおける「皇帝」
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020628c.html

ヤマトの王が天皇を名乗った理由
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20050413A/?FM=cukj&GS=book

より詳しい回答が教えてgooにもあります。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3952917.html
No.3氏の良回答をご覧下さい。

また、
http://q.hatena.ne.jp/1145697267
の3番目の回答者さんもご覧下さい。

さらに重要なことは三大権威とか、天皇はKingよりも格上などというものは、ネットで、しかもなんら確たる証拠も提示しない掲示板やブログの書き込みでしか見あたらないということです。この時点で眉唾物です。
そういったものが公的に認められているのであれば、その条文なり、条約なりを提示すればいいのにしない。「不文律なんだ」「世間では隠されているのだ」とすれば、それほどのものがだれが書いたとも分からぬ掲示板ごときに流れること自体がおかしいでしょう。

誤解無きようにいえば、わたし自身は毎朝、神仏に天皇家の繁栄を祈り、皇室に敬意を持っています。
だからこそ、このようなデマにすがりつく必要はない。なぜなら、天皇は「日本の天皇」だから敬意を持っているのです。ほかの国よりも偉いから敬意を持っているのではないのです。
正直、この手のデマにすがりつく人って、天皇を敬うフリをしながら、正直天皇に敬意など持ち合わせていない。天皇の権威が分からない。だからこんな恥ずかしい理屈にすがりつかなければ、「天皇への敬意」が表現できないのではと思えます。
また、この手のデマにすがりつくサイトは、天皇への敬意、敬愛の念よりも、「俺さまの天皇は偉いんだぞ!! お前らなんか…」といった他国への憎悪、罵倒が表立っています。正直、他国を見下すダシに皇室を利用しているのではとしか思えません。

わたしは日本の天皇だから敬意を持っています。決して他国より偉いから、他国を見下したいからではありません。

私も以前考察しました。
その結果、多国間での「格の違い」は存在しません。

>>日本の天皇家は最も格が上というのは本当でしょうか?
ガセネタです。

まずタイ国王即位60周年記念式典での写真をご覧下さい。
http://www.thaiembassy.jp/photo%20gallery/60th/Albums/Album3/Source/Best_Wish_Expression_116.htm
天皇皇后両陛下はスウェーデン・ブルネイ両国王王妃より下座です。なぜなら、国の公式行事で複数の元首が並ぶときは、即位(就任)順で席順が決まります。ただしカトリックを国教とする国...続きを読む

Q日本の歴史で朝廷はなぜ残り続けたのですか?

学説や細かい歴史について詳しくないため、中学社会の延長での本当に基本的なご回答で構いません。宜しくお願い致します。

諸説あるかと思いますが、もともとは強い豪族や支配者によって古代に天皇が作られたかと思います。
その後、武家社会や戦国時代など1000年以上も力の強い者が弱い者を支配する世の中が続き、支配者も二転三転したにも関わらず、直接的に軍事力が高かったわけではない天皇(朝廷)が残り続け、影響力を保ち続けた(王政復古まで)のはどうしてなのでしょうか?

常に勝ち馬に乗り続けたのか、それとも権力争いをする者達にも天皇=神と信じていたため天皇を支配するという考えはなかったのでしょうか?

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

天皇家は元々地方豪族(この頃に豪族という呼び名はありませんが)の一つでした。やがて彼らは天照大神と言う神の直系として地域を束ね、やがて日本の統治に乗り出しました。
武士(平家や源氏)も元は貴族であり、天皇を守護する立場です。貴族や武士はやがて天皇の統治のために日本のほとんどを制圧しました。尚且つ勢力争いの中で天皇家の血筋に近づく為に、より近い縁戚関係を結ぼうと画策しました。
天皇家自体も血脈を絶やさない為に多くの子孫が生まれ、貴族や武士の天皇家との繋がり(家系)はこのようにして築かれてきたのです。
日本の統治は天皇家を頂点とした天皇家由来の支配者とその他の豪族(家臣)によって構成されています。そして平氏滅亡後は支配者は基本的に源氏の家系が治めるようになりました。
地方豪族もより天皇家に近い血筋を持ちたいと、当初は血縁によって、後には家系の売買さえ行なわれるようになりました。
秀吉が関白の地位を得るために家系を創った事は有名な逸話ですし、信長の祖先が平氏を名乗り、信長自身も藤氏であるため、源氏系である家康を厚遇したという説もあります。
更に武士の頂点である幕府を開く資格も、基本的には源氏の流れを持つものに限られました。幕府を開く許可を与えるのは天皇であり、幕府は本来天皇を守護する武士団の長ですから、第一に天皇家安泰を考えるのは当然です。
武士の世界といえど、武士は天皇擁護のための組織である事は日本国中の武士が自覚しており、天皇を排斥しようとする者は排斥されるし、戦っても他の武士の助力を得られない事になるのです。
歴史のなかでは度々天皇家に対抗したり、懐柔しようとする者が現れましたが、徳川家でさえ完全な全武士団の賛同と助力を取り付けることは出来ず、中途半端に終わっています。
最後に天皇を担ぎ出したのは薩長軍で、当初は天皇家の許しを得られなかったものの、勝手に天皇家の御旗を掲げて幕府軍を朝的として討伐しました。戦況の有利を得て、天皇も正式に薩長軍を認めたのです。とは言ってもこれは、朝廷の貴族が押したために天皇も認めざるを得なかったのでしょう。
これも、武士が天皇の臣下である事を武士社会全体が自覚していたから成し得たのです。

天皇家は元々地方豪族(この頃に豪族という呼び名はありませんが)の一つでした。やがて彼らは天照大神と言う神の直系として地域を束ね、やがて日本の統治に乗り出しました。
武士(平家や源氏)も元は貴族であり、天皇を守護する立場です。貴族や武士はやがて天皇の統治のために日本のほとんどを制圧しました。尚且つ勢力争いの中で天皇家の血筋に近づく為に、より近い縁戚関係を結ぼうと画策しました。
天皇家自体も血脈を絶やさない為に多くの子孫が生まれ、貴族や武士の天皇家との繋がり(家系)はこのよう...続きを読む


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