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今まで元寇はフビライの思惑による侵攻と捉えていたのですが。
知人から元寇の原因は朝鮮王の要請によるものだと聞いたのです。
朝鮮はフビライの命令によって兵や物資を強制されたと聞いていましたが、朝鮮王の要請となると今までの理解を正さねばいけません。
とりあえずWikiで元寇を調べ、朝鮮の関与を見てみました。

『高麗史』によると1272年に、高麗の王世子の椹(後の忠烈王)が、元国のクビライ皇帝に「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔を発し、軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、王師を小助せん」と具申したとある。
「元史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が「元の皇帝に執拗に、東征して日本を属国にするよう勧めた」との記述がある。

Wikiをそのまま信用するべきではない、と聞いた事がありますので
朝鮮の関与についての真偽を教えて戴きたいのです。

A 回答 (4件)

そもそも元寇の発端は、


 「元史 卷二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國」に、
 『元世祖之至元二年,以高麗人趙彝等言日本國可通,擇可奉使者。』
 「1265年、高麗人の趙彜(ちょうい)という者が、元の世祖・フビライに日本国との通交を勧めた」
とある。

日本が外国勢から侵略を受けるのは、「元寇」が初めてではない。
 日本側の記録によれば(『太宰管内志(大宰府管内誌)』『類聚三代格』『日本三代実録』『百練抄』『日本紀略』『扶桑略記』等)、それまでたびたび侵略を受け、九州北部はもとより薩摩大隅にまで及んでいたことが記録されている。詳細(海賊・倭寇の起源を探る)
 その大半は、朝鮮半島からのものであった。数隻の賊船によるものがほとんどであったが、中には、45隻2500人の新羅の者が来襲し、捕らえた捕虜が「王の命令を受けて略奪に来た」と述べたこともあった。(『扶桑略記』)
 また、どこの国のものかは定かではないが、最大規模のもので、承徳元年(1097年)、異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せ、大宰府官兵・九州軍士が賊船を撃破し賊徒数万を海没させた、という記録がある。
 九州大宰府は古代から日本外交の窓口の役割を果たしてきたが、同時にそこは外冦防衛の拠点でもあった。

 その大宰府に蒙古の国書と高麗の副書を携えた高麗の使者が到着したのは、文永五年(1268年)正月であった。

参考URL:http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/genk …
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この回答へのお礼

刀伊の侵攻については存じていたのですが、それ以外にも大規模な侵略が存在していた事は初めてしりました。
九州の武士達にとって外国勢との戦いは現実離れした事柄ではなかったのですね。

啓蒙される情報を戴き有難う御座います。

お礼日時:2007/10/19 23:16

岩波文庫「高麗史日本伝」によると、


1271年に元朝は、高麗に屯田経略司を置くことを決めています。この時点で、日本へ出兵する準備が始まっていたわけです。
高麗の世子は人質として大都にいましたので、元朝の意向に沿った発言しかできないでしょう。高麗から日本への出兵をお願いした形式を取れば、高麗は出兵のため、どんな無理でもしなければならなくなりますので、元朝の意向により、世子からの要請が行なわれたと判断するのが正しいのでは、ないでしょうか。
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この回答へのお礼

元帝国は属国の要請により宗主国が動く形をとりたかった、其の為に高麗から要請が必要との事ですね。
日本以外の東南アジアへの侵攻のときも何かしらの建前や大義となることを持ち出して侵攻したのでしょうか。

回答の程有難う御座いました。

お礼日時:2007/10/19 02:22

1272年の時点で高麗はすでに元の属国でしたが、それに反発した三別抄による反乱(彼らは高麗王朝を転覆して新王朝を樹立するつもりだったとも言われています)が起きており、そして三別抄が1271年に日本に救援を要請していた事を知り(日本側は黙殺しています)、日本が三別抄と手を組んで攻め込んでくる危険性を考え、先手を打とうとしたとも考えられます。


三別抄の反乱は高麗・元の連合軍によって1273年に鎮圧されますが、その後も忠烈王が日本侵攻を元に要請したのは、元の軍事力で自分の権力基盤を強化するのが本来の目的であり、そのために元軍を朝鮮半島に駐屯させるための口実だったとも言われています。
結果的には莫大な経費負担を余儀なくされた上に日本侵攻は失敗したため結果的に高麗王の権威はかえって損なわれてしまいました。
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この回答へのお礼

朝鮮側から鎌倉への要請があったことは聞いた事があります。
日本への危機感と権威向上の為に強国の後ろ盾がほしかった訳ですね。
回答有難う御座いました。

お礼日時:2007/10/19 02:12

歴史の記述はそれが正しいものであっても、その裏に何があるかを


考える必要があります。

少なくともその時点で高麗が元に「侵略されるかもしれない」という
相当なプレッシャーを受けていたことは確かですから、そういう精神
状況の下で「他国を侵略するべきだ」という意見表明が何を意味するか
をご自分で判断する必要があるのです。

歴史は歴史の勝者が作るものですので。
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