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レコンキスタについてお聞きしたいです。
国土回復と訳されるこの言葉ですが、
イスラム教徒が占領してから長い時間が経つのに、
イベリア半島は、キリスト教徒のものであるとの意識をずっと持ち続けたのでしょうか?

国土回復という意識でもって征服を行ったのか?
それとも、たんなる膨張による侵略なのでしょうか?

また、ジブラルタル海峡によってアフリカとヨーロッパは分断されていますが、それほど交通に不便な距離ではないと思います。
なぜ、ブリテン島には、イギリスのようなヨーロッパ国家が誕生したのに対して、
アフリカ北岸にはヨーロッパ国家が誕生しなかったのでしょうか?

A 回答 (4件)

イベリア半島には、キリスト教国家である西ゴート王国が存在していました。


その西ゴート王国を滅ぼしたのがイスラム国家であるウマイア朝です。
西ゴート王国が滅ぼされた時、西ゴートの貴族達の一部が、カンタブリア山中に逃れ抵抗運動を続けます。
その勢力がまとまり、アストリア王国ができあがります。
アストリア王国は、正統なる西ゴートの後継者としての自覚が、国家存続の基礎となっていました。
また、ガリシアの地で、サンチアゴ(聖ヤコブ)の墓がみつかったとして、ヨーロッパ最大級の巡礼地サンチアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂が建てられ、ヨーロッパ各地から巡礼者を迎え入れる事になります。
その巡礼の道が、カミーノ・デ・コンポステーラ(コンポステーラへの道)として、世界遺産になっています。
アストリアス王国は、後にレオン王国、カスティジャ王国となってゆきますが、それら諸国が、キリスト教国家である事、ヨーロッパの一員でありイベリアを解放する事が、国家存続の使命感となり存在理由ともなっていました。
また、イスラム諸国は、イスラムへの改宗を強制しませんでした。
これは、イスラム教徒以外に人頭税をかける事ができたため、イスラムへの改宗は、財政的損失を受けるためでした。
(後に東ヨーロッパを支配するトルコは、ヨーロッパ系住民のイスラムへの改宗をさせないような政策をとります)

>イベリア半島は、キリスト教徒のものであるとの意識をずっと持ち続けたのでしょうか?

国家としての存続の正統性を主張するためには欠かせない事でした。

>国土回復という意識でもって征服を行ったのか?
それとも、たんなる膨張による侵略なのでしょうか?

どちらも正解です。
両方の混じったものです。
ただ、時期的にどちらが強いかの差は有りましたが。

>ブリテン島には、イギリスのようなヨーロッパ国家が誕生したのに対して、アフリカ北岸にはヨーロッパ国家が誕生しなかったのでしょうか?

ヨーロッパが、イスラム世界に圧倒的優位に立つのは、17世紀以降です。
モロッコにおいては、既に民族形成が終わっており、そのころではヨーロッパ型の国家ができる余地が無くなっていました。

それに対し中南米の地では、文化的にマヤ・アスティカ・インカなどよりもスペイン文化は圧倒的優位にありました。
そのため、中南米には、準ヨーロッパ型の国家ができあがります。
それでも、インカの中心であったアルトペルーやマヤの中心であったグアテマラなどでは、原住民文化が色濃く残っています。
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既に詳しいコメントが付いているところに素人が書くのも何ですが


書いちゃったので投稿してしまいます。

>イベリア半島は、キリスト教徒のものであるとの意識をずっと持ち続けたのでしょうか?

イスラム勢力側が来た最初の頃の戦いで徹底的にキリスト教勢を潰さずに、北部に残ったキリスト教徒国をそのままにしてあったんですよ。
時を経てイスラム王朝側が弱体化するにつれ、北部に残っていたキリスト教勢が「追い出そうぜ」ということになったのではなかったか。

そういう意味では単なる征服なのかもしれません。
が、元は自分たちの先祖が住んでいた土地だから、「再征服」と称したのでしょう。
Reconquista は、「再征服」という意味です。

#2さんがおっしゃるようにイスラム支配下では学問が繁栄したり、キリスト教徒もユダヤ教徒も住んでいたそうです。
再征服後のカトリック両王のほうが異教徒にずっと厳しかったです。


キリスト教以前の紀元前だと、
北アフリカをローマ帝国が支配してましたよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC% …

古代エジプトのプトレマイオス朝はギリシャ系の王朝でした。
どうもクレオパトラの挿絵などがいつも白人ぽいなぁと思ってたら、王族はギリシャ系で、エジプト人の血が混じらなかったかららしい(ウィキペディア情報)。

ブリテン島には元からヨーロッパ系諸族が住んでましたでしょう。
(元はキリスト教じゃない文化がありますが)
欧州大陸との結びつきが強くなるのは自然なことだろうと感じます。
大陸側の人と親戚みたいなものですから。

アフリカ大陸側のマグレブ(マグリブ)3国はアラブ人、ベルベル人等で民族も文化も宗教も、地中海の向こう側とは系統が全然違いますから、比較にならない気がします。
それにイスラム側はイスラム側で強い勢力があったし、時代によってはヨーロッパよりイスラム圏のほうが先進的で栄えていましたし、
ヨーロッパが支配的な時代ばかりではなかったです。
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>イベリア半島は、キリスト教徒のものであるとの意識をずっと持ち続けたのでしょうか?



意識の問題では#1さんが指摘している通り、世界=キリスト教徒のものであります。がしかし大義名分に過ぎません(対立の図式化が簡単で説明しやすいので)。
実際は、質問者様の言う通り“たんなる膨張による侵略”の方が近いでしょう(イスラム教支配下にあっても、実際は小競り合いはあったものの両教徒は長い間共存していました)。14・15世紀は中世の危機と言われる時代でした。何が危機か?伝統的解釈によると“封建制の危機”(ビザンツ帝国滅亡による)“キリスト教世界の危機”です。
しかし別な解釈によると、人口増加→食糧供給が追いつかない→戦争+ペスト→人口減少→食べ物と労働力を求めてヨーロッパ外へ
この過程の手始めが、当時イスラム教支配下にあったイベリア半島占領です。

>アフリカ北岸にはヨーロッパ国家が誕生しなかったのでしょうか?

欧州型国家が誕生するにも条件が必要です。つまりキリスト教徒が多数定住していなかった。欧州(キリスト)世界よりイスラム世界の方が断然豊かでした。その豊かなイスラム型国家を捨て、アフリカ北岸にイスラム教徒が後進地域の欧州型国家を建設する必要はないのです。
次に確かに1415年のポルトガルがモロッコ(セウタに)に欧州世界最初の植民地を建設しています。がこの地域からイスラム教徒を駆逐することはできなかった。アフリカ北岸(モロッコ)は確かにジブラルタルを挟んでイベリアと目と鼻の先です。でもイスラム勢力圏の本領にも近いです。もし本格的にこの地域に欧州勢が進出したら、イスラムとの大きな接触は避けられないでしょう。故にイベリア両国は海外に目を向けたわけです。

ブリテンはその地理の特性上、“欧州型国家しか生まれ得なかった”といえるでしょう。キリスト教しか(支配者層として)住んでいませんから。
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キリスト教徒は、世界中がキリスト教のものだと思っています。


なので、イベリア半島ごときはものの数ではありません。

アメリカのインディオを征服したのも、フィリピンを征服したのも、同一線上にあります。

ヨーロッパ国家
イギリスのような辺境にも近代ヨーロッパ型国家が成立したのだから、同じようなアフリカ北岸という辺境にもヨーロッパが他国家が成立可能だったのではないか?
という質問だと思います。
これは、「ヨーロッパの辺境であるが故に、イギリスに近代ヨーロッパ型国家が成立した」というのが考えとしては正しいかと思います。近代国家=資本主義と市民社会の国家と考えると、その時代の前の体制、封建体制が典型的に展開した、北部フランス~ベネルクス~ドイツ西部、このあたりのご近所にあったが故に、イギリスに近代体制が成立したと考えられます。
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