No.6ベストアンサー
- 回答日時:
ANo.4,5です。
最後に少しだけお話しますと。>>一向宗は浄土系の宗派であって、絶対他力を信仰する集団とは必ずしもという事だと理解しました。
大まかのところはそういうことです。一向宗は確かに現在の浄土真宗のことですが、当時一向一揆に参加したものの中には浄土真宗以外の浄土教の人間もいてもおかしくないということですね。
>>特に本願寺から資金提供など後押しがなかったとすると、何ゆえに一向一揆だけが、多発し、強大であったのか不思議です。
確かに資金も大切ですが、もう一つ大切なの団結力ですよね。その面に関しては大いに浄土真宗は関係があります。当時の浄土真宗の信仰は決して誰か一人の手によって作られたものではなく、一般庶民の間ではぐくまれた村落共同体における共通信仰となっていったことにあります。当時の庶民たちは村堂等を中心に講造りを行っています。それは、往生講と呼ばれたり念仏講と呼ばれたりするものでみんなで集まって念仏を称えるというものです。そういった講というものを通じて、連帯意識が深まり信仰共同体を形造って行きます。こうした集団は個人の宗教を超えて規制力を持つとき、大きな結束力となって現れます。そういった、結束力が一揆というときに大きな力となったといえるでしょう。資金があっても結束する力がなければ一揆なんておこせませんからね。
それは、蓮如上人というカリスマの元で吉水で飛躍的に広がって行き、後々に真宗を中心とした石山本願寺などの独立自治集団となり、信長なんかに目をつけられるくらいの大勢力になたといえるでしょうね。
>>当初の疑問は、この多発した一向一揆が、その宗教を特徴付ける教義である絶対他力と矛盾を有していることでしたが、上記の疑問を少々自分なりに調べてみようと思います。
私自身は一向一揆の原因は信仰の問題は違うものであると思いますよ。ご自身でお調べになるというのでしたらヒントだけ、「絶対他力」という阿弥陀仏への信仰は自己の内面の問題。「一向一揆」という反体制の抗議活動は社会的な外面の問題。ということだけ述べさせいただきます。これは一応今のところの私の答えです。私ももう少し勉強してみようと思います。
有意義な問題提起ありがとうございました。
合掌 南無阿弥陀佛
往生講や念仏講による連帯あるいは結束。
これについては初耳ですし、考えもしませんでした。
禅宗のように座禅を組むわけでもなければ、踊念仏というわけでもないのに
集まって念仏を唱えていたとは思いもしませんでした。
たった6文字をひたすら読んでいたのでしょうか・・・・。
祈るなら一人でも出来るのに教会に行くようなものだったのでしょうか。
これも調べてみます。
只管打座でも人々は集まって行っていたと思うのですが、その場合、如何せん連帯感にかけるというか、自己を見つめることに専念し、一揆に移行する集団ではなかったのかもしれません。
一向宗徒と一揆につながる原因を探し、それが「講」にあるとすれば、他宗派と比較することが科学的思考かと思い、上記のように考えました。面白い仮説だと思ったので記しておきました。お笑いください。
度々のご回答有難うございました。
有意義といわれると恥ずかしいですが、宗教的要素を伺ったにもかかわらず、荒らされたりされることもなく、真摯な回答を得られありがたく思っています。
この場をお借りして皆様にお礼を申し上げます。
No.9
- 回答日時:
>>すなわち、宗教的弾圧からの解放が目的であったと。
(弾圧されても極楽浄土にはいけるのでは?というのが当初の疑問ではありますが)
確かに、弾圧の当初は、「ただひたすらに耐える」ことが、極楽浄土への路として、信者たちも「耐えて」いました。
しかし、後世の「キリシタン」にしても、「島原の乱」のように、耐えて耐えて、ただひたすら耐えていたにもかかわらず、弾圧に対する「決起」が勃発したのと、やや似ていますね。
やはり、そこには、親鸞上人などのように悟りを開いた者と、どこか人間臭さの残る信者としての「葛藤」はあったと思います。
だから、土豪たちの多くは、自分たちの家を守るため、あるいは、家臣たちを守るために、あっさりと、真宗を捨てて「曹洞宗」などに改宗したのではないでしょうか。この土豪たちも、結局は、権力に負けた人たち、と、言えるのではないでしょうか。
そこへいくと、庶民は極端に言えば、何も守るものが無い。守るとすれば己自身。従って、捨て身の行動に走ったのではないか、と、考えられます。
度々の回答を有難うございます
真宗を捨てて改宗したとしても、つまり改宗するような人であっても
念仏を唱えれば極楽浄土へいけるという考えは
悪人正機説の拡大解釈でしょうか。
もし改宗してもOKということであれば、土豪たちの対応は理にかなっているように思えるのです。
もちろん一揆を起こしても極楽浄土に行けるという思想だったのでしょう。であるならば、一揆の目的は極楽浄土へ行くことを前提とした上でかつ、自力的にしかなしえない現世での処遇改善ということでしょうか。
矛盾のない考えに到達してきた気がします。
あとは末法思想による真宗の拡大が矛盾点のような気がします。
厭世観から真宗に入ったのであれば、この世の待遇はあまり気にしないように思います。
これは他の回答者様による、真宗に対する理解不足によるもの、あるいは土豪との密着による拡大と考えればよいような気もします。
有難うございました。
No.8
- 回答日時:
>>一向一揆自体は信長以前からあったと思いますが
確かに、一向一揆の端緒は、すでに寛正年間(1460)年頃が始まりと言われています。初めは、越中国と、多くの歴史書に書かれています。
なぜ、越中国か?
そこには、多分に承元元年(または、建永2年)(1207)2月上旬、興福寺などの告訴により、法然以下親鸞もまた越後に流罪となっています。
当時、「流罪」といっても、決して「土牢」などに閉じ込められることはなく、京都に戻らなければ自由に各地に出歩くことはできました。
従って、そうした環境のもとで、親鸞は布教活動を続け、越後や越中、加賀辺りでは「真宗」が、ただ「南無阿弥陀仏」を唱えれば「極楽浄土」に行けるという信仰が一気に広まったものと考えます。
そして、その弾圧に乗り出したのは、とりもなおさず、「朝廷」でした。
初めは、一向宗の人たちも何も「抵抗」せず、ひっそりと、自分の宗派を守り続けました。しかし、朝廷の弾圧は日に日に厳しさを増し、現代の言葉になおせば「一向宗狩」がたびたび行われるようになり、やはり、武器を持つ権力者側には勝てず、ついには、反抗する一部の輩(やから)が徒党を組んで抵抗しました。これが「一向一揆」の始まりとされています。
しかし、、そこには、現代でもそうですが、新しい信仰に対する政権側の「脅威」は、当時も「洗脳」(当時は、こうした言葉は使われていませんでしたが)は、「人心を乱すもの」と受け止められ、朝廷等からは著しく嫌われました。後の、日蓮上人などにも言えることです。
とにかく、旧態依然の社会情勢が、朝廷を初めとする権力者には、当然のことであり、「新体制」は排除すべきものとされたのは言うまでもありません。
こうした中で、「神道」を重んじない、しかも、「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで「極楽浄土」に行ける、と言う「新発想」または「奇異の発想」は、権力者には受け入れがたい事実だったと思います。
そこで、そうした「真宗」の教えに対する弾圧も厳しく、後の、越中、加賀に対する越後の上杉謙信の出兵も毎年のように行われていました。
しかし、親鸞は自らの関西、関東方面の弟子に「自力他力事」という「親書」を送り、支援しています。
しかし、一番痛手をこうむったのは、尾張(愛知県)三河の人々であったと思います。
織田信長の台頭以来、彼らは、土地を追われ「流浪の旅人」となり、攻められてもなお「真宗」を捨てない越中、加賀、能登の同朋を頼りに集結しました。
一部は、佐渡へも流れて行きました。
こうして、「新興宗教」の弾圧は、逆に、彼らを「集団化」させる要因ともなったのです。
現代でも、「○○○真理教」「○○の泉」etc、後世には生き残るのでしょうかねぇ。
再度の回答有難うございます。
bungetsuさんのお考えでは、宗教理念が支配層から見れば異端であり、弾圧の対象であった。ゆえに自治権を求め一揆を起こしたということですね。
すなわち、宗教的弾圧からの解放が目的であったと。
(弾圧されても極楽浄土にはいけるのでは?というのが当初の疑問ではありますが)
教義を理解していない、あるいは宗教的要素は少ないとする他の回答と真っ向から反対するもので、
もちろん私にはどちらが正しいなどと解かりませんが、
今しばし締め切りをせず多くの回答を待ちたいと思います。
自力他力事をwikiで読んでみました。
中心の不在による暴走形態でないと思います。
有難うございました。
No.7
- 回答日時:
私は、自称「歴史作家」です。
まず、一向宗(浄土真宗、または、真宗)の教義の中には、「自衛団結権」を提唱する文言は一つもありません。
しかし、浄土教団の一つに「時宗」があり、同じく「南無阿弥陀仏」と唱える阿弥陀信仰ではあるが、日本の「釈迦」と仰がれる太子を源流としている。「太子」とは、とりもなおさず、「聖徳太子」のことです。
こうした、太子を奉ずる人々を「太子衆」呼び、「念仏講(=太子講)」は、寺院建築等の職能集団として優れた技術を持ち、「特殊技能集団」を指すものとして用いられることがありました。
彼らは、当然、各地の土豪が勧進する寺院建築や、はたまた、土地の開墾、水路の設置、金銀山の開発等に大きな役割を果たしました。
従って、各地の土豪の多くは「太子衆」との関わり持ち、さらには、親鸞の布教活動により、同じく「南無阿弥陀仏」を唱える浄土真宗を信奉するようになりました。
しかし、織田信長の「一向宗禁制」により弾圧が加えられはじめると、自然発生的に「自己防衛」をするようになりました。
彼らは、当初「戦わずして自己防衛権」の確立を目指しましたが、信長に応呼した大大名たちに、その権利を認めてもらえなくなってくると、各地で「一向一揆」と呼ばれる形で、権力主義者との戦いを始めるようになっていきました。
もちろん、彼らの後ろ盾(経済的援助)は、当初は、彼らを雇っていた土豪たちでした。
彼らは、決して「戦い」を好んだわけではなく、「信仰の自由」を奪われることへの大きな憤りの中で、やむなく、絶対権力者との戦いに明け暮れ、各地に離散していきました。
また、各地の土豪たちも、次第に、絶対権力に勝てないと分かると、主に、「曹洞宗」などに改宗していきましたが、土豪の家臣たちは、依然として「真宗」を奉ずる人たちもおり、必ずしも、土豪たち全員が真宗を捨てたわけではありません。そして、一向宗門徒に支援を続けました。
彼らは、確かに「他力本願」の門徒たちではありましたが、やむなく、「集団的自衛権」を勝ち取ろうとしたのです。
また、寺院にしても、土豪の改宗により、引き続き「菩提寺」としての援助を受けるため、表面上は「曹洞宗」などに改宗しましたが、それによって、「阿弥陀如来像」を本尊としながら、「曹洞宗」と名乗るようにもなり、矛盾を抱えたまま、今日にいたっている寺院も数多くあります。
ご回答有難うございます。
恐らくは、他の回答者様へのお礼を御読みになってからのご回答だと思います。長い文だったのに、恐縮です。
土豪との密着や経済支援、なぜ浄土真宗が広まったのか、解かりやすかったです。
信長の弾圧と自己防衛については鶏卵論争のような趣がありますね。一向一揆自体は信長以前からあったと思いますが、かと言って何らかの抑圧なければ一揆は起こらないでしょうし。
阿弥陀如来と曹洞宗については、確かに疑問に思ったことがあります。
疑問を忘れていましたが、ここで解決するとは思いませんでした。
有難うございました。
No.5
- 回答日時:
ANo.4です。
まず、先の文章の中に誤字があったので訂正します。>>また大きな一向一揆というのも、執行集が自治独立することに対しての、政治的な反発が原因で、どちらかといえば政治的な戦争の意味合いのほうが強いですね。
というところは、
「また大きな一向一揆というのも、「一向宗」が自治独立することに対しての、政治的な反発が原因で、どちらかといえば政治的な戦争の意味合いのほうが強いですね。」
と直してください。
では本題に入ります。
>>当時の農民における最大宗教をしりませんが、それが一向宗でかつ、宗徒の人口比と比例して他宗派の人々も一揆を起こしているのでしょうか?
当時の農民の宗教の人口比率はわかりませんが、「一向宗」という言葉の問題もあります。一向宗とは現在浄土真宗のことになっていますが、一概にそうとは言えません。浄土系といわれる宗派は浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念仏宗、などがあげられるかと思いますが、民衆レベルでは当時それほど宗派の違いがはっきりしていたわけではないと思います。
特に、浄土宗、浄土真宗、時宗は法然上人の流れを汲んでいますから、浄土真宗に関して江戸時代には浄土宗とはずいぶん違った教団を作り上げていますが、一向宗は浄土宗の中の一向義という一派閥として扱われている場合もあります。こうなると、民衆レベルではどれほどの違いがあったかは、考える余地があるでしょう。
また、ほかの宗派のものたちが起こした一揆もあります。戦国時代(安土桃山時代)から江戸時代初期にかけてということでしたら、代表的なものは「法華一揆」と「島原の乱(天草一揆)」なんかも、宗教が中心となった一揆といえるでしょうね。法華一揆はちょっと違った様相を呈していますが、島原の乱なんかは一向一揆と近いにおいがしますね。
>>本願寺からのお金の流れなど別の力が働いたのでしょうか?
これに関しては、上記の訂正文を見ていただければお分かりかと思いますが、当時の一向宗は独立した自治集団でした。簡単に述べますと、国一つもってたと思っていただければいいかと思います。しかも、行政はなかなかうまいこといっていたようですよ。ですから、本願寺からのお金の流れというより、その独立自治集団の中でお金の流れはあったと考えます。
そういった教団の基礎を作った八代目蓮如上人は、基本的には平和主義だったようであまり一揆をこころよく思っていなかったようです。ただ、現在の最新研究では刀をあつらえていたという話も残っていますからね、中心的な役目は果たしていたかもしれません(現在の研究では、どちらであったかはまだ定説を見ません。)。しかし、どちらにしてもやっぱりそれについていくだけの民衆の力というほうが要因としては大きいと思いますよ。
簡単にまとめますと、確かにこういった一向一揆などを中心とした宗教を中心核とした一揆は、同時代に起きた土一揆よりはるかに強力であり、土一揆は16世紀(1500年以降)衰えていきますが、宗教を中心とした一揆はもうしばらく続きます(土一揆が吸収されていったという見方もできます)。これらの一揆の流行の原因は社会階層の変動が多いですね。南北朝の騒乱なんかは地頭ですとか代官層層の社会的な進出によるものであるといえますが、この時代の一揆の主流は名主や給人層の進出と言えます。室町幕府の政治力の失墜、守護層の内争、貴族や寺社の没落などを動機とした下民層の暴動と見るのが妥当ではないかと思います。
またしても、長々書き連ねました。誤字脱字や乱文どうぞご容赦ください。まぁ、少なくとも答えにはなっていませんね。申し訳ないです。
合掌 南無阿弥陀佛
丁寧な回答を有難うございます。
確かに島原の乱は宗教色が強く、投降者が限りなく少なく、敗者がほぼ全滅という類を見ない例だと思います。もちろんこれはこれで、教義と矛盾している面もあるのでしょう。
一向宗≒浄土真宗 というところに触れていただきありがたく思います。
一向宗は浄土系の宗派であって、絶対他力を信仰する集団とは必ずしもという事だと理解しました。
特に本願寺から資金提供など後押しがなかったとすると、何ゆえに一向一揆だけが、多発し、強大であったのか不思議です。
当初の疑問は、この多発した一向一揆が、その宗教を特徴付ける教義である絶対他力と矛盾を有していることでしたが、上記の疑問を少々自分なりに調べてみようと思います。
有難うございました。
No.4
- 回答日時:
同じ視点から見ようとすると、矛盾が生じますね。
ただ、二つは違う視点から見るべきものであると思います。まず、絶対他力に関しては「宗教的な視点」。そして、一揆に関しては「政治経済の視点」です。>>南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土にいける絶対他力を信じる一向宗の人々が、
確かに一向宗(浄土真宗)では絶対他力が説かれます。自力においての仏道修行は一般庶民には難しいものであり、時代背景も末法という経典どおりに受け取れば悟ることができない時代ということになっています。そんな中、そういった理由から仏教的な悟りや救いを求めることのできない人々こそ救わねばならないと御本願を立てたのが阿弥陀仏というわけです。この阿弥陀仏を信じて、阿弥陀仏の御本願にあるように阿弥陀仏の名前を呼んで、極楽浄土に往生させていただき悟りを開くというのが浄土教の趣旨です。ですから、阿弥陀様任せで何もしないということではなく、阿弥陀様のおっしゃることに自発的にしたがって生きるということになります。
そうすると、「俺って仏様に支えられてるんだなぁ~。嬉しいな。ありがとぉ~」って気持ちになる。これが「絶対他力」なんでしょうね。
>>一揆という自力的解決方法に乗り出した矛盾が理解できないのです。
こちらに関しては、私は一向宗が起こしたという考えはありません。簡単に述べますと、上記の通り、一向宗の教えはわかりやすく、身分が低くともお念仏で救われるというのが売りなわけです。すでに、平安時代には誰でもできる念仏はメジャーな教えでしたし、法然上人の登場により一層広まっていき、農民のような身分の低い人たちに支持されます。つまり、一揆を起こした農民たちが一向宗の門徒が多かったということだと思います。
>>世界のあらゆる宗教戦争は矛盾だらけだといわれれば、確かにそうかもしれませんが・・・・。
さて、宗教戦争ということですが、私は宗教戦争というものは基本的にはないと考えています。十字軍遠征にしても、先のイラク戦争も然りです。
有名な宗教戦争をあげるならば、「シュマルカルデン戦争」1531年に反カトリックを掲げた諸侯の同盟が起こした戦争ですが、その理由ドイツ農民戦争で兵を出してくれなった皇帝への不満から同盟は結成され、反カトリックを掲げた宗教戦争となったということのようです。
イラク戦争にしても、中東の反米感情を持つ人にイスラム教徒が多く、イスラム教徒対非イスラム教徒という形になったといえます。
つまり、宗教戦争と呼ばれるものの原因を見てみれば宗教的な対立よりも、政治的な対立のほうが大きな原因になっていたりするものです。本当の理由は政治的な対立であるのに、政治家が戦う理由として宗教という大義名分をもってきたがるだけです。どこかの大統領は「聖戦」という言葉でそれを大成功させましたね。はたして、そういったことを「宗教戦争」と呼ぶべきかは疑問が残りますね。
そういったものとしては「一向一揆」もまた然りです。もともとの原因は、宗教の理由ではなく政治的に農民たちが苦しめられていたということにあると思いますよ。ですから、一向宗だから一揆を起こしたのではなく、一揆を起こした農民たちが一向宗の門徒が多かったと考えるほうが自然でしょう。
しかも、一向一揆を全部が全部「打ち壊し」のようなものと思っていませんか??確かに歴史の授業などで取り上げられる一向一揆は派手なものです。しかし、それはほんの一部で、歴史的な大事件だから取り上げられているだけです。現在の歴史学的宗教研究において一向一揆の大半は意見陳述書をお上に提出して話し合いにおいて解決しているという研究がありますよ。
また大きな一向一揆というのも、執行集が自治独立することに対しての、政治的な反発が原因で、どちらかといえば政治的な戦争の意味合いのほうが強いですね。
ですから、一向宗の信仰と、一向宗門徒による一揆は別ものと考えたほうがいいと思いますよ。たしかに、信仰という共通理解はあったとは思いますが、一揆の原因は信仰とは別物で政治的な不審であると考えます。
長々書き連ねましたが、まとまらぬ文章で申し訳ないです。文意を読み取っていただきたく思います。
合掌 南無阿弥陀佛
回答有難うございます
>私は一向宗が起こしたという考えはありません
No1さんとNo4さんの回答を読み、一向一揆という言葉が悪いのではないかと思い始めました。
宗教戦争という言葉の難しさも同感です。
純然たる宗教のみが原因となった戦争などないかと思います。
>一向宗の信仰と、一向宗門徒による一揆は別ものと考えたほうがいい
というのは少しだけ疑問がわきます。
当時の農民における最大宗教をしりませんが、
それが一向宗でかつ、宗徒の人口比と比例して他宗派の人々も一揆を起こしているのでしょうか?
恐らく違うと思うのです。
本願寺からのお金の流れなど別の力が働いたのでしょうか?
だとすると少し理解できる気もいたします。
No.3
- 回答日時:
誤っているかもしれませんが、自分の認識です(私は一向宗でなく浄土宗徒)。
基本的には、現世に悲観して、死後の世界に救いを求めて「南無阿弥陀仏」を唱えていた訳ではないと思います。
輪廻転生(死んであの世に還った霊魂が、この世に何度も生まれ変わってくる)と言う考えがあり、現世は修行の場だと考えられています。その為、仏教徒は現世では、清く正しく精一杯生き抜かなければ成らないとされています。
なお、注意しなければ成らないのは、極楽浄土というのはキリスト教的な天国とは異なると言う事です。(地獄も、永劫に苦しむ世界という訳でなく、罪を償った後には、地蔵菩薩の霊験で成仏し、他の六道へ転生するとされています。)
極楽は、宗派によって異なりますが不苦不楽の世界(無為涅槃界)とされます。浄土は、次なる転生に備えて魂を浄化される世界だそうです。(極楽浄土に転生しても、何れまた別の世界へ転生する事になる)
また仏教自体が、繰り返される転生の中で修行を続け、釈迦の様に悟りを開き、輪廻から解脱する事を最終的な目標としてます。
ただ、一般人は輪廻から解脱などと言う究極目標を目指すわけは無いので、輪廻転生が逃れられないのなら、絵画に描かれるような、苦しみの世界である地獄には転生したくないだけと言う理由でしょうが…。
暴力の是非を除けば(古来から寺院は僧兵がいましたし)、戦国時代に自分達の生活を護る為に、自力的解決方法を行使するのは、特に仏教の教義に反する物では無いと思います。逆に現世に悲観し、無為に過ごす事のほうが、仏教の教義が示す現世での過ごし方に反する行為だと思います。
個人的には、戦国時代の苦しい環境で抵抗運動を行う際の、リーダとして学が有り(戦国大名の軍師や相談役を果たした僧侶は多かった)、日頃から村民の信頼と尊敬が有った僧侶が中心となったと言うのが本当の所だと思います。一向宗が迫害の対象という訳でも有りませんし、堺の様に豪商が中心となって、自治を行った例も有ります。
回答有難うございます。
priさんの個人的認識は私の認識に近いので、理解しやすかったです。
>基本的には、現世に悲観して、死後の世界に救いを求めて「南無阿弥陀仏」を唱えていた訳ではないと思います。
私が信じるなら、死後の世界に救いを求めるわけではないですが、しかし中学校では飢饉や疫病、末法思想を背景として広まったと教わりました。
>自力的解決方法を行使するのは、特に仏教の教義に反する物では無いと思います。逆に現世に悲観し、無為に過ごす事のほうが、仏教の教義が示す現世での過ごし方に反する行為だと思います。
私個人の意見としてはまさにそのとおりです。ただ絶対他力の考えとはやはり異なるような気がします。
かといって悪人正機説による開き直りというのは、考えがとっぴな気もしますし・・・・。
有難うございました。
No.2
- 回答日時:
質問に的確にお答えできたかどうかはわかりませんが・・・。
南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土にいける=絶対他力というわけではないと思います。
浄土宗や浄土真宗のような仏教は、鎌倉時代に出てきた新仏教です。これ以前の仏教は、旧仏教と言われていますが、この旧仏教は、厳しい戒律や難しい教義、造寺造塔が必要であり、普通の人にとっては達成するのが難しかったのです。
そこで法然は、旧仏教の上記のようなことは不要であり、極楽浄土へいくにはひたすら南無阿弥陀仏と唱えることだと主張したのです。
ですから絶対他力ではなく、南無阿弥陀仏と唱えることだけが必要なのです。
それが浄土宗であり、その教えを受け継いだのが浄土真宗です。
南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土にいけるのですが、なぜ一向一揆に走ったかというと、本願寺の教えや権益を守るためです。ですから守護、幕府、戦国大名と抗争したのです。
確かに、自分たちのために一向一揆を起こしたのですが、それは、極楽浄土に行くためではないのです。
浄土真宗の門徒たちは、たとえ、この一揆のさなかに死んだとしても門徒として南無阿弥陀仏と唱えているので極楽浄土にいけるという考えていたのです。
回答有難うございます
>ですから絶対他力ではなく、南無阿弥陀仏と唱えることだけが必要なのです
わたしは「南無阿弥陀仏と唱えることだけが必要」である事を絶対他力だと認識しておりました。
>それが浄土宗であり、
法然は他力本願を支持し、絶対他力に移行しなかったと認識しておりました。
すいませんでした。
No.1
- 回答日時:
現代の宗教と中世の宗教では個人レベルの信心が違います。
端的に言えば、中世の庶民は字が読めませんから、聖典を読んでおりません。
※ まぁ日本史上で検証したのではなく、欧州史からの類推ですが。
一般庶民レベルで聖書を読んで、信仰を持ったのは、印刷術が始まり、識字率が上がってからです。それまでは、素朴な村の鎮守様という感じであります、欧州では。
で、中世の浄土真宗でも、歎異抄などは、秘伝でして、知られるようになったのは江戸時代中期から。それまでは、上層部とか学僧のほんの一部が知る程度でした。
一般庶民というか、有力農民というか、一向一揆の主勢力の人は浄土真宗の本質は知らなかったわけで、地域の自治組織である 惣村 としてだれを、どこを 上部団体として頼みにするか?本願寺が他の戦国大名よりいいんでないかい?
という理解で、本願寺の勢力となっていました。
この辺は、荘園制度における 現地の領主と寄進された有力貴族や大寺社の関係に似ています。
惣村の自治力から考えれば、自力的解決は当たり前です。
山城国一揆と同様な構造で、一向一揆が単に上部団体として本願寺を持っていたと言うことになります。
回答有難うございます。
>一向一揆の主勢力の人は浄土真宗の本質は知らなかった
なるほどと思いました。
自殺を禁じた回教や、偶像崇拝を禁じた(少なくとも釈迦入滅直後は守られていた)仏教における歪曲というか、曲がった理解。
あるいはそれにも至らない、理解不足のようなものであって、宗教的価値観はほぼ関与していない、ということですね。
力を持った上部団体が本願寺であったという理解は合理的だと思います。
有難うございました。
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