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1615年の一国一城令についてですが、「○○城は一国一城令の発令後、廃城」とある場合、該当する城は解体されて無くなったと考えてよいのでしょうか。城主は城を去り、城そのものは残されたというケースもあるのでしょうか。
宜しくお願いします。

A 回答 (4件)

この場合の「廃城」は、建物が撤去されたかどうかではありません。



「廃城」は「城としての機能を失うだけ」です。

廃城されると、ある城はそのまま残されて誰かに売却されたり、ある城は解体破棄されたり、ある城は別の場所に移築されたりしました。

現代に例えると「町村合併で、2つの町が1つの市になり、小さい方の町役場の建物が、町役場として使われなくなった状態」と考えれば判るでしょう。

その後、その「元・町役場」の建物は、解体されたり、民間に売却されたり、どこかに移築して他の目的で使われたりすると思いますが、どうなるかはケースバイケースです。でも「町役場ではなくなった」のは変わりません。

廃城もそれと同じで「城ではなくなった」だけで、その後の運命は色々です。

ちょっと強引ですが、一国一城令とは、現代風に言えば「各市町村は役場を1ヶ所だけにしなさい。本部と別の場所にある支部は廃止です。なお、廃止後の建物は好きにして良いです」と言うような命令です。

なお、一部に例外はあり、一国一城令のあとも、1つの国で城が2つあったり、2つの国で城が1つしかないのもありました。
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これについては千差万別としか言いようがありません。


例えば岩国城(山口県)では街道に面した部分の石垣を破却していますが、同時に城下町側に石垣には手が付けられず、建物もかなり残っていました。
恐らく当時の領民達は廃城後も相変わらず「殿様のお城」と認識していたはずです。
また島原の乱で一揆軍が立てこもった事で有名な原城も、一国一城令で破却された筈でしたが、最近の発掘調査では乱の当時でも建築物、石垣共に大半が残っており、要塞としての機能は失われていなかったことが判明しています。
多くの場合、城の破却は城主に任される事が多く、必然的にその程度は消極的になりがちでした。
1615年というのは現在では「戦国時代の終結」を意味する年ですが、当時は豊臣の天下もひっくり返った以上、徳川の天下もまたひっくり返る可能性があると考えるは何ら不自然な事ではなく、形式的に破却を行っただけで、城郭の機能は残した例が多いのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。とても参考になりました!

お礼日時:2008/06/12 09:27

>該当する城は解体されて無くなったと考えてよいのでしょうか。



一国一城令は「一国に、一城」を意味するのでなく「一藩一城」です。
ですから、実際に解体した城はごく少数ですね。
ただ、幕府に対しては「命令に従いました」という目に見える結果が必要でした。
そこで、各藩は次の対策を採りました。
1.建物を壊し、石垣は隅(角)のみを破壊する。
2.建物を壊し、石垣の上に土を盛って石垣を隠す。
3.城でなく、地域の政所として名称を変える。

1の場合は、島原藩の原城、岡山藩の下津井城などで、城主(重臣)は退去。
2の場合は、高松藩生駒時代の丸亀城などで、城主(重臣)は退去。
3の場合は、熊本藩八代城とか徳島藩洲本城などで、城主(重臣)はそのまま。

原城は、天草軍により短期間に城郭としての機能を回復しています。
丸亀城は、京極家が入城後、短期間に改修し天守閣を含む各櫓も建立しています。

城郭を破壊するのは、莫大な費用が必要ですし、各藩としても本音は破却したくありません。
あくまで、形式上の破却だったのでしようね。

余談ですが、安土城天主(天守)台も四隅が破却されていた様です。
昭和の始め、地元城郭研究家が確認しています。
彼は独自の判断で、四角形だった天守台を8角形に石垣を積みなおしたとの話があります。
(四隅を破却すると、八角形になりますよね)
安土城に関しては、滋賀県立城郭調査研究事務所の調査を待ちましよう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました、勉強になりました!

お礼日時:2008/06/12 09:30

追加ですがこれまで「一国一城令」は幕府による大名の武装解除という視点で論じられてきていましたが、本当の目的はそこになかったとする説が出てきています。


どういう事かと言いますと、関ヶ原の合戦以降、日本各地で転封された大名は自分の領地内で築城に邁進し、全国的な城郭建設ラッシュが起きました。
あまり知られていませんが、関ヶ原以降の大名の大幅な増・減封と領国の移動により全国で大きな軍事的緊張が起きていたのです。
このとき造られた城郭は当然ながら戦国時代に磨かれた城郭建設の技術革新の集大成とも言える戦闘能力の高いものばかりでした。
そしてそれらの城郭には、必然的に有力家臣が城主として配置され、軍事的緊張の中で領地の最前線を守っていたのです。
しかしこれらの城持ち家臣は多くの場合「自分たちが支えてきたからこそ、今のお家があるのだ」との認識を強く持っており、大名家からすると煙たい存在でもあったのです。
しかし迂闊にその力を削ごうとすると、戦国時代に国人領主がいつもやっていたように、彼らの領地ごとごっそり隣国に寝返られてしまう危険性もあり、その場合彼らに与えた城がそのまま敵になってしまいます。
つまり一国一城令は大名家が幕府の威光を持って、それら厄介な城持ち家臣から名目上でも「城持ち」の地位を奪い、当主の元での絶対的な序列の中に取り込む為に使われた側面があるのです。
また幕府が初期に外様大名を多数取りつぶしたのは有名な話ですが、同じような話は実は大大名でもあったのです。
例えば福岡の黒田家では関ヶ原で加増を受け転封した時点では一万石以上の家臣は9人いましたが、このうち生き残れたのは一家だけで残りは知行を没収されてしまっています。
もし彼らが城持ちのままであれば、ここまでの事は出来なかったでしょう。
つまり「大名家の当主としての権威を確立し、かつそれを幕藩体制に取り込む」のが本当の目的だったと言うことです。
そう考えると多くの城で廃城が形式的なものに過ぎず、要塞としての機能が残った形になった事を幕府が問題にしなかったことも説明が付きます。
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