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私の父は大正初期の生まれで、帝国大学医学部を卒業後軍医となり終戦まで軍にいたそうです。でも軍医なんて軍隊ではみそっかすでしょうし、何も軍隊に入らなくても医師なら十分生きていけると思うので、なぜ軍医になったのか今でも不思議です。軍医ってよほど待遇がいいとか何か恩典があったのでしょうか。

父は戦後は公立病院に勤務しておりましたが、なぜ軍医になったのか一度聞いてみようと思っているうちに、その機会のないまま亡くなってしまいました。ちなみに私は、父が40代半ばになってからできた子で昭和30年代生まれですので、軍隊についての知識はまったくありません。

A 回答 (7件)

 終戦時少佐ということは、ポツダム昇進をされていても大尉。

結構早いスピードなんではないだろうか、と思います(進級の速度については浅学のためよく分かりませんが)。
 ただ、候補生上がりだと、佐官ぐらいでガラスの天井にぶちあたるはずです(元々前線部隊で働ける軍医の獲得を目指した制度なので)。
 なお、軍医少佐は小さな軍病院や野戦病院の院長などのポストに充てられる階級です。或いは連隊でも比較的リーダーシップを発揮する立場か。

 手塚治虫については、ウィキペディアをご覧下さい。
 阪大に設置された臨時医専(つまり戦時急造の医者養成機関)の卒業です。医師免許には変わりありませんが。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。父はエリート軍医ではなかったものの、結構昇進も早く優秀な軍医だったと思うことにします。

資料(というのもオーバーですが)を読んでも知識がないと本当の意味は理解できないことが良く分かりました。父のメモは何度も見たのですが「軍医候補生」が制度の名前とも思わず記憶にも残っていませんでしたから。それにしても「軍医候補生」なんて、ネット検索しても分かりやすい説明は出てきません、k99さんの博識に敬意を表します。

ご教示どおり、Wikipediaで手塚治虫について読みました。あれだけの人が医専卒を隠すために年齢詐称までしたのなら、ちょっと悲しいですが・・・いきがかり上、訂正できなくなったのかもしれませんね。

お礼日時:2008/06/25 21:32

No.2です。



軍隊のトップは元帥じゃありません。
軍隊のトップは
陸軍大臣・参謀総長・教育総監←三長官と言い、天皇に任命権がある役職
このうち、陸軍大臣は昭和10年までは退役軍人しかなれず、参謀総長は親王が務めていました。現役武官で長官になれるのは実質教育総監だけです。ただしこれは兵科(歩兵・騎兵・工兵・輜重兵・砲兵)の話しです。これ以外に法務総監(軍隊の司法部である法務と憲兵のトップ)、軍医総監(衛生兵と獣医のトップ。後に医務局長に改名)があります。これは相当官と言いまして軍人相当の人になります。

ちなみに初代軍医総監は松本順という新選組や会津藩士の治療を行った人物で、明治40年に文豪・森林太郎が就任しました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。軍隊のトップは元帥ではなかったのですね。そう言われてみれば、日露戦争の東郷元帥以外に「元帥」と名のつく人を知りません。226事件で教育総監だったお父様を亡くされた渡辺和子シスターとは多少の面識がありますが、なぜ教育総監がターゲットとされたのか不思議に思っていました。そんなに地位の高い方だったんですね。

お礼日時:2008/06/24 21:36

 軍医は、確かに「軍」という組織内にあっては傍流です。

戦闘指揮を執るわけではなし(時代にも依るが将校でなかった時代もある)。

 ただし、いかな兵隊であっても負傷・疾病の可能性はあり、その時の正に命綱が軍医・看護科なわけで、「みそっかす」として酷い扱われようだったわけではありません(例えば、おなじ傍流の輜重兵=輸送担当の兵隊のあつかいの悪さと言った日には・・・)。おまけに軍医というのは基本的には士官であって、普通の兵隊よりはエライ。
 また、後方職種なので、軍隊と言ってもある程度は安全ですし、鉄砲担いで戦うような羽目に陥ったらどのみち絶望的です。

 お父さまの生まれが大正初期ということは、医者になったのは昭和1ケタから10年代前半ですよね。
 大正時代は軍縮期で軍人が軽蔑されていましたが(昭和中期の自衛隊のような扱い)、そろそろそれも終わって、軍隊もまあ頼れるよね、という雰囲気になっています(それがよからぬことに繋がったのだが)。

 さらに、昭和8年には軍医候補生制度ができます。
 これは、医者の中から希望者を募って、訓練+2年間の勤務、その後はいざというときに軍医として召集する制度。これになると、最初は軍曹、しばらくすると見習士官(という階級がある)を経て少尉になれます
 昭和12年には軍医予備員制度が作られます。これは既に医者になっている者を短期教育して軍医にするというもの。こっちは最初は上等兵で、やはりしばらくすると見習、少尉になれます。

 これらをしないと、徴兵の時ただの兵隊(二等兵)にされてしまい、待遇どころの騒ぎではありません(ちなみに陸軍はインテリだろうが平等にいじめることで有名。海軍は様々優遇制度を作ったので、戦後インテリによって海軍善玉論ができた、という巷説がある)。
 大学を出たのに、一銭五厘(徴兵の葉書代という意味で、幾らでも替えが効くという比喩)に成り果て毎日ビンタビンタで(海軍ほど酷くないけど)暮らすか、軍医殿におさまって兵隊にかしずかれて暮らすか、さあ、答えはどっち?
#ただし、医師だと、二等兵でスタートしても3カ月で士官に登用される道が無条件に開かれる。でも下っ端は3カ月でも避けたい。

 つまり「徴兵される」というのが非常にリアルに想定されるこの時代、兵隊になるよりは、横の抜け穴から一足跳びに軍医殿になった方がどう考えても合理的な判断です。ただし、この時代に軍医なんぞになってしまうと、規定の期限が来ても、その日の内に再召集され、けっきょくそのまま居のこりになってしまいます(兵隊でも同じだが)。

 軍医としてのエリートは、当然内部で育成された正規の軍医。これは在学中に陸軍に志願することで手当(月額二、三十円)を受けることができました。その代わり職業軍医で、途中で「やーめた」という訳にはいきません。ここから更に出世できる者を選抜します。彼らが真のエリート軍医というわけです。

 候補生や予備員は軍拡+損耗でこれが不足したので穴を急遽埋める制度だと御理解下さい。つまり、あんまり出世は望めません(エリート軍医への受験資格もない)。

 また、当時医者になるためには大学を出るほかに、専門学校を卒業するコースもありました。というか、医科大学というのは九帝大+6医大(いずれも官立)、慶應、日医、満州医ぐらいしかありません。その他はみな専門学校。戦時中になると臨時の医科専門学校が乱立します。ちなみにこの時代の医大卒者は専門学校卒を以上に軽蔑します。その良い例が手塚治虫(臨時医専卒)だったりします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。父の遺品の手帳に「昭和13年9月○○帝大医学部卒、同年10月陸軍軍医候補生、昭和17年陸軍軍医大尉」とのメモ書きがありますので、ご教示頂いた「軍医候補生」に自ら志願したのでしょうね。父は体格も良く長男でもなかったので、すぐにでも徴兵されると思い横穴から「軍医殿」におさまったのでしょう、あるいは前の回答者さんが書いてくださったような高い志も多少はあったのかも知れませんが。

お陰様で経緯が大体分かり(軍医候補生というメモなど見逃していました)スッキリしました。終戦までずっと軍医をしていたというので「職業軍医」だったのかと思っていましたが、きっと即日再召集がかかって続けたのですね。エリート軍医ではなかったと分かりましたが(笑)、最終職位は軍医少佐だったようです。僅か7年で少佐は早いような気もしますが、終戦時のお情けであげてもらったのでしょうか。

手塚治虫は大阪大学医学部卒と思っていましたが、違うのでしょうか?

お礼日時:2008/06/24 21:25

経緯は色々と考えられると思いますよ。


ご自身で志願されたと言う場合。
召集されると言う場合。
金銭的な問題。
主だった理由としてでさえこの様に数点の選択肢があります。
特に三番目の金銭的な問題に関しては医学を志す方の中には金銭的な問題で軍医になる事と引き換えに医学を学ぶ機会を得るという方法もあったわけですから…

それと、味噌っかす発言をされていますが軍医は当時の軍においては当然士官でしたし医療の現場を離れると士官としての責任を背負う事になります。
命を救う為の医学を修めた方が戦場に於いて選任士官等が不在となった場合等に於いて、時として指揮を取り死ぬかもしれない命令を下す可能性もあったわけですから辛い職務と言えるのではないでしょうか…
人格者で無いと出来ない事だとは思います。
ですから当時の軍医の殆どの方が日本の未来を憂い国の為に進んで軍医として戦地に赴き傷病で倒れる者の為に武器ではなく医術で戦おうとしたと言う側面は事実として様々な記録に残っています。
ある記述によれば…
「自分の修めてきた医療に関する知識と見識更に技術をお国の為お役に立てることが出来れば、例え我が身が倒れるとも、それまでには10人の戦友を救うことが出来るかと存じます。もって我が身果てるとも区に敗れる事無く…」
そう良い残していった方の記録が近年発見されました。
戦争の是非は後の私たちが判断する事ですが、熱い方々が大勢国を守る為、純粋な気持ちだけで戦争に従事した時代と言う事なのでしょうし、自らの命も人の命も同じと考えすくう事が出来る立場の者が甘んじてのうのうとしている事など出来ないと考える方が大勢要らしたの時代なのかもしれません。
当時を知る方が多くを語らない背景には複雑な思いが交錯していたせいかも知れないですね。
知らずとも良い事、知る事は無用の事であるとお考えになったからあえて語ろうともされなかったのではないでしょうか。
恩典や待遇を命との天秤にかける事はしなかったのでは…そのおかげで子孫である私達は平和な時代を生きているわけですから…感謝する気持ちだけは忘れたくないと思っています。


此処からは嫌な話です。
余談ですが…一部の軍医と医療研究者においては暗い歴史を作ってしまった例もあります。
731部隊で知られる悪魔的な所業をしてしまった石井部隊ですが、その創設者の一人である石井四郎は中将待遇として扱われその存在が広く知られるようになったのは終戦後25年以上も経過した後の事でした。
実際に行なわれた行為そのもに関しては非情極まる出来事で、生きたままの人間を生体解剖する事や同時に細菌を摂取させ死ぬまでの経過を観察する等、同時に植物における人間との研究とその毒性や寄生生物の研究とその殺傷能力の研究及びそれら全てにおける防疫手段の研究開発等々…人類史上恐らく国家が介入して行なった医療行為に従事する人間が同じ人間を医療と戦争の為の兵器開発の為に利用した初めての事でありそれらを指揮し、実行したのは軍部ではなく医者でした。
その部隊全てにおいて深い関わりを持ち石井中将以下の命令によって悪魔的な実験を行なった部隊員は全て後の日本医療を根底から支えた生え抜きの医者や医学研究者もしくは細菌研究者や生物学の研究者で、後に政治的な取引によって戦犯扱いから逃れる事が出来た石井部隊の関係者及び協力者の殆どが現在の医療体制や細菌防疫及び病害虫や駆除動物の衛生的な研究の基礎となる人物と一致すると言う事も事実です。

皮肉な事ですがそう言った過ちを犯した人々が後の敗戦国家において驚異的なスピードで医療体制を整え僅か数年で欧米諸国を追従する位置まで医療現場を復興させたと言う事も事実です。
同時に彼らが戦犯扱いをされずに済んだのは、多くの中国系の方々やロシア及びその他の地域の方々の犠牲を伴った残虐的ともいえる実験結果をアメリカが欲し、ロシア(ソ連)や中国等に知られる事無く全てを秘密裏に譲渡すると言う事を条件に確約させた結果と言われています。
そしてその研究結果はアメリカにわたり急速な医療の発展と同時に現在も使用されている様々な細菌やウィルス兵器の基礎研究において飛躍的な向上をもたらした事実も側面として存在しています。
昨今使用された細菌兵器や化学兵器の殆どが石井部隊が残した研究データの亡霊であると言う事は悲しい現実です。
古くはベトナム戦争に使われた枯葉剤等はその際たるものです。

余談が長くなり申し訳ありません。
それでは。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。父は別の回答者の方が書いていらっしゃる「軍医候補生」だったようなので、医学部卒業後自ら志願したのでしょうね。私たち子どもにも「誰かが貧乏籤を引かなくてはいけない時は自分から進んでひけ」と教えるような人でしたから、あるいはおっしゃるような崇高な志を持って軍医になったのかもしれません。ただ父の軍医としての軌跡はよく分かりませんし満州にいたこともあるようですので、万が一にも石井部隊などと関係していないように願うばかりです。

お礼日時:2008/06/24 21:09

帝国大学医学部を卒業後軍医となり終戦まで軍にいた←とゆうことなら


恐らくスーパーエリートとゆう書き込みがありましたが、私はそれ以上だと思います、ご子息のkoala0305さんにそれを示す様子が伝わっていないなら、地位や出身にこだわらないお人か、戦時中や終戦後の混乱の中で何らかのお考えがあり、その時の体験を残さなかったかもしれません、私の勝手な想像ですが、待遇云々のお話しではないと思いますが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。帝国大学医学部と書きましたが、東京帝大とかではなく帝大の中では多分下位と思われる大学の出身です。学問的にそんなに並外れて優秀だったのかどうか分かりませんが人間的には立派な父だったと思っています。確かに戦争中の話はあまり好んではしませんでしたが、それでも成人後一緒に飲むようになると何度か思い出話をしてくれたことはあります。兵隊に「軍医殿」とか呼ばれておだてられて(?)こっそり何かあげたとか(何だったか忘れてしまいました)、釣りに行ったとかそんな話でしたが。ちなみに私は子息ではなく、末の娘です。

お礼日時:2008/06/24 00:40

 軍医はスーパーエリートですよ。

いまでも軍医になるには防衛医大という超難関校に入学しなければなれません。防衛医大を出れば自衛隊に入って医者になれ、何年か後には一般の医者にもなれます。東大や慶応の医学部出ても軍医にはなれません。ましてや陸軍士官学校に行くような凡人(軍医になるような人から見てです)とは雲泥の差です。
 戦前は帝国大学医学部を卒業した後に、収入が安定し地位が保障されている軍医になるか軍医になれず末端医療従事者になるかです。

 医者と軍医の方が今も昔も地位が上です。緊急医療のノウハウは軍医が一番持っているのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。軍医ってスーパーエリートだったんですか! 軍医が軍のトップ(元帥?)になることはないでしょうし、従軍すれば最前線には出ないとしても多少は危険が伴うでしょうから、あまり割に合わない仕事じゃないかと思ったんですが。ちなみに海軍兵学校(兵学校という名前ですが士官養成校ですよね?)を卒業した父の末弟は今も健在ですが、兄より自分のほうが勉強はできたと言っております。

お礼日時:2008/06/24 00:26

軍医はなんらみそっかすではありませんが…。



明治の大文豪、森鴎外も本職は医者、しかも軍医です。東大医学部を卒業後軍隊に入り、命令でドイツ留学もしていますが…。

軍人は戦前、エリートですよ。軍医だって、相応の人間じゃなきゃなれなかった職業です。優秀なお父様だったんでしょうね。
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この回答へのお礼

早々と回答頂きありがとうございます。みそっかすという表現は不適当だったかもしれませんが、軍医なんて軍では所詮傍流だと思ったものですから。父は大変優秀な立派な人だったと思いますが(自分の父をあまり褒めるものではないでしょうが故人ですのでお許しを)、本当に軍人になりたければ士官学校でも行けばよかったでしょうし、何も医師になってから軍に入らなくてもと思ってしまいます。

お礼日時:2008/06/23 23:46

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