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僕は歴史の授業で、日本軍が南部仏印に進駐したことによって米国が態度を硬化させ、ハル・ノートに至ったと教わりました。
では、どうして日本は反発覚悟で南部仏印に進駐したのですか?

大東亜戦争は自衛のためだったとは思いますが、援蒋ルートを遮断するなら北部仏印まででよかったのではないでしょうか?

A 回答 (5件)

↓の回答は、質問が求めるているものは、↓の南仏印進駐への理由とその経緯であって、それ自体やその後の事への評価や回答者の意見ではないということと、当時の日本の政府や軍人がどのように考えてしまったのか?ということであるという前提でのものです。



>では、どうして日本は反発覚悟で南部仏印に進駐したのですか?

回答:資源の確保と援蒋ルートの遮断の為で、ビルマルートよりは簡単だと判断されたからです。

南進論自体は、スパイ(尾崎秀実)の工作だと思いますが、その細部(南北仏印への進駐)は、それに乗せられた政府と軍人によるものだと思います。

日本は、ドイツのフランス占領を契機に外交交渉をして、1940年に北部仏印に進駐しました。
それが原因で、米国は屑鉄の対日輸出を全面的に止めました。

その3ヵ月後、タイと仏印との間で国境紛争が起こります。
日本は、間に立って調停を行い、1941年タイ・フランス平和条約が成立させます。
(この功績で日本の評価が上がった事に不満な米英は、オランダ領インドシナに日本への石油の禁輸の圧力をかけました。)
その為、日本は南方に資源を確保する必要に迫られました。

一方で、英国はビルマルートから中国に支援をしていました。
このビルマルートの遮断と、南方の資源確保の為に、日本は南部仏印にも進駐する必要がありました。

日本は仏印政府と交渉して1941年に南部仏印に進駐しました。
これは外交による平和的なものでしたが、アメリカはこれを南方への侵略準備と見なしました。

参謀本部の田中第一部長は手記に「仏印、タイを我が軍事的結合圏内にすみやかに編入するため、取りあえず、仏印南部に所要の兵力を進駐させる必要がある。
その目的は全仏印の実質的把握…更にタイに、にらみを利かせ…情勢に応じてはビルマに進駐する為の基地とするにある。
これによって対支封鎖の陣形は完成される」と書いています。

また御前会議の理由書にも
「…最近米国ヲ中心トスル英米蘭支ノ戦略態勢強化…若シ帝国トシテ速ヤカニ之ニ対抗スル措置ヲ執ルコトナク…日ヲ閲スルニ於テハ…支那事変ノ 解決ハ更ニ遷延スヘク…帝国トシテハ此ノ際仏印・タイ全域ニ渉リ帝国ノ軍事的地歩ヲ先制確保スル要極メテ緊切ナリ…」
とあります。

以上から、日本の真の目的は支那事変の解決であり、仏印進駐はその為の資源確保の必要からのものです。

その支那事変ですが、戦争を仕掛けているのは中国です。
英米蘭はそれを理解せずに、被害者である日本だけに制裁をし、加害者の中国には支援をしています。
(彼らはWWIIの終戦後、朝鮮戦争やベトナムでやっと中ソに騙されている事と共産主義の危険性を理解しましたが、既に後の祭りでした。)


スパイ(尾崎秀実)の工作ですが
欧州で独ソ戦が始まったとき、日本は↓の選択を迫られました。
北進論:ドイツを助けてソ連を攻撃する。
南進論:資源確保のために南方に進出する。

ソ連のスパイである尾崎の任務は、日本を南進論に導くことでソ連が日独に挟撃されることを阻止することでした。

日本は支那事変の和平を成立させる方向で動いていましたが、ナチスドイツの快進撃を材料に、近衛と尾崎が三国同盟を締結し南進に向かわせました。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
いかに外交において、プロパガンダとスパイ工作が脅威であるかが分かりました。

お礼日時:2013/03/18 21:06

万が一アメリカと開戦する事態となった場合に備えて資源確保のため進駐しました。


結果としてそれがアメリカの強硬姿勢を呼ぶことになったわけですが、当時の大本営はそこまでの結果を予期していませんでした(閣外に追いやられていた松岡洋右だけが予期)。
以上、古川隆久『ポツダム宣言と軍国日本』(吉川弘文館、敗者の日本史20、2012年)

結果から見ると反発覚悟で進駐したように見えますが、当時はそこまでの反発を覚悟していなかったというわけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
まとめると、当時の日本はそこまで外国の反発を想定していなかった。
援蒋ルート遮断だけでなく、南方進出のための駐留であった。
軍や政府内の意思疎通ができていなかった。
・・・などの理由なのですね。

お礼日時:2013/03/18 21:09

「偽装右翼」の実態


http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_he/a6fhe4 …

簡単な話。近衛内閣は南進論を叫び続ける尾崎秀実に操られていたのです。近衛首相は、南部仏印進駐が反発を呼ぶとは全く予想していなくて、全く逆にそれが日米交渉を推進させる前提条件のように認識していたのです。それはもちろん尾崎秀実が捏造して吹き込んだ根拠の無い出鱈目な話なのですが、そういう尾崎を近衛首相はブレーンとして信用していたんです。

ゾルゲ事件で尾崎がコミンテルンのスパイであることが発覚したのは、御前会議で南部仏印進駐が決まった後のことです。特別高等警察が捜査していたのだけど、皮肉なことにタッチの差で間に合わなかった。

現代人は後付で、すべて結果を知っているから、したり顔で「馬鹿なことをやった」といいたがりますが、当時は誰が敵で誰が味方かも分かりません。無理矢理戦争に引きずり込もうとする日本人もいたし、アメリカ人もいた。なんとか戦争を回避しようとする日本人もいたし、アメリカ人もいた。

そもそも援蒋ルートを遮断するという話も身の程知らずの誇大妄想というしかない計画です。そんなことできるわけがない。それも尾崎が主張したことですが、仮に援蒋ルート遮断が成功したとして、その後どうするつもりなのか。あの広大な中国に親日政権を建てられるとでも思っていたのか。思い上がりとしかいいようがないのだけど、それも結果を全て知っている現代人だから言えること。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かに当時は、誰が敵で味方かなんて分かりませんよね。
今も昔も日本の外交戦略の稚拙さが嘆かわしいですね。

お礼日時:2013/03/18 21:04

まず日本軍という表現を止める事です。


当時の日本は内務省・陸軍・海軍は反発しあっており、協調する事がありませんでした。

中国戦線は陸軍の独断場でした。日中戦争の勃発により臨時予算を編成して戦費に充てたのですが、本来なら対中国戦に使わねばならぬお金を海軍も戦っている(実際はほとんど戦っていない)として予算を要求し且つ受け取っていたのです。その予算で作ったのが大和と零戦です。

陸軍は対中国戦に加えモンゴル・ソ連との緊張が高まっていたので北の警備が重要と考えました。海軍としては満洲優先となると自分の出番がありませんので、資源確保の為に東南アジア不可欠と主張しました。

米内光政は内閣不一致をちらつかせて海軍による北部仏印進駐を強行したのです。続いて南部仏印進駐を強行しました。援蒋ルート遮断というのは後付けで、陸軍はそもそも東南アジア進出には反対でした。無論、対米戦も反対です。

目的は海軍の活動場所が欲しかったから…
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
てっきり海軍は対米英戦に否定的だったと思っていたので、とても興味深い内容ですね。

お礼日時:2013/03/18 20:59

・遮断するなら北部仏印まででよかったのではないでしょうか



北部仏印進駐後、
ラングーン~昆明のビルマ・援蒋陸路ルートが設けられた。
英米が日本に開戦し仏印の日本軍攻撃するのではと危惧し、
またビルマに侵攻しビルマ・援蒋ルートを遮断する準備。
開戦後、ビルマ占領し遮断に成功したが、
今度はインド北部~昆明の空路・援蒋ルートができたので、
インパール作戦を決行した。

 まったく馬鹿な話で、援蒋ルート遮断なんかせんでも
日本軍が圧倒的優勢だったのだから、
汪兆銘政権への軍事顧問団だけ残して、
「所期の目的は達した」と宣言し
海軍は上海へ、陸軍は北京周辺まで撤退して、
あとは南京国民政府(汪兆銘)・重慶国民党政府(蒋介石)・延安解放区(共産党毛沢東)
に適当に実力調整してもらえば、
太平洋戦争なんぞ、しなくてよかったのである。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かに結果論から言えば、援蒋ルート遮断にさしたる重要性は無かったのでしょうね。
ビルマやインドからのルートがあったことを忘れていました。

お礼日時:2013/03/18 20:56

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