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半世紀前までか、10年前までか、100年前までかわかりませんが、いわゆる封建社会的な名残としての「不平等思想」が一般的に人々の意識にわたっていた時代は、かなり精神的に健康で、社会的ひずみも少なかったことはないでしょうか。

いまは、似非平等思想がはびこったために、社会のひずみや意識のすさみ方が激しいといえないでしょうか。

A 回答 (7件)

こんにちは。



たしかに「平等」という言葉を盾や矛として使うことによる害は
最近になって目立っているような気はしますね。
これは「平等」という言葉が
「画一化」「一律化」と混同されることによるものではないかと思います。

たとえば(大げさですが)、
男性に向かって「女性と同じように赤ん坊に母乳を飲ませなさい」と求めたり、
女性に向かって「男性と同じ効率で大工や鳶の仕事をしなさい」と求める、
というようなこと、
関取と3歳児に、同じ量のメシを与える、というようなことです。

つまり個人が無視され、強制的に「平等」を押し付けられる、
というようなことです。

しかし「平等」を押し付けるのは理不尽である
→「不平等」である方が良い、
ということにはならないような気もするんですけどね。





草木は、
「平等」に降り注ぐ雨を「不平等」に受けて、
「平等」に生きています。
雨は、「平等」に降り注ぎます。
大きな木にも、小さな木にも、雑草にも、同じです。

だけど「受ける側」の草木は、
大きな木は大量に、小さな木は少量に吸い取ります。
大きな木が、小さな木と同じ水しか吸えなかったら枯れちゃいます。
小さな木が、大きな木と同じ水を吸ったら、やっぱり枯れちゃいます。



「平等」であるためには「不平等」である必要がある、というのは事実だと思います。
これでは意味不明すぎますか?

「平等」に「生きる権利」を与えようとするのであれば、
「画一化」しようとしてはいけない、とでも言いましょうか。



それにしても「平等」という言葉は難しいですね。
「ボクはこれぐらい満足した。」
「あたしはこれぐらい満足した。」
「ボクたちあたしたち同じだね。」とはいっても
「これぐらい」が同じってことはあり得ませんし。

「平等」の意味を、少し考えてみる必要がある、というのは同感です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
一派一からげの粗雑な平等は平等ではありませんね。それは怠慢と傲慢ではないかと。
「平等」の意味というのが浸透しませんし、実現することがないのではないでしょうか。

お礼日時:2008/07/05 10:24

アリストテレスだったか忘れましたが、一種の封建社会による世界のよさについて言っていたと思います。



プラトンの言っていることは、簡略化すると、一部の人により馬鹿な市民を統率するのがいい国家のあり方だって考えだったんですね。

カール・ポパーはプラトンの政治理念には、快楽の内容も統制する全体主義者の階級支配の要求があると批判しました。

結局は北朝鮮のように、権力者が被権力者を恐怖で弾圧することで、被支配者が恐れをなして、権力者に逆らわないようになり、そうなれば権力者にとっての理想国家になる ってわけです。

でもそれは、権力者が理性に抜きん出た道徳的な人ばかりだったら、それでいいのですが、権力者が自分の地位の安定のために、不正をした他の権力者を庇い、もちつもたれるになり、腐敗した権力者による仮初の理想国家でしかない。

今の日本の政治のように、権力者がその影響力を使い、自分を再選させるために、自分を押すグループに仕事を斡旋すれば、結局その支配者は再選され、不正がはびこってしまい続けるわけです。

かといって民主主義も弊害がある。
主権が民衆にあり、選挙で選ばれた人が民衆の僕になってしまったら、民衆が要求することを満たさないと、選ばれない。
民衆は縛らないで野放しにすると、自由を謳歌し、浪費的欲望を助長し、「慎み深さ」を「おひとよし」とか「愚か」と呼び、「節制」を勇気の欠如とし、「中庸と倹約」を「野暮」とか「卑しさ」といい、それらを追放しようとする。

逆に「傲慢さ」を「育ちの良さ」と勘違いし、「無統制」を「自由」と履き違え、「浪費」を「度量の大きさ」、「無恥」を「勇敢」と褒め称える。

こういう社会で育った青年は、そお時々の欲望にふけって生きていく。
ある時は酒に酔いしれ、ある時は痩せようとして水ばかりのみ運動したり。
またひたすら怠けたり、哲学にふける真似をしたり。
たまには政治に参加し思いつきを語ったかと思うと、支配者や商人をうらやましく思っって、そっちにふらふら あっちにふらふら。
こうして彼の一生は秩序もなければ必然性も無い。

こうした風潮は無政府社会を生み、父は子を恐れ、子は父を恐れない。
教師は生徒を恐れご機嫌を取り、生徒は教師を馬鹿にする。
年長者は若者に迎合し、軽いノリで人当たりがよい人間となる。
というもの、面白くない人、権威主義者、と思われないために。


民衆はすっかり軟弱敏感になり、ほんのちょっとした抑圧でも課化せられると、我慢せず怒り出す。
そしてどんな主人も自分の上に置くまいと法律すら顧みなくなる。
しかもことここに至ると、適度の自由は野蛮な奴隷への憧れを生み出し、、、、

(うわっ ちょっと待ってくださいね、これなんて読むんだろう???? プラトンの国家の内容を打ち込んでいるんです 笑 あ、、わかりました。)

・・・・ 僭主独裁制に容易に転訛しがちである。



これがプラトンの民主主義の批判。
入力しながら耳痛かったです。笑


で、今の日本はプラトンが懸念した社会の弱体化状態になっているわけですよね。
ただし、日本は天皇制ってものがあり、これすら無くそうという気運がありますが、理由は明確にできないが、存在が無くては日本が消えてしまうくらいの思いがあるのか、皇族は残したいという気持ちがあり、今現在も残っており、最後の砦は守っているわけです。

これがなくなると、アメリカのように独裁者の思うがままの国家になり、人殺しを支持する烏合の衆が支配者により操られる国家になっちゃう。


平等・平等と人は言うが、その意味をわかっていない。
例えば、目一杯一日働いた人と、仕事の時間に営業に行かず、ゴルフ練習場に行ってた人。
両方とも同じ月給です。
これじゃあ 懸命に働いて会社の利益に貢献した人が馬鹿を見る。

でも普通はボーナスで差をつける。

ところが、皆平等じゃないか、俺にも同じボーナスを渡すべきだと平等を振りかざし、それに同意し、皆平等と均一のボーナスにした場合、がんばった人もがんばらなかった人も同じ年収なら、がんばること自体 馬鹿らしいですよね。

その人のがんばった分量に応じて、利益を還元するのが真の利益の平等な分配でしょ?

それを履き違えて、なんでもかんでも平等って一律にしてしまうと、結局そういうのを許す社会は崩壊する運命にある。 
と新聞に書いてありました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!質問してよかったです。大変充実したお答えいただき、もう、納得しまくりです。
民主主義は専制政治よりは「まし」である、ということは言いえていますね。しかししょせん「まし」なだけであって、中身は空虚で欺瞞で無作法で、ろくなものではないことは確かです。衆愚政治。それが今実現されているのではないでしょうか。「礼節」というものが、かつて一般的あったのか?それは「制約」の中からしか生まれないのか、衣食足りて礼節など知ったことではないのか。

なにせ、似非平等でがんじがらめにして、それを悪用する例も数多く、はたして、これが取りうる最良の道であったのか、疑問に感じます。

お礼日時:2008/07/05 10:23

天皇を頂点とする家父長制度に象徴されるような、階級社会というかっちりとした枠組みのあるほうが本能を規制しやすいのだが、


現代においてはその社会的「タガ」が外れているために、人はそれぞれ好き勝手な振る舞いに走り、それが社会的ひずみの発生する一因になっているのではないか、といったようなことをおっしゃっているように感じます。

平等というのは表面的なものだけで、実際はみな好き勝手なことをし、単なる弱肉強食の社会になっているのではないか。
というご質問ととらえて私見を述べてみます。

まず、「似非」という認識についてですが、これは間違いなくあるでしょうね。
しかし、似非であれ「平等」という認識が広まっていることもまたお認めになっているわけです。

平等ということは、各人の自我を尊重するということでもあります。
自我とは、当人の利益を最優先する自己保存のための社会的精神性のことですから、当然、他者との軋轢が生じますし、それが原因で「ひずみ」や「すさみ」の発生につながる場合も多いでしょう。
結果として、平等を目指したはずが不平等の温床を作ってしまうことになり、もはや似非の平等としか呼べないような事態を招いている。
階級的思考が浸透していた時代は、自我が規制されていたため軋轢も少なかったのではないか。
ここまでは、おっしゃるとおりと思います。

ただ、自我が完全に規制できていたかというとそれは不可能なことであって、マクロの「国家的」には穏便に見える部分があったとしても、「家庭的」であったり「職場的」であったり「地域社会的」には、その反動が相当現れていたように思われます。

「>「不平等思想」が一般的に人々の意識にわたっていた時代は、かなり精神的に健康で」
という現象も表面的には考えられます。
なぜなら、外圧によって自我を抑制することは、自らの責任を免れることでもあるからです。
考える必要がないので一見すると「健康」にも見えたことでしょう。
社会のための個人はいても、個人のための社会たり得なかったのはそういうことだろうと思います。

現在は、やっと自我が解放されたという状況でしょう。
それこそ自己責任で扱わなければならないのですが、扱い方がまだよくわからず、ましてや他者の自我を認めるゆとりを持つまでには進化できていない。
自我とは、超自我と本能の拮抗結果の現出と言えますが、今はまだ本能のほうに分がある、といったところでしょうか。
とはいっても、自我を規制すること自体が生物学的にいって無理があるわけですから、そこから得られるものこそ「似非の平等」ということになりそうです。

「>社会のひずみや意識のすさみ方が激しいといえないでしょうか」
という点では全く同感です。
ただ、
「>似非平等思想がはびこったために」ということに関しては、本当の平等を模索する発展途上であって、現在は実に稚拙なものではあるが誤った方向に向かっているわけではない、という気がします。
 
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この回答へのお礼

まったく、納得いたしました。適切に答えていただき、ありがとうございます。
よい方向への途上であるとのことですが、どうもそう楽観できない気がします。衣食足りてといいますが、ついに衣食など足りませんよね。礼節を知ることなく、荒廃しつつあるのではないかと。

もちろん、歴史的に弾圧強制の時代があって、自由はなかったが、精神的健康度はあったかもしれまんせん。それは、制約があるからこそという逆説なのですね。

どうも人間どっちに転んでもぼろが出る生き物なのでしょうか。

お礼日時:2008/07/05 10:19

日本における封建社会的な要素は、現代まで生き残っていると考えます。

ただし、それが顕著に認識されたのは、戦後初期のことだと思っています。

アメリカ軍は日本の各地を回っているうちに、封建社会的な地主・小作人制度が残っていることに気がつき、いわゆる農地解放により、この封建社会からの残りを破壊しました。しかし、その時、GHQは、フランス革命期に重要な先例があったことを意識していなかったのです。つまり、土地をもらった農民は必ず保守化し、それ以上の民主化を望まなくなるのです。フランスでは、革命がナポレオン独裁に終わるという形をとりました。ナポレオンは保守的な農民の心をつかむため、革命で否定されたはずのキリスト教を復活させたりしたわけです。日本の場合、戦前は共産党の支持層だった農家が、一斉に自民党支持に回り、制度上の民主主義と実質的な一党支配という状況を作り出し、結果として、政・官・業(特に建築業界)による腐敗の構造を日本に定着させてしまったのです。

現代においてすら、平等思想など日本人の意識に定着していません。平等思想が貫徹されていれば、被差別は、既に消滅しているはずです。現に西日本を中心に被差別が存在している以上、似非平等思想うんぬんの短期的な現象ではなく、不平等思想は昔から今にいたるまで目の前に残っているのだと思います。ちなみに、関東の学校が奈良・京都への修学旅行を行う際、懸念する事項のひとつが、まさにこの被差別問題です。教師としては、自由行動の枠をどのように設定すれば、生徒が被差別に入ってしまう可能性を排除しつつ、生徒の自主性を生かすことが出来るのかを、慎重に吟味します。私の高校の場合、グループごとに事前に自由行動枠の行動計画書を書かせ、帰ってからグループごとのレポート提出を求めるという方法を取っていましたが、今にして思えば、これは教育効果だけではなく、被差別に生徒が近づかないようにするためのリスク査定も行っていたのではないかと思います。

昨今、社会のひずみが大きいのは確かですが、不景気がロストジェネレーションと呼ばれる第2次ベビーブーマーを直撃し、「若者が社会的弱者に転落する」という短期的な事象が発生していることを計上しないと、正確な議論は不可能でしょう。日本社会は、1度、線路からずれた者は、再び元の線路に戻ることが出来ないという問題点を持っており、安倍晋三内閣の数少ない賛同できる主張が「再チャレンジ」だったわけです。これは、内閣が短命だったという限界から、公務員の中途採用枠を増やす程度で終わってしまい増したが、昨今になったようやく本格的な議論が始まるようになり、派遣社員・契約社員の待遇は正社員と同じでなければならないとか、会社が中途採用を行う際は、その情報を現役の派遣社員・契約社員に開示しなければならないとかの具体案が議論されるようになってきました。

世界史的に見れば、私有財産の概念はローマ法やギリシャ法にまでさかのぼる古いものであることが指摘されるでしょう。ただ、昨今のヨーロッパの学者は、自分達の先祖がやっていたことを忘れている傾向があるのです。何しろ、文科系学部においても、ラテン語が必修から外れているのですから、古典古代の状況に知識のない学者が増えるのも当たり前です。これはちょうど、日本の文科系学者が、もはや漢文を読めないのと同じ状態と言えます。恐竜の名前などは典型的で、学術名ですからラテン語の名前をつけますが、発音が英語に引きずられています。本来のラテン語であれば、「ヴェロキラプトル」は「ウェロキラプトル」だし、「ジュラ期」は「ユラ期」です。本来のラテン語には、UとV、JとIの区別は存在しないのです。

ギリシャ法においては、財産は、現代と同様、動産と不動産に分類されます。それに対し、ローマ法では手中物と非手中物という類似概念を使います。所有権というのが、明確に理解されていたわけです。ローマ法の場合、「息子と書いてあるところは娘と読んでも構わない」という拡大解釈が広く受容されております。ローマ法は中世になると忘れられますが、ルネサンスの一貫として再発見され、ドイツあたりを中心に、ヨーロッパ大陸側(つまりイギリスを除く)では、実際に利用される法律となるのです。その際、所有権の概念については、「所有は所有という事実だけで成立する」という所有の客観説と、「所有はその物件を保持したいという意志があって、はじめて成立する」とする所有の主観説とが対立することになります。所有の主観説の立場をとる人々の場合、200年くらい前のドイツを中心に、所有への意志をローマ法概念のanimus(定訳は心素)概念と結びつけて使っていました。また、時効理論というものもローマ法から派生し「長年にわたって使用されていない物件は、もはや消滅時効が成立し、誰のものでもない物件と見るべきだ」という議論がなされるようになります。中世の地主と小作人の関係を説明するために、ローマ法的な分割所有の概念を用いるのは、かつての法学者の誤解によるものであると最終的に証明した法学者は、ティボーという人です。彼によると、ひとつの物件に対して地主と小作人の双方が所有権を持っているという分割所有の考え方は間違いであり、地主の所有権は既に消滅時効にかかっているのだから、小作農こそが、その土地の所有者であるということになります。実はこの法学者ティボーの理論、あまり知られてはいませんが、哲学者ヘーゲルに大きな影響を与えています。ふたりはハイデルベルク大学勤務時代に同僚でしたから。自然法一派と歴史法学一派の論争については、成熟期のヘーゲルはティボーとともに、明確に前者に含まれます。死亡する年の1831年には、法哲学の講義を一番弟子のガンスに任せるのをやめ、自ら教壇に立つのですが、この講義においては、自然法の伝統はキケロにまでさかのぼる偉大なものであり、プーフェンドルフからカントやルソーへの移行によって、観念論と自然法は一体化したのだということが強調されています。つまり、ヘーゲルは、animusとルソーの一般意志を合体させているのです。ここにおいて自然法は完成を見るとともに、その解体が始まる時代を迎えることになるのです。

結論:日本では、不平等は昔から今にいたるまで存在する。別に、今日が特別なわけではない。
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この回答へのお礼

大変勉強になりました。修学旅行の逸話、なんとも印象に残ります。とても悪い意味で。。貴重なお話ありがとうございます。
農地改革で自民べったり体制が作られたとは収穫です。

お礼日時:2008/07/05 10:13

貴方の質問の直接の答えにはなっていませんが、貴方の提起して問題を考える上で参考になるかもしれないことを書きます。



質問者さんは「封建社会」と言う意味を良く理解していないとお見受けしました。「封建社会」とは「中央集権社会」と対峙する社会です。封建社会が社会の安定期に実現したのは人類の歴史の中でもここ2500年程では、西欧諸国と日本だけだと思います。残りの世界はみな中央集権社会でした。

中央集権社会では一国にたった一人の王がおり、国民は全てこの王と持ち物でした。一方、封建制度とは各地方の王なり豪族がいて、国家の王は、王の王(例えば将軍など)という立場でした。従って、各地方の民衆は王の王に直接には属さず、各王や豪族に属していました。このような封建制度では、少なくとも豪族達には王の王の物ではなく、自分の物があるとの主張ができ、従って、「私有財産制」という資本主義社会に最も基本的な概念が自ずと認識されるようになります。また、豪族間の「平等意識」も当然認識されるようになります。しかし、中央集権社会では全ての物は、たった一人の王に属しますから、そのような制度の国で私有財産制の概念も、平等の概念も生まれるはずがありません。

この概念を他の文明から教わるのではなく、自ら経験し認識していたことが、何故西欧諸国と日本だけが近年、経済発展に対してこれだけの成功を収めたかの、大変重要な要因に成っているとの見解が、社会学者の間での共通認識となっているようです。

従って、質問者さんの「不平等思想」なるものが、何故「封建社会」の特徴であるかというのか、私には理解出来ません。貴方は、鎌倉時代以降の封建社会という平等社会と、平安時代以前の律令制度の中央集権社会という不平等社会をごちゃごちゃに理解しているのでは在りませんか。

事実、鎌倉時代という日本で最初の封建社会の憲法である「貞永式目」では、私有財産制(すなわち本領安堵)が国の基本的な方針であることや、女性が男性と同じ平等な相続権を持つことを成文化されています。どんな国でも私有財産制が重要であることに気がつくと、必ずその国の憲法の中にその制度を成文化するものですが、聞くところによると、人類の歴史で私有財産制を最初に成文化したのはこの貞永式目だそうです。西欧諸国がそれを成文化するのは貞永式目よりも数百年後のことです。

そのことからも判るように、日本人の中にはこの1000年にも渡って培われてきた平等意識が脳みその底から染み付いているようです。ですから、日本では民主主義を語るとき、必ず「自由」という言葉と「平等」という言葉が対で出て来ることに何の不思議にも感じて居りません。

ところが、私はアメリカに長年住んでいますが、アメリカではラジオやテレビで「自由」という言葉を何度も聞かない日はないのに、「平等」という言葉を聞くことは滅多になく、多分数週間に一度位なものです。アメリカ人に取っては、「平等」は民主主義とは一切無関係な概念です。

私にはこの「不平等意識」が日本に近年現れ始めたのは、戦後のアメリカの文化の影響によってアメリカの「格差社会」がじわじわとしみ込んできた結果ではないのかと考えていますが、如何なものでしょうか。

蛇足:中国でも2500年程前に封建制度が在りましたが、面白いことに儒教や老荘思想など中国での最も重要な哲学が華開いたのは、正にこの封建時代した。その後の秦以降の中央集権社会では、封建社会で産み出された思想の改良は在っても、それを超えるような独創的な思想は生まれていないようです。
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この回答へのお礼

学問的な定義を考えれば、聖徳太子の説いた平等思想が、まったくの画餅に帰したように、その後武士の封建制的平等を待つしかなかったことがあります。そのてん大変勉強になりました。

ここで言いたかったのは、制度的な平等でなくて、意識的なというか、封建社会には世襲的なものがありましたから、もちろん江戸の封建という言う一種の対抗的安定期の長い伝統の意識が維新後の日本におそらく続いていると思われるので、そのことを言っています。そうすると、現在そういうものが解体されつつあって、自分の(言葉は悪いが)階層はどうだという、悪ではあるけれども、一種の潔さ美徳というような意識が消失しているのかなと、もちろん、あらゆる主審から総理大臣にもなれるわけですが、それによる、意識のすさみ方が多い気のではないだろうかということだったのです。

お礼日時:2008/07/01 08:51

「不平等思想」と言うよりも、区別と言う方が合ってると思います。


区別すべきところは、徹底して区別する。区別してはいけない所は、徹底して区別しない。というところですね。
昔も今もですが、区別してはいけないところを区別すれば、いけないですし、反対に区別しないといけないところを、区別しなかったら、これまたいけないと言うところですね。
昔は、区別の使い方(人種差別など)を間違えてきて、今は平等(男は男、女は女)の使い方を間違えてると思います。
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この回答へのお礼

全くそのとおりだと思います。区別してもいいところ、してはいけないところ、曖昧で実効性がないですね。
区別してもいいところは、能力による選別ではないかと。してはいけないのはもちろん出身や容姿など。こういう原則がどうも徹底されていない気がします。

お礼日時:2008/07/01 08:46

日本は、世界でも珍しいほどの無階級社会だと言われてきましたし、そのことは平等の観点から、国際社会から好ましく受け取られることも多く、また日本もそれを自慢してきたことが多いと思います。



しかし、僕は、日本はもっと階級社会になるべきだと、ひそかに思っています。あまり大きな声で言うと、嫌われるので、普段は言わないですが。

というのは、日本は誰もが平等でなければいけないという意識が強く、そのため皆に同じことを強いる傾向が強いと思います。
だから、同じ人間でも、違うんだ、ということが社会で受け入れられれば、全体に合わせることを強制されず、より自分らしく生きられるチャンスが増えると思います。

働くのが大好きで、残業も休日出勤もしたい人がいます。その一方で、仕事よりも、家庭や趣味を優先したいので、能力があっても、定時までしか働かない人。そんな人がいて、当たり前のように認められる社会がいいと思います。

また、冠婚葬祭などで出す香典なども、みな一律というのは、平等社会が前提にありますが、金持ちの相場、貧乏人の相場、と分れていたほうが、本当は合理的だと思います。その結果、金持ちと貧乏人は、住む世界をそれぞれ別々にして生きていきます。イギリスなどの階級社会は、そんな感じです。

それから、戦後の日本社会の特徴として、エリートの不在、というのがあります。平等という名のもとに、本来エリートであるべき人が、エリート教育を受ける機会がなかったり、逆に、勉強に向かない人が、他の頭のよい人たちと同席して、何年も苦痛を味わわされるということがあるかもしれない。

もちろん、上への移動が著しく困難で再チャレンジの機会のほとんどない固定した階級社会は、害が多いと思います。しかし、行過ぎた階級社会が悪いのと同様に、行過ぎた平等社会も、害があると思います。日本は、振り子が少し平等社会のほうに振れ過ぎていると思います。
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この回答へのお礼

そうなんです。あることに向く人向かない人、動機がある人ない人、もちろん能力の問題、そういう適者の論理を犠牲にしている気がしています。「平等」という幻想的な善でもって、社会のストレスをますます溜め込んでいる気がするのです。

お礼日時:2008/07/01 08:45

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