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当初、源頼朝は政子と伊豆で平和で暮らしていて、平気を討つ気はなかった。しかし平家討伐の院宣が出て、時代が変り、命も狙われだしたので、仕方がなく源氏頭領として平家追討に立ち上がった。
という節を小耳に挟んだのですが、真相はいかがでしょうか。
子供時代から虎視眈々と平家打倒を夢見て研鑽していたのではないでしょうか。

よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

頼朝は流人の身でしたから、そのまま平凡に一生を過ごせるならそれでもよいが、機会があれば父の仇を討ちたいとは思っていたでしょう。


決心がついたのは、好いた北条政子に言い寄られ、駆け落ち同然で結婚した時です。
院宣がなくとも、流人が伊豆の豪族の婿となったと、京の平氏に知れれば疑われ命を狙われるのは必然で、この点は北条氏も一蓮托生の覚悟をした筈です。
北条氏を利用しようとして政子に近づいたとは思えず、男女の仲としてこう言う成り行きになったのでしょう。
場合によっては父に成敗されかねない、政子の度胸が歴史を動かしたわけです。
日の本は 女ならでは 夜(世)の明けぬ国 です。
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妻の政子の家は、北条氏ですが、「平氏」の流れを汲む家でした。

ゆえに政子の父親は結婚に反対し、別の平氏の男と結婚させようとした所を駆け落ちで二人は結婚したという話もあるらしいです。

頼朝の弟たちは、ある程度の年齢になると出家させられたり、義経(当時は牛若丸)も出家間際に預けられていた寺から逃げて、奥州藤原氏の庇護を受けました。

話が脱線してしまいましたが、平氏追悼の院宣がでた時点ではその気がなかったようです。ただ、関東・東国武士にもいた武士団の中に、中央政府に対する不満の様なものが高まり、その中で象徴として源氏の棟梁(嫡男だったかは記憶が曖昧ですみません)として、頼朝がその先陣にたったということだった、と記憶しています。
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討つ気はあったのでしょうが


血統のよい家柄であったので、平家に不満を持つ関東の有力武将に祀り上げられ利用されて、そのうち、本人もその気になったのではないでしょうか。
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