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日本最初の株式会社(的な組織)として知られる亀山社中(海援隊)ですが実際の経済活動はどのようなものだったのでしょうか?
一説に西洋商人から武器を買い付け西南雄藩に卸していた、とも言われますが買い付け資金もそうあったとは思えません。彼らの会社、としての活動についてご教示ください(決算書みたいなものがあるとベターなんですが・・・ないでしょうね)。

A 回答 (2件)

薩摩長州越前などの複数の藩に出資を仰いでいたので、その中から買い付け金も用意していたと思われます。


あとは、薩摩の補償によるツケでしょう。

彼らの商売は、基本的に国内で茶・生糸・しょうのう・紙などを集め、それを売却して武器を買い、それを卸したら、また国内の物産を集めるといった形です。出だしが国内産品なので、たいした買付資金ではなかったかもしれません。また買い付け金がない場合は、藩と外国との貿易を仲介し、その物資を輸送するといった形をとり、売ってから売却代金をその藩に納めるわけです。勿論、素直に売却代金に手をつけずに持ち帰るわけではなく、その代金で武器を買い、それをまず長州や土佐に売り、それから金を渡すわけです。銀行決裁できる時代ではないので、人の褌で相撲を取るようなことをしていたことでしょう。

当時基本的には幕府が貿易管理を行っており、勝手に好きなように貿易を行っていたのは、薩摩と亀山社中、肥前などごく一部でした。元手に比べてかなり粗利が高かったと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。亀山社中の経済活動がどうしてもわからず、「商社活動はたいしたことがなく、パトロン(薩摩など)からの援助といろは丸事件の保証金で資金繰りをまかなった」との説まであったので実際の活動に疑問を感じていた次第です。
亀山社中は総合商社のハシリだったのですね。日本独自の巨大商社もあるいは亀山社中がなければ存在しなかったのかも知れず、また三菱のボス岩崎が社中のメンバーだったことは興味深いですね。竜馬が長生きしたら彼自身が近代的総合商社をはじめたかも?とか思えます。

お礼日時:2008/11/14 00:07

>実際の経済活動はどのようなものだったのでしょうか?



薩摩藩のバック・資金を元に、海外との軍需物質取引を行なっていました。
グラバーを窓口に、契約を行なった武器の大半は、薩摩・長州藩向けです。
その後、土佐藩とも結びつき、土佐藩営土佐商会(岩崎弥太郎)と合併し、新土佐商会となります。
明治維新後、土佐商会は日本郵船会社(現日本郵船)となり三菱財閥へと発展します。
(三菱のスリーダイヤは「旧土佐山内家紋」から派生したとの説があります)

>決算書みたいなものがあるとベターなんですが・・・ないでしょうね)。

たぶん、明治新政府によって破棄されたでしよう。
薩摩出身者・長州出身者にとって、公にしたくない資料ですから・・・。
もしかすると、三菱財閥(グループ)の資料館にあるかも?

竜馬が西郷隆盛に暗殺されなければ、亀山社中・海援隊の活動も軍事物質中心から民需物質を扱う商社に発展していたでしようね。
(京都旧家の記録に、竜馬暗殺時に「チェストー」との声があったとの事です。また、殺傷傷痕は示現流の傷だったようです。犯人は、人斬り半次郎か?)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
ご説明は一般的な説なのですが薩摩・長州との売買契約などはどのようになっていたのか?というところを知りたくて質問しました。いわば薩摩のメッセンジャーだった竜馬にどの程度のコミッションを払って商社活動をさせていたのか、いろいろ探しましたがわかりません。岩崎弥太郎などが亀山社中で商売のノウハウを覚えた、とすればそれなりに活動はしていたのかな、とも思うのですが具体的な商売の規模がわかりません。
あと暗殺時の掛け声は「こなくそっ!」では?

お礼日時:2008/11/12 19:48

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