介錯なしだった場合、お預けの屋敷で折り目正しく過ごしていたというような、あるいは、ひそかに別れの宴を催したような記録があるようですが、そういうことになれたもんでしょうか?

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A 回答 (5件)

すみません。

逆らうわけではありませんが、三島由紀夫切腹の時は、森田必勝が介錯を試み、うまく行かず、大男の古賀浩靖が刀を取って、やっと三島の首が落ちました。その森田必勝も腹に三島由紀夫が使った短刀をあて、介錯を受けて死んでいます。
三島の短刀による傷はへソの下四センチぐらいで、左から右へ十三センチも真一文字に切っていたそうです。深さは約五センチ。腸が傷口から外へ飛び出していたとか。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに三か所、右肩に一か所。森田は腹に十センチの浅い傷があったが、出血はほとんどなかたっそうで、検死官は、森田はかすり傷程度で、三島由紀夫の割腹がいかにすごいものか、その決意をうかがわせる、と言っています。

同様に切腹した人に太平洋戦争終戦時の鈴木内閣で陸相だった阿南惟幾がいます。この時は義弟の竹下中佐と一献交わし、14日夜、風呂にはいって身を清めたあと、宮中クーデタのシンボルに阿南大将をかつごうとやってきた井田中佐の両中佐の前で切腹、介錯を拒んで15日に死亡しました。首相の鈴木貫太郎は「いい男だな」といい、外相の東郷茂徳は「真に国を思ふ誠忠の人」と言ったそうです。そういう感覚が、まだ残っていた時代の人の行動、言葉として、興味深いと思います。これ以後62年間、現役閣僚の自殺はありませんでした。

同様に当時切腹した団体に、伝統右翼の大東塾14名がいました。塾同人は23日に酒宴(と言っても、静かなもの)、24日に共同遺書に署名、この日に代々木警察署幹部がきて思い止まるよう説得するも拒否。25日午前1時に食事(粥、漬け物、缶詰、味噌汁)、そして午前4時に代々木練兵場の十九本欅のところで古式に則った(神式に従って供物を捧げる所からはじめる)切腹をしました。純日本式の集団自決としては空前絶後のものです。2人が介錯をしてまわり、最期に1人を介錯した塾生は自刀。あとから来た(切腹の瞬間は立ち会わない)塾生に、皆が立派だったと言い残したといいます。

脱線していますが、切腹というものが昭和20年までは、少なくとも立派とみなされた、そして三島由紀夫の時は、事件として扱われた、世相の変化の例としてお納めください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
三島の切腹については、介錯ありと聞いています。しかし、お話しによって、相当自分の肉体にダメージを与えてから、十分その忠義の証を示した後に、首を落とされたということのようですね。
はらわたを見せるということが「忠義」らしいです。ですので、腹を開いてそれを見せる、その後で死ぬというのが切腹の精神らしいです。

鈴木首相というのは、やはり軍人だったのですね。「いい男だ」のせりふは効きます。介錯を拒む陸軍大将って言うのは、壮絶なものであり、また「本物」という言葉では追いつかないようなとてつもない人物像が浮かび上がります。

お話しの右翼団体の、介錯人というのがきついですよね。最後に一人でやらなきゃならない。このことについてもっと考えなければいけないのではないでしょうか。

また、もちろん、世相の急激な変化というのを如実に感じます。戦後四半世紀で価値観が180度転回したというのは本当でしょうかね。

お礼日時:2008/11/22 09:00

こんばんは。


NO3.です。

>>やはり、介錯なしでも、平然と死んでいけるという自信があったのでしょうか。武市半平太のように。

四十七士のように、討ち入る、あるいは、血判書を作った時点から「絶対的に」「死」を覚悟していた者にとっては、「死」・・・とくに「切腹」は怖くはなかったのでしょう。
しかし、血判書を作った後でも「脱落者」が出ていますから、「全く怖くない」と言ったら、やはり、「恐怖」にかられた人もいたでしょうね。
大石内蔵助や主税、あるいは、「心酔」しきっていた人は別として、やはり、人間ですから四十七士の中にも「恐怖」にかられながら、その時を迎えた人もいたでしょうね。

また、赤穂浪士とは関係ありませんが、豊臣秀次などは、父秀吉から「切腹の命」を受けてから恐怖の日々を送り、2ケ月近くも「引き伸ばし」を行っています。そして、いざ「切腹」となった時には、実際には小刀で腹を刺せず、腹を刺す真似をした瞬間に介添え役が首を刎ねた・・・とも言われています。

戦後に起きた、三島由紀夫などは、介錯なしで自決しています。

現在は「切腹」は禁止されてはいますが、私は、やはり、「死」に対しては「恐れ」があります。それが、首吊りであっても、溺死などであっても。また、病死であれば、なるべく「苦しまない」で死んでいけたら・・・と、思っています。凡人の「浅はかさ」ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
恐怖と戦いながら、でしょうね。
介錯ありだとかなしだとか言う条件で討ち入ったわけでもないでしょうね。

お礼日時:2008/11/22 08:54

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>介錯なしだった場合、お預けの屋敷で折り目正しく過ごしていたというような、あるいは、ひそかに別れの宴を催したような記録があるようですが、そういうことになれたもんでしょうか?

(1)「切腹」は、介錯が無い場合は、非常な「苦痛」を伴い、戦国時代や江戸時代、あるいは、それ以前からも、「介錯人」を付けることが多くなっていました。
(2)壮絶な切腹の例としては、あくまでも「逸話」ですが、
★柴田勝家:
天正11年4月24日、秀吉の大軍に包囲された居城の北の庄城で切腹。享年は57才など諸説がある。これに先だつ21日、勝家は信長亡き後の雌雄を決する賤ケ岳の戦いで秀吉に大敗。わずか百騎ほどの手勢を従えただけで、北の庄に帰ってきた。秀吉の追撃は厳しく、23日には本城に迫った。勝家はもはやここまでと、一族郎党を呼び集め、別れの宴をした。そして妻のお市の方の三人の連れ子(茶々、お初、小督)を城から脱出させた。翌日の昼頃、秀吉が総攻撃を開始すると、勝頼は精鋭200人と天守閣に立て籠もり、果敢に防戦に務めた。この時、天守閣は旗指物で飾られていた。勝家は九重にした天守閣の最上階に上がり、包囲している秀吉の兵に「自分の切腹を見て、後々の参考にせよ」と呼びかけたという。勝家は天守閣に火を付けさせると、お市の方を刺し殺し、次いで側室などもすべて始末してから、自分も切腹して果てた。
★別所長治(べっしょながはる):
秀吉が三木城を攻略した時の作戦が「干殺し作戦」だった。城を包囲し、食糧の補給を断ってしまった。城中の食糧が尽きて、城兵は飢餓の為に動けなくなった。そこで、秀吉に「この私と兄弟、叔父が切腹するので、飢えた城兵の命だけは助けて欲しい」と申し出た。別れの宴ののち、長治は白装束に身を包み、4人の子を刺し殺した上で切腹し果てた。
★仁科盛信(にしなもりのぶ):
高遠城に籠城していた武田の勇将、仁科盛信らは、落城間近と知ると急いで酒盛りを始めた。その最中に仁科盛信は切腹した。この時、「酒の肴に」と言って自分の内臓を掴んで、差し出した。その直後に落城、武田氏も滅亡した。
★武市半平太:
武市半平太が選んだ切腹は三文字腹といわれる最も壮絶な方法で、横一文字に腹を3度切るのである。十文字斬りよりさらに過酷な方法で、いったん刀を抜いて再再度腹に突き立てるため、完結したものはいないといわれていた。
武市は切腹の君命に対し、「大殿さまの仁を得て、武士らしく死を賜る」と答え、この方法で己の武士道を完結させた。

などが挙げられますが、

(3)さて、赤穂浪士の切腹についてですが、
彼らは、死を常に意識して生きる“守死”を心のよりどころとし、死に時を見誤らず、いかに見事に死ぬかという一点を凝視した。こうして死は、武士にとって真価を問われる人生最大の関心事となりました。起つべきときに起ち、死ぬべきときに死ぬのが武士であり、死は決して不名誉なことでない。見事な死とはすなわち「切腹」である。幕末でも、多くの武士は切腹を名誉の死とし、死を恐れず、従容として割腹する心意気を武士道美学の究極とした。
(4)つまりは、赤穂浪士たちは、討ち入りをする時には、すでに、「死」を覚悟して臨んでいたと思いますので、それが「罪人」としての
「斬首刑」であろうと、「切腹」であろうと、甘んじて受け入れたと考えます。幕府の決定が「切腹」という「武士として死ねる」ことは「本望」以上の何ものでもなかったのではないでしょうか。
なぜなら、斬首は武士にとって惨めである。両脇を抱えられ、後ろから首筋を押さえつけられ無理やり首を前に突き出す格好をとらされ、首をおとされる。その後は衣類を剥がれ、甕の中に押し込められる。完膚なきまでに武士の威厳が剥奪されるという意味で、実に悲惨なものです。
(5)彼らは、まず初めに、幕府が浪士たちを一介の「素浪人」ではなく「武士として」それも、大名などと同じように扱われて細川、水野、松平、毛利の各家にお預けになった時点で、「誇り」と考えたのではないでしょうか。一介の素浪人であれば、町奉行所などへ引き渡されての「処刑待ち」になっていたでしょう。
(6)こうした、もろもろのことを推量すると、彼らは各家においても「心穏やかに」「粛々」と「死」を待ったのではないでしょうか。
(7)彼らを預かった細川、水野、松平、毛利の各家の記録で、特に、大石内蔵助を預かった「細川家記録」では、
「大石殿、食喰(しょくじき)につき、無用な接待を望まず、朝夕、一汁一菜を所望す」
と、あるように、各家では、赤穂びいきで、「豪勢な?」もてなしをしようとしたが「断られた」ようですね。
また、浪士の中で最年長の堀部金丸(弥兵衛)も、同じく、細川家にお預けとなっていましたが、
「このような馳走では、腹を召す時、刃(やいば)が通らぬわ」
と、言って皆を笑わせたような「逸話」もあります。
現代で言う「メタボリックシンドローム」になってしまうと言うことでしょうか。確かに、運動といえば、庭の散策くらいで、あとは、何も身体を動かすことがなかったので、毎日毎日、豪勢な食事では、どのような人間でも「メタボ」にならない方がおかしいのかも・・・。
(8)とにかく、彼らは、大名などと同じように扱われたことに対して、日々、「格式」を重んじて、「赤穂」という名を汚さないように、「軽率」な行動は一切しなかったようです。
ただし、碁盤や将棋盤などは貸し与えられ、それに興ずる者もいたようです。
(9)細川家の記録では、元禄16年(1704)2月3日、幕府より使者が来て「切腹」の命。2月4日夕刻より一人ひとりが「切腹」に臨むこととなりましたが、「切腹」の刻限が近い頃、大石が、「水杯(みずさかずき)」を所望。それに対して、細川家から中々用意がされず、「刻限も近い故、早々にご用意願いたい」との申し出があった。
ところが、細川家では、「死の恐怖」を少しでも「まぎらわせてやりたい」との思いがあったのか、せめてもの「最期の杯」として本物の「酒」の「燗」をしていたとか・・・。大石は「この期におよんでまでの数々のご配慮重々かたじけなく存ずるが、死に挑むは水杯が常道。素焼き(かわらけ)の杯で結構」と、応えたと言われています。
(10)あなたの言われる「ひそかに別れの宴を催したような記録」は、やはり細川家の記録で、2月3日夕膳に「何か」はわからないのですが、一汁一菜にもう一品が追加されたような記載も見られます。
これのことではないでしょうか。
お預けになった日から、最期まで「酒」は一切呑んだりはしていないようです。
また、「大石殿、主税殿(大石主税)と一度の交通ありて・・・」
という記載もあることから、「絶対に迷惑をかけてはならない」「酒を所望してはならない」など心得の書状を出したものと考えます。

(よもやま話)
(1)討ち入りをしたのは元禄15年(1703)12月14日夜となっていますが、正確には15日午前4時頃と言われています。
(2)通常、罪を犯すと、当然、町奉行の管轄となり、伝馬町で入牢させられます。
この時、御目見(おめみえ=公方さま(将軍)に拝謁できる者)以上の直参およびこれに準ずる僧正、院家、紫衣を許された僧侶、神主などは、伝馬町の牢屋敷内にある揚屋敷(あげやしき)と呼ばれる座敷に留め置かれます。もちろん、監視をする役人も付きます。
(3)しかし、見事本懐を遂げた後、大石内蔵助は47名の中から寺坂吉右衛門に密命を託し(一説には、内匠頭の妻・瑤泉院や弟・大学(長広)、広島本家への報告のため、そして、後の世に我らがどのようになるかを見とどけて欲しい、と言われたとも言われている。また、47名の中でただ一人赤穂藩士ではなく藩士の吉田忠左衛門の家来だった)離脱させ、残りの46名は泉岳寺へ詣でたのち「評定所」に自首しました。
(4)評定所の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩内部や藩と藩の争い、旗本と御家人への訴訟を扱うところでした。
内蔵助の判断で、この「評定所」に自首したことが、町奉行所の手出しできないところとなったのです。つまりは、「藩と藩の争い」なのだ、と訴えたのです。
評定所には、牢はありませんので、内蔵助一同は評定所内で待機していました。
(5)直ちに、評定所からの上申で、時の将軍徳川綱吉が報告を受けた際、綱吉自身は、内蔵助らが作成した「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義」である、と、褒め讃えました。
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この2人がそれぞれ賛成、反対意見を述べ、最終的には、綱吉が2人の意見の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けと裁定を下した。
(6)綱吉が死去すると、6代将軍家宣の就任に伴う恩赦で、浅野大学は500石+広島浅野本家より300石を受けることとなり、旗本寄合に復活。
(7)46名の子息の中で15歳未満は15歳になると、八丈島や三宅島への「島流し(=遠島)」のはずであったが、すべて「恩赦」。島流しになっていた者たちも、全て、江戸へ帰っています。
(8)内蔵助に密命を受けて離脱した寺坂吉右衛門はすべての事後処理が終わった後、大目付仙石伯耆守に自首したが、身分軽きゆえお咎めがなく。かえって、金子10両を与えられ解放された。その後、他家に仕えたり、江戸に出てきて寺男などをして83歳の天寿をまっとうした。
(9)柳沢吉保の後ろ盾であった荻生徂徠自身も、後に「その志を推すに、また義というべきものなり」と浪士の「忠義心」を認めていたという。

あなたのお役に立てたでしょうか。
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この回答へのお礼

やはり、介錯なしでも、平然と死んでいけるという自信があったのでしょうか。武市半平太のように。

お礼日時:2008/11/19 16:28

質問がよく理解できませんが、



「切腹」の命令が出たら、介錯付きで・・決まり。
それ以外は切腹とは言わない。
武士の体面を貶めるなら、磔・獄門等他の手段がある。
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この回答へのお礼

新撰組の切腹などは、介錯なしでやらせたようです。というかそれが本来の姿ですよね。

お礼日時:2008/11/19 16:26

武士は子供の頃から切腹の仕方を教わります。


死についても教わるそうです。
ですので武士はいつでも死を受け入れることが出来ました。
覚悟が出来ているので怖くなかったそうです。

今の社会では考えにくいですね。
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この回答へのお礼

介錯なしでもでしょうか?
それはものすごい精神修養でしょうね。

お礼日時:2008/11/19 16:25

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いまいち、理解できません。
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切腹というのは「自決」の形を取ります。即ち、実質はどうであれ「過ちを恥じて自決すること」であり「刑罰」ではないのです。切腹は武士だけに許されることですので、死ぬ前も後も武士のままです。

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先年の映画「隠し剣鬼の爪」で、

* 主人公の親友が、藩に対する謀反の罪を起こし、百姓家に立てこもる。百姓を人質にしている。
* 立てこもっている男は剣客である。藩は、鉄砲隊で百姓家を包囲し、主人公に「あいつを説得して切腹させるか、討ち取れ」と命じる。
* 主人公は「犬コロのように鉄砲で撃ち殺されるより、武士として腹切れ」と呼びかけるが相手は応じず、刀を抜いて切りかかってくる。主人公が劣勢になった時、火縄銃で狙撃されて死ぬ。

というシーンがありました。「切腹を許す」というのは、罪を犯した武士にとっては非常にありがたい、寛大な処分なのです。

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Aベストアンサー

確かに江戸時代に切腹が形骸化したことがあります.
江戸時代以降,形式化したとなると語弊ありかな,と思います.

人は平和を謳歌すると物騒なことは忘れてしまうものなのでしょう.

江戸時代でも特に平和で町民文化が花開いたと言われる1700年前後,
元禄文化と言われていますが,この元禄時代に有名な忠臣蔵の事件が起こる
んですね.赤穂浪士は討ち入りを成功させた後,揃って切腹になりますが,
この時,扇子を代わりに使ったと言われています.

ちなみに,江戸末期(1860年前後)になると,逆に形式ではない切腹が数多く
行われるようになります.特に士道に厳しかった新撰組の局中法度と呼ばれる
掟は壮絶なものがあります.また戊辰戦争時には,官軍と戦った会津藩の少年
隊士たち(白虎隊)の話は有名な悲劇です.

このような壮絶な切腹劇は明治序盤の維新政府が落ち着くまで続きます.
熊本で起こった神風連(じんぷうれん)の乱や西南戦争とかですね.
戦国時代や幕末,明治維新など時代の節目,歴史が激動する折に,切腹の
文化は噴き上がるようです.

古来より,日本では「心」は腹に宿ると考えられてきました.
その片鱗は今でも,私たちの言葉からもうかがうことが出来ます.

・アイツは腹黒いヤツだ.
・腹を割って話をしよう
・断腸の思いで別れる

切腹とは,自分の潔白,あるいは,主君の潔白を証明するために,自分の
腹(=心)を開き,黒くはないことを見せるための行為です.ですので
罪を犯して,首をはねられる(斬首)とは同じ死ぬにしても,意味合いが
全く違います.

武士道と云うは死ぬことと見つけたり

葉隠(はがくれ)と言う本にある有名なフレーズですが武士は,死ぬこと
に対する美学を持っていたわけです.死ぬことに美学を持っているからこそ
生きることに美学を持てるわけで,彼らはいつどこで死んでも良いように
毎日ひげをそり,身だしなみを整え,死ぬ覚悟で生きていたと言われています.
混乱期である戦国期や幕末期にこそ,切腹が増えたと言うのも頷けます.

切腹は極端にしても,武士の生き方には武士道と言う一本の筋が通って
いるわけで,このような文化を持った日本を誇りにして良いと思います.

新渡戸稲造(この前まで五千円札だった人)が著した「武士道」と言う
名著がありますので,是非読んでみてはいかがでしょうか.
(参考URL)

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003311817/qid=1111654544/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-2605076-9657909

確かに江戸時代に切腹が形骸化したことがあります.
江戸時代以降,形式化したとなると語弊ありかな,と思います.

人は平和を謳歌すると物騒なことは忘れてしまうものなのでしょう.

江戸時代でも特に平和で町民文化が花開いたと言われる1700年前後,
元禄文化と言われていますが,この元禄時代に有名な忠臣蔵の事件が起こる
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Qビデオ探しています。 小林正樹 監督作品 「切腹」

ビデオ探しています。
小林正樹 監督作品 「切腹」というものです。
Amazon.comなどでもあつかっていないので、レンタルビデオででもいいから見たいのですが、あつかってそうなレンタルビデオ屋さん、ないでしょうか?
できれば、購入して、ぜいたく言えばDVDで購入できればなお嬉しいのですが。
また、「切腹」で語られているような、鼻の奥がツ~ンとなるような日本人の美徳が描かれた映画作品が思いつかれるなら、教えてください。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

今晩は。
 この作品のソフトはビデオテープしかないようです↓。http://www.pia.co.jp/cinemaclub/syosai.jsp?movie_cd=1600164
 参考URLのHMVでは「出荷まで: 10-40 日」とあって、どうもこちらも品切れ臭いのですが、まぁ試してみても損は無いのではないかと思います。発売日の項を良く見るとアマゾンの情報とは異なっていますし(このページのお客様からのレビューが面白いです。そりゃ、なんと言っても日本映画史上の時代劇の傑作中の傑作ですからね。脚本、演技、美術、撮影、・・・。文句無しです。「あいや待たれよ」)。
 売買サイトのイージーシークを調べたら、現在は出品が有りませんが、この一月ほどの間に2回出品されています。そちらに捜し物として登録しておいてはどうでしょうか。
http://search.easyseek.net/search/index.php3?_dm=%81%95&c_no=536&sitem=%90%D8%95%A0&vt=&act=search

 質問の最後の部分ですが、これは改めて別件として質問し直された方が良いのではないかと感じます。私も即座には思い出せません。

参考URL:http://www.hmv.co.jp/Product/Detail.asp?sku=114751

今晩は。
 この作品のソフトはビデオテープしかないようです↓。http://www.pia.co.jp/cinemaclub/syosai.jsp?movie_cd=1600164
 参考URLのHMVでは「出荷まで: 10-40 日」とあって、どうもこちらも品切れ臭いのですが、まぁ試してみても損は無いのではないかと思います。発売日の項を良く見るとアマゾンの情報とは異なっていますし(このページのお客様からのレビューが面白いです。そりゃ、なんと言っても日本映画史上の時代劇の傑作中の傑作ですからね。脚本、演技、美術、撮影、・・・。文句無しです...続きを読む

Q四十七士以外の赤穂藩の侍について

早速で恐縮ですが

釣りバカ日誌20で、主人公が知り合いに

「四十七士以外の藩士は、その後の人生を”ひきょう者”とか

“意気地なし”とか言われ辛い思いをした~云々」のセリフが

ありました。なるほどと思い、自分なりに検索したつもりですが

うまく調べられません。


ご存知の方がいらっしゃれば、教えて頂けると幸いです。

ご面倒であれば、文献等ご紹介頂くだけでも結構ですので

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

>「四十七士以外の藩士は、その後の人生を”ひきょう者”とか、“意気地なし”とか言われ辛い思いをした~云々」のセリフがありました。

あくまで、映画の台詞ですね。
江戸時代は、赤穂残党の討ち入りは庶民などの喝采を受けていません。
名古屋藩藩の記録でも、「江戸でイザコザあり」と数行書いているだけです。
※公式文書でも、藩外に出ないので記載内容は藩主など一部の役人しか見る事が出来ません。
ですから、四十七士以外でも「卑怯者」「意気地なし」と言われる事はなかった様です。
そもそも、赤穂藩は「藩士の8割近くが中途採用」です。
「二君に仕えず」は、通用しませんよね。^^;
藩士の出身地は全国にまたがりますから、優秀な人材の多くは他家へ仕官しています。
「再就職の時間を与える」「再就職出来なかった者が、暴動を起こさない様に」が、大石さんの本音との説も有力です。
仮名手本忠臣蔵の影響と、明治政府の「忠義思想」の影響でしようね。
映画・ドラマになっている忠臣蔵は、フィクションに過ぎません。
赤穂藩断絶も、領民は赤飯を炊いて喜んだとの資料もありますからね。
そうそう、忠臣蔵で悪名高い大野九郎兵衛。
彼は、赤穂浪士2番隊体長との説もありますよ。(碓氷群史)
磯部温泉で有名な磯部村で、林遊謙と改名して潜伏していました。
「本所での襲撃に失敗した場合の、備え」だとか・・・。
添付画像は、大野九郎兵衛の墓と伝えられている墓碑です。

>「四十七士以外の藩士は、その後の人生を”ひきょう者”とか、“意気地なし”とか言われ辛い思いをした~云々」のセリフがありました。

あくまで、映画の台詞ですね。
江戸時代は、赤穂残党の討ち入りは庶民などの喝采を受けていません。
名古屋藩藩の記録でも、「江戸でイザコザあり」と数行書いているだけです。
※公式文書でも、藩外に出ないので記載内容は藩主など一部の役人しか見る事が出来ません。
ですから、四十七士以外でも「卑怯者」「意気地なし」と言われる事はなかった様です。
そもそも、赤穂藩は「...続きを読む

Q見ごたえのある映画を紹介してください。

「七人の侍」「切腹」「スタンドバイミー」「イングリッシュペイシェント」「アントニア」などを、面白く見ごたえあったと思うものです。
うまくだまされたいのです。
あなたが、よい映画とおもわれるものをおしえてください。

Aベストアンサー

◆「七人の侍」や「ディアハンター」もご覧になって
いるとのことですので10本ほど

「死刑台のエレベーター」(白黒)
「地下室のメロディー」 ( 〃 )
「サムライ」

「夜の大走査線」
「ジャッカルの日」
「地獄の黙示録・完全版」

「チャイナタウン」
「ダークシティ」
「バートンフィンク」
◇そして
「パルプフィクション」⇒ 「羊たちの沈黙」、
   「スティング」 この3本がアッと驚いた
    映画でしたね。

◆少し暗い雰囲気の映画が多くなりましたが、
脚本、演出、カメラ、音楽がしっかりしてますよー。
以上です。

Q日本史史上最年少の介錯人は誰ですか?

タイトルの通りです。
ふと疑問に思ったのですが、日本史史上で最も若く・幼くして切腹の介錯を務めたのって誰でしょうか。
沖田総司の甥の芳次郎もかなり若くして務めたと思うのですが(数え14、13の説もあり)、それ以上若い方っておられますでしょうか?

Aベストアンサー

幕末ではなく、戦国の話ですが…
天正十三年(1584年)に大友宗麟に攻められた筑後猫尾城主の黒木家永が切腹する際に、家永の娘が13歳で介錯をしたという話が残ってます。

あと、職業としての罪人の介錯人なら、江戸時代を通じて罪人の斬首を行っていた山田家の7代め浅右衛門吉利の三男である吉亮が12歳から処刑を担当したと言われています。
最後の斬首刑となった高橋お伝を担当した人です。

ご希望されていた回答とは少し違うかも知れませんが、ご了承ください。

Q現代で切腹をすると自殺?

素朴な疑問です。

昔は切腹をすると「切腹」じゃないですか。でも現代で切腹をしたとすると、「切腹」で記録はされずに「自殺」になってしまうんでしょうか?それとも「切腹自殺」?
多分「自殺」だと思うんですが・・・。
回答お待ちしてます!

Aベストアンサー

現代で人が変死した場合、殺人か自殺かの判断は司法解剖の結果決定します。
切腹して自殺した場合は、割腹自殺あるいは屠腹自殺でしょう。  単に「自殺」では迫力に欠けますから。
三島由紀夫事件では割腹自殺と報道されました。
この場合では同志の人が介錯し斬首したようです。

Q介錯人の身分

江戸時代(後期)の介錯人の身分はどの位置だったのでしょうか?

場所は米沢藩か佐野藩です。

Aベストアンサー

布施弥平治著 「日本死刑史」 巌南堂書店 によると
諸藩の刑罰のやり方は、藩独自のものが多く、しかも
資料は処刑記録も含め殆ど残っていないとの事です。

従って各藩の切腹の際の介錯人については、殆ど不明
と思われます。

介錯人については幕府の関与したものだけが、多少残って
いるのでしょう。

その例は5万石の大名の浅野内匠頭の介錯人、磯田武太夫
は徒歩目付(500~1000石)で、大名の介錯人としては
身分が低すぎます。
大石内蔵助の介錯人の安場一平は細川家の徒歩頭(かち
がしら 今の小隊長みたいなもので 300石位かな)で
浪人の大石の介錯人には高過ぎる身分です。

所般の事情を考慮して介錯人を決めるので、罪人の身分に
応じるのは当然ですが、一律ではないと考えた方がよいで
しょう。

足軽、徒歩、徒歩頭から選ばれるのが普通と考えます。


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