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どうしたらいいでしょうか。

今、嬉しいとか悲しいがわかりません。

A 回答 (2件)

是は、今貴方が「何かを意識」しているせいです。

それは多分不安に伴った事を意識しているのかと思います。

本来の貴方と、今の貴方の根本的な違いが有ります、それは「意識している事」と言う事の本当の意味が分かるかどうかに掛っています。

誰も余り言いませんが、人間の本来の働き、貴方の場合の本来の自分と言うものですが、「意識をしないで」生きていた。と言うものです。人間は自我意識だけを認めようとして、なかなか無意識の中にも心が在ると言う事を認めようとしません。

人間には実際に一人の人間には心が二つ在ります。例えば貴方が車の運転をしていたとします、急ブレーキを掛ける時が有ります。その時に貴方は「思わず」自我意識を使わないで、無意識のままでフートブレーキに足を運んでいるはずです。自分の心は足には命令を出していません。

貴方は大勢の前で話をしたり、注目されながら歩いたり出来ますか?或いはプレッシャーが掛っているここ一番と言う時にたくさんの人の前で自由に体を使ったり、心を使ったり出来ますか。出来ない筈です。

人間は意識をして、その意識の状態で何かをしようとした場合に「神経症」と言う事になります。又その意識をした状態で体の心配をした場合には「自律神経失調症」と言う事になります。又その自我意識だけで心を制御したり、心の調子を心配した場合には「精神疾患」と言う事になります。

人間が意識をして、人間の生活がうまくゆかない事を「人間苦」と言う風に呼ぶ事が出来ます。この苦しみが宗教文化の発展を促してきました。人間の不安の解決が「宗教」の根底にあります。

人間が幸せな様を「天国」と言う言い方をします。その反対が「地獄」と言う事になります。

聖書に在ります、天国に一番近い存在は「幼子」という事です、人間が成長した場合には、自動的に天国から追放されてしまいます。是は科学的にも証明されています。それは脳の機能が、左右の役割が違うと言う事と、その左右の機能の分化が完成に近ずいたと言う意味になります。

仏教でも同じ事を言っています、「分別を捨てろ、或いは我を捨てろ」と言う事です。この事の意味する処は、人間の自我意識では人間はうまく生きられないと言う事になります。

人間は本来学ばなくても生きてゆく力が有ります、処が本来の生きてゆく力が成長する時に、又いろいろな知恵を学ぶ事になります。その事が「知恵のリンゴを食べた」と言う意味になります。この意味する処は心の分裂と言う事になります。この分裂した心が「地獄」と言う意味になります。是は心の矛盾の事です。

心が一つで幸せな子供時代が、脳の成長によって、脳の機能の分化が完成する事によって、分別が始まります。世の中を意識して見てゆく能力が付いたと言う事です。無意識的にやっていたならば何も問題が起きませんでした。処が反省をしたり、比べてみたり、様々な角度から見る事が出来るようになります。

この事が人間の心に「苦しみ、罪悪感、漠然とした不安」をもたらす事になります。この解決方法が宗教の中に在ります。

人間に在る二つの心とは、一つは自我意識です。分別する事が専門の脳の事です。もう一つ心が有ります、それは仏性と言うものです。無意識や、潜在意識を働かせています。自我意識の行動を監視しています。「思わずに」身体が動くような時に働く働きです。無意識の中に在る事によって自我意識には判り難くなっています。

人間の悩み苦しみとは、心の矛盾と対立です、精神疾患を患った方なら経験があると思います、心が言い争いをしているはずです。是が心の分裂です、心の矛盾と対立です。この事の解決が「禅」の中に在ります。

禅問答とい言うものが有ります、是は脳の機能の違いをはっきりと自覚させるためのものいです。悩み、苦しみとは心の矛盾です。言い方を替えたなら二つの心が、争っています。処が心を病んでいる時は「自我意識が勝っている時です。」

人間の生活が健全で、うまく運んでいる時は、自我意識が引っ込んでいる時です。自我意識が出しゃばったり、引っ込めなくなった時が精神疾患の状態です。意識し続けてしまって「意識地獄」の状態です。この状態が「一切皆苦」と言う事になります。

禅問答には自我意識がどうしても解く事が出来ない理由が有ります。それは脳の機能の違いからです。それは分別脳に分別出来ない問題が割り込んできたことになります。

コンピューターに例えたなら、能力の備わっていないソフトに、解く事が出来ない問題を割り振ったと言う事になります。簡単に言うならば分別が専門の脳に「分別出来ない問題」を割り振ったと言う事になります。言い方を替えたなら、分別出来る事は有限と言う事です、もっと分かり易く言うなら有限のことしか計算できない脳に無限、永遠という問題が投げかけられた、と言う事になります。

禅問答に取り組む時に、分別脳が努力をして、死ぬほどの努力を重ねた場合に、何時か「解く事が出来ない、或いは出来ない」と言う事が分かります。我が折れるのです。その時が「大死一番」と言う事になります。その時に自我意識が困っているのを見ていた仏性が出てきます。自我意識と入れ替わって問題を解いてくれます。

その時に自我意識と仏性が出会うと言う事になります。是が「見性」と言う事になります。つまり悟りが開いたと言う事になります。禅問答が解けた時には「生死の問題が解決した」と言う事になります。二度と心に矛盾が生じない、と言う事です。分裂した心が又一つになったと言う意味になります。是は大人の幼子が出来たと言う事になります。安楽に暮らせる、或いは天国にすむ事が出来るようになったと言う意味になります。

精神疾患、悩み、苦しみと言うものの完全解消方法が「禅」の中に在ります。鈴木大拙博士の書いたものが参考になると思います。私の場合には大変有効でした。見性経験が有ってから、既に29年経ちました。今も鈴木大拙博士の書いたものを毎日読んでいます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/27 23:10

本来の自分・・本来の自分の記憶があるなら、思い出せば良い・・

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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/27 23:11

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