ショボ短歌会

初代天皇はどのようにしてその地位にたったのでしょうか?
優秀な頭ではないのでわかりやすくおしえてくださぁい

A 回答 (6件)

>初代天皇はどのようにしてその地位にたったのでしょうか?



古代、日本列島には「地方毎に小国(集落)」が多数存在していました。
天皇家よりも古い部族も、多く存在しています。
645年。大化の改新までは、天皇の力は非常に弱かったのです。
蘇我・物部の両雄のバランスの上に、天皇は存在していたに過ぎません。
大化の改新(最近では、宮廷内クーデターと表現する場合が多くなりました)成功後、歴代天皇一族は「徹底して、天皇支配の正当性」を強調して古事記・日本書紀・続日本書紀を改竄編集しています。
神武天皇も、神話を元に実在人物として記載されました。
神武東征など神話は、日本統一の為に各部族・集落を侵略しているに過ぎません。
1945年敗戦まで、これらの古文書を疑う事は許されない時代でした。

神武天皇に関しては、幕末に「我が藩は、代々勤皇だ」と主張する目的で、奈良県橿原市に神武陵が新規造営(15062両)しています。
大阪羽曳野市の応神陵新設工事は3050両、雄略陵新設工事は2388両の費用がかかっていますよ。

考古学上、初代天皇と推定している仁徳天皇陵も「今では、大仙陵」と呼ぶのが一般的になっています。
昔は「仁徳天皇陵」と言っていましたが、宮内庁が言っているだけで全く証拠がありません。
本当に仁徳天皇陵だとすれば、陵造営工事が未完成なのが不思議ですね。

どこの国もそうですが、歴史は勝者の歴史・勝てば官軍です。
自身を持って答えられる人は、居ないでしようね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
ようは、戦いに勝ってその地位をきずたと認識していいんでしょうか?
2388両って現在価値でいくらぐらいになるんですか

お礼日時:2009/06/17 15:48

宮崎県の古墳群からは未だに青銅器が出土しておりません。


いきなり鉄器が出土します。

石器文化から鉄器文化へ大きな変遷を遂げます。

この金印が本物であれば古事記の年代は相当考えねばなりません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A5%B4% …

北九州の遺跡は縄文~弥生まで途切れがありません。

当時は北九州に相当な国力があり、
出雲に相当な青銅器、鉄器製造所があります。(弥生遺跡)

これらを制覇しながら東進するのは時期によってはほぼ不可能です。
また、古墳の拡散状況から、後々の勢力の移動は難しいです。

銅矛、銅剣文化圏と銅鐸文化圏で二分されており、
南九州は完璧に無視されていた地域です。

紀元を溯る事600年昔に初代天皇が在位し、100歳を超えて統治下と言うのは、

年代が違う。
年号の付け方が違う。
代行した人間が存在し、正当な人間に位を譲る。

など、見方があり史実に結びつける作業は困難を極めます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87% …
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初代神武天皇は和風諡号を「ハツクニシラススメラミコト」といいます。


10代崇神天皇の和風諡号もまた「ハツクニシラススメラミコト」といい、二人は同一人物ではないか、といわれています。

また15代応神天皇は九州の宇美でうまれ、そこから畿内入りしますが
そのルートが初代神武天皇の東征ルートと重なります。
そこから、神武・崇神・応神は同一人物であるともいわれています。

初代神武天皇は東征の旅の出立にあたり
「東にはニギハヤヒが天の磐船を操ってすでに天下っている」
と発言しています。

ニギハヤヒとは物部氏の祖神とされる神です。
ここから神武以前に物部王朝があったとする説があります。


古事記・日本書紀によれば、
神武天皇はもともと九州の日向に住んでいましたが
あまりに国の端であるということで東征の旅に出立しました。

淀川(大阪府)を遡って白肩の津(現在の枚方といわれている)より上陸しましたが
そこではナガスネヒコ(地元の豪族と考えられています)が待ち構えていて、神武軍とナガスネヒコ軍はここで一戦を交えます。

このとき、神武の兄のイツセの腕に矢がささり
神武軍はいったんひきあげました。

イツセは「我々は日の御子だから太陽に向かって闘うのはよくない。
太陽に背を向けて闘おう」と言いました。

そこで、神武軍は南へ迂回し紀州より北上して畿内入りすることにしました。
途中、イツセは矢を受けた傷が原因で死亡しました。

神武は途中、熊野の神の毒気にあてられたり
土蜘蛛(穴の中に住む先住民族と考えられています。坑道で働く人々だという説もあります)と闘ったり
苦労しますが、

ヤタガラス(三本脚のカラス)に案内されるなどして畿内入りします。

そして再びナガスネヒコに会います。

ナガスネヒコは
「昔、ニギハヤヒ(物部氏の祖神)という神が天下った。私はニギハヤヒを神として崇めてきた。
あなたは神の御子であるというが、なぜ神の御子が二人もいるのか」といって
ニギハヤヒが神の御子であることを示す天の羽羽矢と歩靫(かちゆき/矢を納める道具)を見せた。
神武は「間違いない」と言って同じものをナガスネヒコに見せた。

ナガスネヒコは一瞬かしこまったが、それでもなお抵抗しようとし
自分が神と崇めていたニギハヤヒによって殺されました。
(ニギハヤヒが神武に服従したということでしょう。)

こうして52歳のとき橿原(奈良県)で即位したと記されています。

神武は大物主(奈良県桜井市・大神神社の祭神)の娘を后としています。

大物主は正式名称を倭大物主櫛甕魂命といいます。
一方、ニギハヤヒは天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊ともいい、
「櫛」と「魂(玉)」が同じなので、同一神だとも言われています。

とすれば、神武はニギハヤヒの娘と結婚したということになります。
ここから、神武はもともと大和地方にあった物部王朝に
入り婿に入ることで政権を奪った、とする説もあります。

初代神武天皇と同一人物ではないかと考えられている10代崇神天皇は
ハツクニシラスという和風諡号のほかにミマキイリヒコという和風諡号もあります。
この「イリ」は「入り婿」のことだとする説もあります。

なにぶん、古いことなのでいろいろな説があります。
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現在初代天皇といわれる神武天皇より開化天皇までは


日本書紀 古事記 にある記述が少なく神話の世界の話
ではないのかという説がでてきております、神話によると
アマテラスの子孫「若御毛沼命」は高千穂で宮を営んでいたが
東に行き国を治めたいと向かい戦いの末大和を平定神武天皇として
即位したといわれていますが資料が少なくよくわからないというのが
本当でしょう、資料が多くあるのは10代崇神天皇からでこの天皇
が初代であるという説もあります

また初めて天皇という名称を使ったのは天武天皇といわれており
それまでは大王といわれました
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最初の天皇


神武天皇(海幸彦・山幸彦の山幸彦の方の孫)

圧政に苦しむ民を救うために、九州日向の高千穂を出て、
東に向かい、各地の悪王を打ち破り
現在の奈良県橿原市の畝傍で即位され
辛酉元旦1月 1日
(皇紀元年、現在の暦では2月11日、紀元前660年)に
即位され、平和国家日本を建国された





神武天皇は、ご即位に先立って、
国民の安寧をはかり、神々、祖先を敬い、
その御恩に報いよう。そして、正しい心を養い、
家族のような平和で仲むつまじい世界をつくろう、という詔を出されました。
平和国家民主日本は、ここにはじまったのです。
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神武天皇(じんむてんのう)は九州から東征(渡来人が日本を侵略した戦争)を行い西国を統治下に治めたので天皇に即位しました。


大和民族は渡来人の統治下に入り苦難を強いられる事になりました。

簡単に言えばこのようなものです。
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