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 こんにちわ。
先日、老人(70代後半~80代前半の女性。戦争当時、東京在住)と話をする機会があったので、
戦時下の生活について聞いてみました。

その人が言うには、
・戦前は結構のんびりしていた
・中国での戦争は、違う国の出来事に感じていた
・食べ物に苦労することは無かった
・戦時中なのに、あまり緊張感が無く、外来語は使われていた
・昭和19年ごろから、とたんに戦争が急に身近になり、
生活のすべてが変わった

こんな感じです。
テレビが言う戦時下の日本は、「外来語の使用を禁じるなど、著しい言論・思想弾圧が横行、国民は陰鬱な窮乏生活を強いられている」感じですが、本当はどちらなんでしょうか。
その辺に詳しいサイトがあれば、教えてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (11件中1~10件)

亡母、亡祖母も言っていました。


昭和19年頃から変わり始めたと。

その前はいたってのん気な時代だったそうです。
どこで戦争しているのって言っていました。
暗い時代は昭和19年以降だそうですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはり昭和19年を境にして、大きく変わりはじめたんですか。

当時のことが気になります。
あまり公に語られない、当時の本当の姿が知りたくなりました。

お礼日時:2009/06/28 20:15

防空壕を作ります


深さ2~3メートルの穴を掘って木を梁渡してから板を敷いて土を載せるのです
敵機が来るとその中に隠れてやり過ごすのです
防空壕の上は畑にするのです

叔父が食品会社に勤めていたのですがそこの倉庫が爆撃で燃えてしまいました
沢山の食料が燃えたのですが缶詰はラベルが燃えただけで助かった物がかなりありました
戦地に送る食料だったのですが燃えた物を送ってはいけないということで従業員に配給されました
外側は燃えてしまって中身が何か分かりません
おかずにしようと開けたら蜜豆だったりおやつと思って開けたら鰯の煮付けだったりで今なら笑い話です

そのうちに食べるものがなくなってきて犬を殺して食べたこともありました

飛行機の代用潤滑油を採るひまの実を炒って食べて大勢が下痢をしたこともあります
ヒマの油は下剤なので下痢をするのは当然ですがアーモンドのような味でおいしいのです
これも今では笑い話ですね
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
鰯の煮付けの話、面白いですね。
そういう話、大好きです。

私の祖母の話ですが、終戦間際にどういうわけか大量の粉末しょうゆ(?)をもらったと言ってました。その量、トラック一杯分だったそうです。もちろん困ったみたいです。
それとどっかの倉庫で大量のグルタミン酸ソーダ(味のx)を見て、「まだまだ戦争はできる」と確信したそうです。

お礼日時:2009/06/28 20:10

基本的にはサイパン失陥から状況が変ります。



それまでは外地での戦争だったのですが、日本領(正確には信託統治領)が占領されて日本への攻撃が現実帯びてきたのです。

それまでは、
国民服なんてダサイ
戦争って何処でやってるの?
という状態だったそうです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはりサイパン陥落以降ですか。
勉強になります。

お礼日時:2009/06/28 19:46

ウチのオヤジは東京中央区の中学生でした。

大空襲までは特になにも無かったそうです。ただ、ビールなどが配給制になったので、曾祖父のビール(軍需工場の労働者には配給券がでます)を銀座の配給所(麒麟麦酒のあったところ)に取りにいって、大瓶4本荒縄に締めて持ち歩いていると、憲兵に「もしもし」と声をかけられたそうです。もちろん、ゴルァッ、ではありません。
で、配給券を見せ、事情を話すと「時局下、お疲れさまです」とお辞儀して敬礼してくれ、「ありがとうございます」、と。

父は東京の空襲をドゥーリットルから3月10日のまで全て特別区で食らった経験の人ですが、ドゥーリットルのときは、野球していて、
「あ、飛行機だ。でかいなあ。海軍だよ」
「みんな外地にいるんじゃない?」
「あ、くるねぇ」
アメリカのマークみてびっくり。蒲田にいたので、
「下丸子の戦車工場に爆弾おとしにきたんだ(下丸子に三菱の戦車工場がありました。74式までやっていたはずです)」
息を殺してみていたけど、飛び去っただけ。プレイ再開。なんかサイレンが……
自転車のお巡りさん登場。
「家に帰れッ、空襲警報だぞっ」

こんな感じです。3月10日の時は、焦げた電信柱がいい燃料になるという事をみんな知っていたので、ナタ持った人がみんなで割って持って行ったそうです。当然父もそうしていました。
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4です。


戦前はのんびりどころか、普通の暮らし、華の東京です。庶民はアメリカ文化に浸り、芸術家はフランス、軍人と科学者はドイツ、勉強なら英国と。戦前の国力は昭和13年がピークなのですが、大陸での戦争は父の周囲にちょっとあり、蒲田に引っ越す前の高輪では、突然町内会の人がきて、
「今晩3人たのみます」
これは、品川駅に全国の軍が集まって、各地に送り出していたためで、師団単位でくると宿がないので、一般家庭に分宿させていたのです。1度や2度ではなかったそうです。一回は機関銃と将校がきて、目の前で機関銃を分解整備していたとか。無礼者はひとりもいなく、必ずお礼を言って去ったそうです。品川駅前の道が広いのは、あれは軍用道路だからです。

開戦後、12月8日16時でアメリカ映画の上映は打ち切り、タイトルは「スミス都に行く(DVDあります。いい映画です)」

ウチは通信機器や最後は電探のパーツもやっていたので、外来語禁止もなにも無かったそうです。食事は、粗末になったが特にそれ以外は変化なし。泥棒とか活動家が軒並みいなくなったので、かえってよかったそうです。ただ、クチコミとは恐ろしいもので、ミッドウェーで空母ゼンメツなんて、みんな知っていたそうです。
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本名も著者も忘れてしまいましたが、茨城の方で


「戦時中は、天国だった」といった内容の本を読んだことがあります。
戦時中、、というと、日本中が、大変な思いをしてたように思ってましたが、場所によっては、あまり影響を受けずに、普通に暮らしてた処も多かったようです。
その著者は、当時、6年生くらいだったようです。
毎日、伸び伸びと遊び回ってたようです。

また「戦争論」の著者、小林よしのり氏の叔父(伯父?)さんも外地に戦争で行かれてたそうですが、
そこでは、食料もたっぷりあり、毎日が楽しい生活だった、、と言ってた、、というのをマンガに書いてあるのを読んだことがあります。
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母から聞いた話では戦時中は20年になっても一応配給もあったし治安も警察もいた、とくに社会体制に逆らうことをしなければ生活はしていた。


しかし、8月15日に日本の敗戦になったあとは、配給や社会制度が崩壊したため
今まで抑圧されていた人々が、「日本は負けた国だ、**国独立とさけび日本人にたいして、好き勝手無法状態、警察も機能せず手が出せない無法ぶりの人々がいたそうで、戦後の闇市を牛耳っていたのはその方面の人だったそうです
 別の話ですが、女学校に行っていた人の話しでは英語の授業も廃止になったわけではなく、勤労奉仕で労働に行って授業が無かっただけで英語が禁止されたわけではないそうです

母も戦後になってアメリカから缶詰やビン詰がはいてきたときに、親戚の戦中に女学生だった人が英語のラベルをスラスラを読んでいたそうで戦中でも英語の授業はあったと言っていたらしいです
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地方でも学校のグラウンドを畑にしたり、食料の確保に苦労したことを聞いています。

スイトンや菜っ葉のおつゆが多く、いやになったと聞いています。
 昭和18年生まれの兄の小さい時の写真では、アフリカの飢餓児童のようにおなかがプックリ膨らんでいました。
 戦前は川にもたくさんの魚や川蟹、なまずがいたらしいのですが、父の話では戦争末期の飢餓がはじまり、戦争後しばらくの間で急激に数を減らしたとのことです。もとろん、食料として捕獲したからです。
 質問者が話を聞かれた東京在住の老人はかなりいいお家の方ではありませんか。映画「ほたるの墓」にみられるように地方都市は飢餓が蔓延していたと思われます。
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戦前は世の中真っ暗は嘘です。

戦争中でも歌謡曲は明るい曲が好まれはやっていました。野球のセーフ、アウトを使わなくしたとか、そんな野球を見た人などいないはずです。外来語の使用は禁止されたものがあったかもしれないが不便を感ずるほどのものではなかったのではないかと思う。食糧も敗戦までは配給でなんとか空腹をしのいでいたが敗戦後は
配給制度が崩壊してヤミ米を手に入れなければ生存出来ない世の中にになり米軍の食糧援助がなければ日本人に多くの餓死者が出たかもしれません。日本人が敗戦時まで満州、朝鮮、台湾、南洋諸島、で生活していた人々が2、3年の間に全員が日本内地へ帰国させられたわけだから米軍の食糧放出がなければ日本人が飢え死にすることは米軍にも判っていたはずです。従って昭和24年までの食糧事情は悲惨なものがありました。しかし昭和25年に朝鮮戦争が勃発すると戦争景気で食糧事情もよくなり復興景気に突き進んでいきます。戦争による暗い時代は敗戦後の3、4年間だけで戦時中も国民は明るく生活していたのが本当のようです。いつの時代でも暗い面と明るい面があるものです、戦前の暗い面ばかり語れば暗くなるが明るい面ばかり語れば明るく思われます。戦前を暗く語りたい人々が今の教科書を支配している関係で、戦前の明るい話を聞かされない不幸があります。日本人は米軍に遠慮してあの戦争で米軍の行った日本人に対する非戦闘員を空爆による虐殺を批難する必要があります、戦争によって非戦闘員の殺傷はハーグ条約で禁止されているはずです。広島、長崎は言に及ばず東京大阪名古屋その他の中小都市で
爆撃で殺された一般住民が何万人いるのか、日米安保条約締結しているからその虐殺のことを不問にしているようだが、機会があればアメリカはこの問題をどのように考えているのか明らかにしておくべきだろう。
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この回答へのお礼

有難うございます。
「アメリカは正義」、これをアメリカ国民の上から下まで、殆どが疑わないでしょう。それだから、アフガンやイラクに攻め込んでるんですから。
アメリカにとどまらず、規模の大小の如何を問わずして、国軍による全ての無差別爆撃は非難されてしかるべきです。
そのアメリカがワールドスタンダードな人権や人道を説くなんて、笑ってしまいます。

お礼日時:2009/07/20 10:04

No8です。


>戦争中でも歌謡曲は明るい曲が好まれはやっていました。

暗い歌や哀しい歌は、検閲で禁止されていました。冗談のような話ですが、「奥床(ゆか)しい」の形容詞が黒く塗りつぶされたそうです。
 なぜかというと、奥に床(とこ)があるのはいやらしい連想を生むからだそうです。こんなレベルの検閲が行われていたのです。

>母も戦後になってアメリカから缶詰やビン詰がはいてきたときに、親戚の戦中に女学生だった人が英語のラベルをスラスラを読んでいたそうで戦中でも英語の授業はあったと言っていたらしいです

 使用は遠慮されていても英語を読むところまで禁止されていたわけではないので、海軍兵学校では英語の授業も継続されています。

 アメリカの日本人は収容所に押し込められ、財産も差し押さえられましたが、日本では別にアメリカ人だからといって、敵性外国人として拘留したわけではありません。生きにくい時代でも人間は明るく生きようとするものだと思います。アウシュヴィッツ収容所でも明るく生きたユダヤ人はいました。もし戦争だからといって暗い顔をしていたら非国民とののしられたことでしょう。心の中の暗さと顔の表情の暗さは比例しているわけではないでしょう。
 戦後に暗いのは、思いを顔に出してよくなったからだけではないかと推量します。戦争が終わり、密告政治がおわったので、偽善を演じる必要がなくなったのだと考えます。
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