性格いい人が優勝

 昔から疑問に思っていたのですが、江戸の時代の農村が貧しかったと言うのは明治政府の洗脳教育ではないかと思います。
 地方に行けば何百年も続いている農家がありますが今の私の家よりも遙かに広い家です。敷地も何百坪なんて家もたくさんあります。
 しかし、武家屋敷に行ってみるとそれに比べると慎ましい家です。
 下っ端の武士の家なんて2DK以下の住まいしかありません。
 また、どこの農村でも酒醸造の技術も伝えられていると言うことは米を食料でなく酒にまわすだけの余裕があったということではないでしょうか?
 飢饉や高い年貢率に苦しんでいるのであれば祭りなどする余裕はないはずですがどこの農村にも江戸時代からの祭りは残っています。
 確かに一部の農村では飢饉に苦しんだり高い年貢に耐えきれず一揆を起こした地方も記録には残っていると思いますが、それを明治政府が拡大解釈して教育したのでは無いかと思います。
 皆さんの周りの農村で江戸時代の暮らしが分かるような記録はありませんか?

A 回答 (7件)

幕末に日本は開国し、多くの外国人が日本を訪れましたが、彼らの多くが目にして驚いたのは、日本の農民が本当に幸せそうに暮らしている姿でした。




参考:『J-Net21』-『悠久散歩』-『労働者なら日本!と言わしめた江戸期の農村』
 http://j-net21.smrj.go.jp/watch/sanpo/entry/2008 …

「1850年の時点で住む場所を選ばなくてはならないとすれば、私が裕福ならイギリスに、労働者階級なら日本に住みたいと思う」(アメリカの学者スーザン・B・ハンレー)

「彼ら(日本の農民)は皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。これがおそらく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であろうかどうか、疑わしくなる」(アメリカ駐日総領事ハリス)

「この封建制によって日本人は、われわれの考えている意味では自由でないにしても、多くの幸せを享受することができた。西洋諸国の誇るいっさいの自由と文明をもってしても、同じくらい長い年月にわたってこの幸せを確保することはできなかった。国家の繁栄・独立・戦争からの自由・生活の技術における物質的な進歩――これらはすべて、日本人が国民として所有し、そして何世代にもわたって受け継いできたものだ」(イギリス駐日公使オールコック)


戦後に育った私たちが戦前の日本のことを悪いイメージで教えられたように、明治政府は江戸幕府のことを事実以上に悪いイメージで国民に伝えたのは、おそらく事実だと思います。
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この回答へのお礼

 役に立つサイトを教えて頂きありがとうございました。
食べ物の面では今より不自由で合ったと思いますが、貧しかったのか?と言えば下級武士と比べれば貧しい生活では無かったようですね。
 「皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。」と言うことは今のホームレスよりは遙かに幸せかもしれません。いや今定年前の私よりも遙かに幸せかもしれません。もっと歴史を勉強したいと思います。

お礼日時:2009/08/12 21:39

 貧しい、というのは主観的な評価ですから、なんとも言えません。



質問からすれば、既存の江戸時代のイメージと比較して・・・という趣旨なのですが、その既存のイメージの妥当性に関して私的な見解で言えば、想像しているほど貧しくはないと言えると思います。

 ただし、戦国時代などの活発な時代ではなく、閉鎖的な時代も多く、自然災害と政治的人災などで不幸な農村部があったのも事実ではないでしょうか?

>どこの農村でも酒醸造の技術も伝えられていると言うことは米を食料でなく酒にまわすだけの余裕があったということではないでしょうか?

 酒造技術というのは、伝承するような大層な技術ではなく、家々で独自に密造できることもあります。飲酒は特別な日に飲むもので、日常茶飯事で飲めるようなことはありませんし、大変作りの悪い酒だったように文献でも残っています。
 焼酎などの粗悪品が洗練された歴史は庶民の酒の歴史と考えれば、日本酒は武家階級の酒造の歴史のような考えも可能でしょう。

>飢饉や高い年貢率に苦しんでいるのであれば祭りなどする余裕はないはずですがどこの農村にも江戸時代からの祭りは残っています。

 祭事に関しては、寺社荘園が独自に資金を支出したり、士族が資金を出すなど特殊な費用捻出が行われていたケースもおおく、庶民の懐から祭事の経費が出されたケースは少ないとも思います。
 同時に、祭事に関しては、積立制度のように計画的に行われるものですから、年貢とは別に惣村規模で徴収されたとも考えられますし、そのような文献もあります。

>確かに一部の農村では飢饉に苦しんだり高い年貢に耐えきれず一揆を起こした地方も記録には残っていると思いますが、それを明治政府が拡大解釈して教育したのでは無いかと思います。

 一揆ではなく離散(農地放棄・夜逃げ)がスタンダードだと思います。大規模な団結行動は地方領主が厳罰に処した経緯もありますし、地方自治の長である名主階級が極力、武装蜂起を抑える努力を行っていたようです。

 様々な地方分権から総合的に江戸時代の農村事情が観察されますが、例えば、天領と和歌山藩では年貢利率が雲泥の差だったりしますし、農村の副業によっては大変裕福なケースもあります。
 従って、地域毎で考察する必要性がありますが、私個人は、そんなに悲壮な農村生活とは思いません。

 むしろ、明治時代の方が圧倒的に悲惨な時代だったと文献・資料からも読み取れます。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 明治時代や戦前の小作農は本当に悲惨だったようですね。地域でも多く違っていると思います。

お礼日時:2009/08/13 20:28

農業技術の改良で生産性は時の推移とともに向上したが、


一方、年貢は江戸初期のころとあまりかわらなかったから、
その分、農民の懐具合はよかったと理解していますが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/13 11:59

天明の大飢饉、浅間山の噴火、6年間にも及ぶ冷夏を起因とする天保の大飢饉では多くの餓死者が出て、人食いが出て、人身売買が出ています。

一揆も多発し、大塩平八郎の乱も起きています。
 明治になっても富国強兵のため、江戸時代より租税が増加したともいわれています。しかし、身分制度の撤廃は国民に希望を与えていたことと、明治の初期には天保の飢饉の記憶が生きていたと思います。別に拡大解釈して教育する必要はなかったと推測されます。
 江戸時代は身分社会で「足るを知る」という考え方が徹底して刷り込まれ、清貧を苦にしない精神風土が作られていました。
 外人からみれば 理想郷にみえたこととおもいます。現代人には「足るを知る」ことなど刷り込まれていないので、自分の生活が悪くなるとすぐ政治や社会の責任にしたり、強盗や殺人などの犯罪に走ることが多くなったのではないでしょうか。「貧しくてもこころ豊かな暮らし」は現代でも必要な人生の指針です。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございました。「足るを知る」は大切なことですね。

お礼日時:2009/08/13 11:58

身の回りではありませんが、最近


http://www.amazon.co.jp/%E7%99%BE%E5%A7%93%E3%81 …
というのを読んだので、少しだけ。

 これは、記録類から、具体的な百姓の暮らしを描いたものです。記録が残っていると言うことは、ある程度身上があるという事でもありますが、やはり思ったより「いい暮らし」である感じは受けました。
#階層によっても、勿論地域によっても違ってくるわけですが・・・。
 この中では、信州のやや大きめの農家(13石程度の表高、たまに村役人になり、雑貨商を兼ねる程度。家族は10~5人ぐらい)を取り上げていますが、年間100両程度の現金を扱っています。計算法によっても異なりますが、現金の扱い高だけで500万円から3000万円の経営規模ということになります。このほかに自家消費の農作物があります。ほぼ毎年、信濃内ではありますが、参詣のための旅行に出かけており、伊勢・富士参詣の記録もあります。
 
 ただし、経営努力を怠ったり、アクシデントに見舞われると没落するリスクも少なからずありました。

 米食については、数値的な計算から(少なくとも米は作った分だけ消費されますから)少なく見積もってねん0.3石、多く見積もって1石程度は食べていたのでは、とのことです。但し、銀シャリは日常的なモノではありません。一方で、これは具体的なメニューが載っていますが、ハレの場のお膳は現代から見てもかなり豪華になっています。

 また、一揆といっても、武装蜂起はそれほどの数ではなく、直接談判をしようとする「門訴」(領主に対するデモンストレーション+訴願)がかなりを占める、という分析がなされています。つまり、封建制の妥当というようなラディカルなものではないのです。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございました。
興味深い本を教えて頂きました。今度読んでみたいと思います。
 普通の農民は決して裕福な暮らしではないと思いますが、農民でも浮世絵を買ったり、時には酒を飲んで騒いだりそんな生活だったのでしょうね。
 同じ農家でも裕福な農家もあるし小作農で厳しい農家もあったのでしょうね。

お礼日時:2009/08/13 11:53

小生の生まれた所は幕末頃には村高250石、領主に納めた年貢は200石(税率は何と8割)、人口500人という村です。

村高がほぼ実際の生産量に近いとするならば(食糧として1人あたり年に1石の米が必要でしたから)年貢を納めなくても食べていけません。農民は何故生きて行けたのか不思議な村なのです。
実際の農業生産量の記録はありませんが、推定した研究者がいます。夏は約1000石、冬にも麦などを米に換算して250石程度は採れたと推定しています。これは軽度の凶作と仮定しての推定ですから、実際には1500石、もしかしたら2000石近かったかもしれません。
 最近の研究では免(税率)は実生産に対して15%程度だったといわれており、本当に貧乏だったか、重税だったかについては、小生は村高を人口で割ってみると見当が付くと考えています。
食糧1石 + 年貢0.5石 + 最低消費財0.5石 = 2石
この2石が目安。人間1人が生きていくにはこれだけの生産が必須、逆に人が住んでいたということはこれだけの生産があったればこそと思っています。どうも税率の高い村は実は豊かな村だった、そんな気がしています。「江戸時代は貧乏だった」というのは明治政府の宣伝のように思いますね。本当に貧乏な村もあったでしょうが、それほど多くなかったと思います。
 武士の家は多くは主人からの借家ですからあまりあてになりません。領主が入封する以前からその土地に住んでいる土着の武士ならたいてい地主で、これは裕福でした。
 農家が広いのは作業場としての場所が必要だったからです。特に庭はモミを干すために広く必要でした。農家が十分な収入を得ていたかどうかはよく働いたかどうかに拘わっていたといっていいでしょう。小生の村で文政頃に新たな自作農になった農家が10戸ほどありましたが、幕末までに持高を増やしたのは僅か2~3戸、小作に戻った家もありました。
 一揆については詳しくないのですが、高い年貢に耐え切れずというより武士が約束を破ったという理由が多いそうです。
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この回答へのお礼

 貴重な資料を教えて頂きありがとうございます。
太閤検地の時の石高が150石だったのが、新田開発、品種改良などで2000石まで増やしていったのでしょうね。稲を干したり、藁をなったりするためのスペースは必要だったとは思いますが、兎小屋のような我が家と比べるとリッチだったのかなと思います。
 ただ現金収入の道はあまり無かったでしょうからGNPに換算するとかなり貧しい生活といえないことはないと思います。
 

お礼日時:2009/08/13 11:42

庄屋と小作、村祭りの起源を調べると解ると思います。


 
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この回答へのお礼

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%84%E7%94%9F% …
を読ませて貰いましたが小作人が増えてきたのは明治時代になってからだそうです。明治時代の貧しい農民に明治政府が「江戸時代はもっと大変だったぞ。飢饉で死人もたくさんいたぞ。」と洗脳したのが本当だと思います。
 毎日食事も十分に食べられないなら酒を造って飲むでしょうか?
 日本にはいろんな所に地酒があります。貧しいと言われいる。さつまにも芋焼酎がありますし、沖縄にも泡盛があります。
 農村には酒の禁止令が出るほど酒が飲まれていたと言うことだと思います。今の麻薬のようにこっそり飲まれているのなら禁止令は出ないでしょう?
 稗と粟しか食べられなかったと言うよりも米は売って金に換えたり酒を造ったりして稗や粟を主に食べて生活していた。それでも十分に栄養は足りるわけですから決して貧しい生活では無かったと思います。

お礼日時:2009/08/12 20:21

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