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人は何にさまよう?

何故 さ迷う?

どうして、手助けしている人(さ迷う人たちに対し)が、病んでしまいますか。

あなたは何にさ迷いますか。

思春期、成人してから、社会人になって、

あるいは人を愛したり、ナクシタリ(亡くす、無くす、失う)と。

夢があるからこそさ迷いますか。

夢がないからさ迷っていますか。

大人になってから、子育て終わってから、家族があっても行き場はない、

どこが居場所なんだろう。

私は何だろう。

なんで、こんなに便利で、何も持ってない訳でもなくて、

明日があるのに、さまよってしまうんだろう。

さまよっても、どうにかしたいから やってゆく

クリアする度、学習してる。

でも、大切な人がまいってしまったとき、

考えてしまう。。

何で、みんなこんなにさまよってるんだろうって。

さまよってきましたか

いますか

ますか?

どうすれば、さまよいはクリアできるのかな。

さまようについて、私の上げた事意外でも

想うことがあるなら、節があるなら、聞かせて下さい。

知り合いが、弊害がでてしまいました。

さ迷う人の気持ちをわかるりっぱな人でした。

何で、こんなにみんな理解者や、癒しを望むんだろう。

やりきれないけど、あきらめないけど、

あまりにも、さまようという言葉に、キーワードをかんじました。

考えませんか、

何で、何に皆、こんなにさまようのだろう。

あなたのまわりのさ迷ってる人が、どうぞ元気になりますように。

(人の事に我を裂いた人は、今さまよってます。)

どうにかしたいね。

A 回答 (12件中1~10件)

こんにちは



かつて、友人が、「人付き合いなんて、同じ船に乗り合わせただけだよ。きみも
僕の船に乗らないかい。」
といってくれました。
わたしは乗りませんでした。

今 私には、自分の船があって、(小さいし、不安定ですけど)、一緒に 乗ってる ちいさいものたちもいます。
大きくゆれる事もあって、バランスとるだけで精一杯。

ほかの船を助けてあげるなんて、めったにできません。
時間という河を、転覆しないように、、、同乗のものが
流れに落ちないように、、、

船は さまよいつつも、いっしょに船に乗ってる人達は 
自分からは、
停まってるようにも、見えます。

なんで,というより、そういう物だと思っています。

もし、おぼれてる人がいたら、引き上げて、
同じ船に乗せて上げられるかな。
その人の重みで、船全体が、つぶれないように、気を付けながら、、、。

自分はいつか船を下りる、それまで、楽しく、力を合わせていきたいです。
質問者さんも、どうぞお元気で。
こうして言葉を交わせたのも、
おたがいの、船が近づいた ほんの一瞬の出会いだと思います。
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この回答へのお礼

foothillさん ご回答ありがとうございました。
船のお話とても、考え方など解かりやすくて、同感する部分も多々ありました。
>船は さまよいつつも、いっしょに船に乗ってる人達は 
自分からは、
停まってるようにも、見えます。
面白い例え方で、こちらの考え方も凄く理解しやすいものでした。
なるほど。。。

>質問者さんも、どうぞお元気で。
お気使いを頂きまして、ありがとうございます。
参考にしてまいります。

お礼日時:2003/04/30 14:31

人は生き甲斐なしには



生きていけないのでしょうか・・・。

・・・、生きてはいけないかもしれませんね。

今、私は生き甲斐を感じて生きていますが、

1,2年前の私は人生に絶望を感じていました。

生きてて生き甲斐を感じなかったからです。

でも今生きていて生き甲斐の理由を自分に問うと、

たいした理由ではありませんし、

こんな理由でいいのか?って言うようなものです。

そして1,2年前に生き甲斐がなくて

悩んでさまよっていた時期より前の時も

たいした理由で生きてなかったです。

毎日遊びたくて過ごしてました。

学校がつらくてもそのあと遊べるから生きていけました。

遊ぶことが生き甲斐でした。

たいしたことない理由で生きてきました。

そして今でもたいしたことのない理由で生きています。

そのくだらない理由でも生き甲斐にするのは自分です。

どうしてそれを生き甲斐に感じるのかはわかりませんが、

それに生き甲斐を感じているのです。

だから手探りで生き甲斐をいっぱいさがして

見つければいいと思います。

大変だとは思いますが、

本を読むことやゲームをすることから

探してみてはいかがでしょうか。

さまようということと違っていたらごめんなさい。

>私はなんだろう。

自分は自分です。

それ以上ではありません。

人からの評価が自分の価値だと

決めてはいけないと思います。

子供に、世間に何を言われようが

自分という存在の価値というものは

自分にとっては絶対です。

人の価値は気にしたいものですし

私も気にしますが

それを自分の価値と感じてはいけないと思います。

>どこが居場所なんだろう。

寂しさが伝わってきます。

友達いっぱいに話しかけて

探してみてくださいとしかいえません・・・。

がんばってくださいね(泣)
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この回答へのお礼

koukitokiさん、沢山のアドバイスありがとうございます。
お若いかたでしょうか。
色々、お気使い頂きまして、どうもです。

私自身のさまよいは、もうほとんど過ぎているのですが、
友達の、さ迷ってる人を受け止めすぎて頑張りすぎた
結果をみて、さ迷うと言う事について、
さ迷う=(自己に落としての)自己責任と
言う観点から考えて見ました。。。

でも、ここで沢山のご意見を聞けて、良かったです。

生きがいについて、ご意見を頂きまして嬉しかったです。
私自身も同感する所があるので、又、自然体でいる事が
いちばんなんでしょうね。

お礼日時:2003/04/30 19:10

>自分が辛い時だけ甘えてきて、学習しなくて、良くして


>もらったら、その分頑張って変ろうとしない人の依存の
>せいで、友人がブッ潰れてしまったのでやりきれなくなって
>ました。

人が背負うことのできる重さには、限度があります。
偉人・聖人と呼ばれるような人でない限り、人の重荷を負う
ことには限界があると考えた方が間違いないでしょう。

私もなるべく人には親切にしたいと考えています。
しかし限界があることは事実で、あれもこれも世話をしている
と自分がぶっ倒れてしまいます。

ですので最近は、世話をする相手にも応分の努力をするように
促すことが多いです。
誠意のある相手のみ、こちらもきちんと応対しています。

どうしようもなく依存してくる相手に対しては、縁がなかった
と考えるのも一つの対処方法かもしれません。
|そうは言っても相手が家族だったりすると、縁を切ること
|ができないということもあるのですが。
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この回答へのお礼

cse_ri2さん アドバイスありがとうございます。

>私もなるべく人には親切にしたいと
しかし限界があることは事実
あれもこれも世話をしている と自分がぶっ倒れてしまいます。
全くです。私の知り合いはそれで一杯に成ってしまわれました。
とても悲しいのです。
回りの寄りかかった人は、何を感じ取ったのかなあと。

「そうは言っても相手が家族だったりすると、縁を切ること
ができないということもあるのですが。」
全くですね。
傷つく人が少なくなって欲しい物です。

お礼日時:2003/04/28 20:32

No.2の返答のコメントです。



>ですが、ここで少し違ってくるのが、その後の経験を
>生かし学習し、乗り越えた人の場合には関係なくなります。
>親の愛情だけが根っこではないといえる場合もあります。

そうですね。
苦労して学習して乗り越えた人は、自分の中に「何か」を
見出した人だと思います。
そういう人は別の困難にぶち当たっても、それを乗り越える力を
身につけていると思います。


>> 自分の根っこは何ですか?
>そうですね、今なら 「1人立ちしてから、頑張って来た
>事が私の根底です」といえますが、 昔の若い自分なら、
>私は何物かもわからなかったでしょうね。
>最近は大人になってもそう思ってる人が多いのかもしれ
>ませんね。

同感です。


>後、家庭環境に恵まれすぎて、おかしくなる人もいます
>よね。。。。。。

どっちかというと、甘やかされて育てられた人でしょう。
甘えさせる愛情も必要ですが、それと同時にある程度厳しい
躾や指導も必要です。父性的な愛情と母性的な愛情の両方が
あることが理想的なのでしょう。


>学び取る力が大切なのかもしれませんね。

苦労の中から何を学ぶかが、人間的に成長できるかどうかの
分岐点かも知れませんね。
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この回答へのお礼

cse_ri2さん 何度もご自身のご見解をお聞かせ戴きまして
本当にありがとうございます。
やっぱり人は前をむいていたいですね。さ迷う事が合っても、
今時分は何が出来るか、個々に考えて居たいですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2003/04/28 20:28

●安心できる状態を築けないから さまようのです。


 人は支えあって 安心を得ることができます。
 けれども その相手が亡くなったとき それでも
 こころ安らぐ状態でいるために 自然をふたりで
 よりどころにします。どちらかが亡くなっても
 自然がそばにあれば 安らぎは得られるものです。
 しかし 現代はその自然が揺らぐとんでもない
 時代なのです。ですから誰しもさまよっていて
 なんの不思議もありません。こころの安らぎを
 得たいから 自然を守ろうとする 取り戻そうとする
 そんな動きが起きてきているのは あたりまえのことなのです。
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この回答へのお礼

H-hokoさん アドバイスありがとうございます。
これは、人が忘れがちになっている観点からのご意見で、
とても参考になりました。
そのとおりかもしれませんね。
支え合う、、、
支えてもらうだけ、、、逆手に取ったらそう言う気持ちや
思考が増えた結果も全てに言えそうです。。。
とても考えさせていただきました。
ありがとうございます。

お礼日時:2003/04/28 20:21

さまようことを、受け入れたからだ。


さまようことを、赦したからだ。
だから、さまようことが、できるのだ。
それは、その人の力だ。
まぁ、彷徨うだけが人生ではないが。
  
目的ではないところで、さわやかな風をかんじる。
海にのびる月を見る。
さまよえる魂にのみ、出逢いがある。
さまよえる魂のために、季節がある。
さまよえる人のために、俺の生ける魂はさまようのです。
それが、その行方であるからです。
さまよえる魂は優れている。
それよりも、堕ちる魂こそが、さまよいという救いを、必要とする。
 
彷徨えることもまた、幸せだ。
>どうすれば、さまよいはクリアできるのかな。
十分に彷徨ったら、さらなる世界が来る。
十分に彷徨うことを拒む人は、また、その人の道がある。
その人は、その人を行き、それでいいのです。
>人の事に我を裂いた人は、今さまよってます。
本当にそうか?
本当にそう思うのか?
彷徨うことを受け入れる。それが、十分に彷徨うことを可能にする。
十分に彷徨うことは、よい。
その人は、彷徨うことを、越えたことができるからだ。
十分に彷徨える人は、明日があるなどと、いわない。
その人は、彷徨える今を、生きるから。
その人の焦点は、自由に近い。
人のことに我を裂くなんてことができる人は、十分に彷徨えている。
それは、その人の優れた力だ。
救いある人生を歩む人の、その人の救いは、その人にしか、もたらされないのです。
それは、その人をとおしてしか、得れないのです。
救いを必要としない、人生も、ありえるのです。
世界は、ひろい。
人生は、迷いという言葉では、到底、かたりつくせない。
彷徨っているようで、近づいてる。
十分に彷徨っている人は、近づかない。
もう着いてる。着いているのに、彷徨えるということは、そこに、その人の広い世界が、広がっているから。その人は、もう着いているのです。

何故彷徨うのか?
さまよえ切れてないから、さまよう。
行きたりないから、行くのです。
 
堕ちる魂は、騙された、欺かれた魂です。自己の魂を裏切ってしまった魂の影です。
我を、裂いたのではなく、裂かれてしまった者はそうなりえる。影のような存在になる。
そういう人は、多くないが、少なくもない。
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この回答へのお礼

ayamatiさん、こんにちは、大変大きな視点、角度からayamatiさんのとらえていらっしゃる
ご意見をお聞かせ戴きまして、ありがとうございます。
ayamatiさんに戴いた内容には常に、気持ちの良い、
前向きさが前方に有るような気がしました。

 「目的ではないところで、さわやかな風をかんじる。」
この気持ちや考えが、頭の片隅に自分を支える物として
あれば、色々と好転して回る気がしました。
じっくり、又、読ませていただきますね。
きっと沢山のメッセージがまだまだ含まれているきがしますので。
ありがとうございました。

お礼日時:2003/04/28 20:18

人間には、いろいろなものをみることができます。


けれど、すべてのものをみることはできない。

人間は、さまざまに、物事を予測、想像します。
けれど、それはきわめて不完全。

人間は、たくさんのことを理解することができます。
けれど、それは全体のほんの一部。


人間は、たくさんの人が集まっていますが、でも、そのひとりひとりは、独立したindividual。
「私」と、周りの「人」とのあいだには、絶対にわたれない「河」があります。

結局は「私」はひとり。
不完全な「人間」であるのに、ひとり。

ひとりがたくさん、ひとつところに集まろうとするけど、実際にはばらばらだから、
いきちがったり、ぶつかってしまったり。
不完全だから、あらぬ方へ向かったり、ころんでしまったり。
不幸なことだ!

そしてまた、ひとりひとりは、ひとりで彷徨う。
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この回答へのお礼

tickyさん アドバイスありがとうございます。
仰る内容、とても参考になりました。

そうですね、渡れな河ですか。
個人と個人の間にはそれはありますよね。。。。
でも、個人が個人に対してのさ迷いは、これまた乗り越えなくては大変ですよね。
色々、考えるべき事だと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2003/04/28 15:42

人生の中で行われる取捨選択は結局何を目的に行われるのかという。

各個人の価値観(人生の目標)を確率できないから迷うのでしょう。
ゴールが見えているがたどり着けず、その方法を試行錯誤する事と、人生の目標そのものが見つからずに迷い戸惑うのとは明らかに質が違うと感じます。
本当にそうかどうかという部分、いわゆる真実という部分は置いておいて、取り合えず何らかの自分なりの人生の目標を立てることが最善の策ではないでしょうか。
道に迷いさまよっているという人たちの多くは目先の欲求(金持ちになりたい、他人に好かれたい、芸能人のような容姿になりたい、社会的に認められたい、etc・・)にとらわれすぎていて、自分がこの世界に何を残すべきなのかを真剣に考える人は少ないように感じる。

ご友人が他人を思う余り、その苦しみを背負ってしまったということですが、であれば、そこから友人を救い出せるのはあなたしかいないですね。

良く話を聞いてあげて、その人が思い悩んでいることは取り合えず置いておいて、その人は人生で何を残したいのかという部分をとことん話し合ってください。

私も若い頃、友人との会話で救われたことがあります。
今では、私が一生をかけて残したいものを確立してがんばっています。小さな迷いはいまだしょっちゅうですが、進むべき道を見失うことはなくなりました。

頑張ってくださいね。
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この回答へのお礼

mktoolllさん、ご自身の見解とともに、親身に考えての思いやりのある、アドバイスありがとうございます。

mktoolllさんのおっしゃる、全く異なる経緯は同じ様に考えていたりもします。
納得する部分が多かったです。。。

>ご友人が他人を思う余り、その苦しみを背負ってしまったということですが、であれば、そこから友人を救い出せるのはあなたしかいないですね。
対したことは私にはできませんが、聞いて欲しい時に、
色々聞こうと思います。
元気に戻って欲しいです。心配してますので。
ありがとうございました。

お礼日時:2003/04/28 15:39

質問文を読み、その後#1さんの回答を読み、その#1さんの回答が私の考えにチョット似ているので驚きました。


私の考えはこうです。
人生は選択と妥協の連続です。
些細なことから重大な事まで、様々な問題に直面した時、決断を迫られます。
どんなに緻密に計算しても選択できる道はひとつ。
残念ながら自分選択した道を歩む自分には、別の道を歩む手だてがありません。
あるいはそちらを選んだ方が幸せな道だったのかもしれません。
ですから人生はベターがあってもベストは無いと思います。
だから人はいつも迷います。選択する前はもちろん迷いますが、選択後も本当にこれで良かったのか?と。

自分の目の前にカーナビのようにこれから自分の進む道が示され、更に分かれ道で自分がどの道を進んだ場合もその結果が表示されれば迷うことはないと思います。
こんな事は無理としても、自分が進むべき道を既に歩んだことがある人がいればアドバイスはしてくれるでしょう。
でもそれに何の意味があるでしょうか?アドバイスをしてくれる人間も自分の進んできた道しか知らない、みんなと同じ人間なのです。
結局完璧な人間、迷わない人間はいないのです。

ですがそれでも良いのです。
迷わない、全てを知り尽くした人間がいたとして、
その人間が人生を歩んで何が楽しいでしょうか?

迷うからこそ人間。
迷う内容がそれぞれ違うのもまた人間だからです。
みんなが少しずつ違う人生を歩んでいるから自分の経験を知らない人にアドバイス(手助け)してあげられる。巧くできているようで、完璧ではない。
だから人生って楽しくて人間って面白いんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

gekkouさん、こんにちは。gekkouさんのご回答を読んですこし、気持ちがやらかくなりました。

私自身は散々、さ迷って来たしそれでも頑張るしかないって応えにしか辿りつかないから、いいんです。

今回大好きな友人が、体まで壊した事で、やるせなくなりました。
皆、頼ってくるんですよ。自分で選択さえもしない、
そんな人や、苦労ばかり背負って、ほんとになんでかなあって
いやんなっちゃいました。
さ迷うみたいに悩んで、自分で応えの出せない人のなんと多い事かと。

でも、沢山の人のご意見を伺って、一杯になってた気持ちや、気持ちが少し吐き出せました。
ありがとうございます。

お礼日時:2003/04/28 15:03

私は半年くらい前、逆に「どうして自分はさまよえないのか」ということで


すごく悩んでましたよ。
私達 子どもにとって 自分の好きなように放浪できるのは夢のまた夢です。
親の管理下にいなきゃならない、なんて誰が決めたんですか?
どうして 決められた学区以外の学校に入学できないんですか?
さまよえるということは どこかに自分の居場所を探す手段があるということ
そんなに悲観することもないと思いますよ。
私の、狭い世界から見ればね。

私のこころの中も、何かの意味を探すために虚空をさまよっているのかもしれない。
でも、それが自分のプラスになることを信じている。

回り道をしてでも一歩進める人は、偉い人だ。
大切なのは、さまようことに悲観することじゃなく、
さまよう中で何を見つけられるか、じゃないですか?
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この回答へのお礼

may-riverさん、こんにちは。ご回答ありがとうございます。
面白い観点から、お考えだったのですね。

あなたの仰る事は、同じ事を、別の角度から同じ様に考えて下さったとよくわかります。

私は、悲観ととらわれやすいですが、もう、やりきれない気持ちでした。
自分が辛い時だけ甘えてきて、学習しなくて、良くしてもらったら、その分頑張って変ろうとしない人の
依存のせいで、友人がブッ潰れてしまったので
やりきれなくなってました。
自分の悲観というより、なんか、もう、さすらってる気持ちの多さに
嫌気がさしてました。

may-riverさんの
>でも、それが自分のプラスになることを信じている。
回り道をしてでも一歩進める人は、偉い人だ。
大切なのは、さまようことに悲観することじゃなく、
さまよう中で何を見つけられるか、じゃないですか
は、前向きでとても好きでした。
成るほどですね。

そう思う人がふえたらいいんですけど。
私ももっと積極的に行きます。

お礼日時:2003/04/28 14:58

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