プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

 ウィキペディアのほか、
http://www5f.biglobe.ne.jp/~toukondankon/k-hamag …

http://blog.kyotokk.com/20060616/1719-50/
にも写真がありますが、
どれも、違う個所(梁や開いている門)を示しています。
全てが、禁門の変の際に長州軍が放った銃弾の痕なのでしょうか?

A 回答 (3件)

>「説明の看板」は、どのあたりにあったか、ご記憶はありますか?



撮った写真を確認したところ「説明の看板」はなかったようです。高札風のものに書かれていた(普通は門の名前くらいしか書いてないでしょうが)か、ホテルのパンフレットの類を覚えていたかだとは思います。
失礼いたしました。
なお、ウィキペディアも確認しましたが、「禁門の変」の項目の中に、「その為今も門の梁には弾痕が残る。」と言う記述と、門の写真には「蛤御門・弾痕(2005年10月撮影)」と書かれているので、梁にも門にも残る弾痕は禁門の変のときの弾痕だと思います。
    • good
    • 0

>全てが、禁門の変の際に長州軍が放った銃弾の痕なのでしょうか?



3年ほど前に偶然蛤御門の真正面のホテルに宿泊したことがあり、朝散歩かたがた蛤御門から京都御所(御苑)を歩きましたが、蛤御門は思ったよりちゃちな門で、よくこのような門で突破されなかったと思ったものでした。銃弾の痕も門のあちらこちらにあり、説明の看板にもそれらが蛤御門の変の時の弾痕だとの記述があったように思います。それなので、写真にある弾痕は禁門の変の時のものだと思います。

参考まで。

この回答への補足

 ご回答、ありがとうございます。
「説明の看板」は、どのあたりにあったか、ご記憶はありますか?

補足日時:2009/12/24 08:09
    • good
    • 0

そうだと思います。

幕軍は旧式の火縄銃ですから、発射数は官軍に比べて段違いに少ない。
だから残って居る銃痕は長州軍のものして殆ど間違いないと思います。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!