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戦国時代はよく忍者を使っていたようなのですが、忍者というものが情報収集に使われなくなったのはいつごろですか?
戦国時代の小説ではよく出てくる忍者が新選組の小説を読んでいてもあまり忍者が登場しないので気になりました。

A 回答 (7件)

1.歴史そのものが忍法(情報)



文字による歴史そのものが、
高度にして強大な北方ユーラシア無文字文明に対するゲルマン人と支那人のコンプレックスを文字で嘘を吐くシステムでくつがえそうとする試み、すなわち欺瞞情報システム、すなわちこれ忍法(ただし程度が低いです。)です。


2.縄文時代よりしのびのすべは伝わりました。

忍び(情報)も忍び(心得)も忍び(体術)も
北方ユーラシア無文字文明とその直系の子孫である
スメラミコトと縄文日本文明が受け継いでいます。

それで欧米人が「忍者!忍者!」、「侍!侍!」と日本人を観れば騒ぐのです。

3.兵法家・武芸者は忍びの心得があります。

しのびのすべ(=忍法)が俗世に出たのは、
神道流=新當流(新当流)=影流が俗世に出た時です。
つまり、影流初代宗家愛洲移香斎久忠様の時です。

それまではしのびのすべも含めて神事でした。

神道流=新當流(新当流)=影流は、
すなわち兵法武芸十八般+忍びのすべ(情報)+忍びのすべ(心得)+忍びのすべ(体術)ですので、
剣術家は忍びのすべ(情報+心得+体術)を身に附けていますし、
柔術家は、「剣術を表芸、柔術を裏芸」と称し、剣術家の心得の隠し武芸ですので、
忍びのすべ(情報+心得+体術)を身に附けていますし、
薙刀術家(近代で言えば園部秀雄)は、直心影流の宗家三代富山圓(とみやままどか)(斎藤一を直心影流の秘太刀で破った。)・富山可誠(とみやまかせい)・吉永義秀(よしながよしひで)の愛弟子で直心影流剣術・柔術・薙刀術・忍法の達人でした。)は忍びのすべ(情報+心得+体術)を身に附けていますし、
その他の武芸においても忍びのすべ(情報+心得+体術)は基礎となっております。

中世においては、上泉伊勢守信綱様と四代徳川家康様の計画で、「素直な心の影流」ではない、百姓の里の忍の里の柳生の里の者達には、影流ではなく陰流すなわち「柳生新陰流」を伝授し、「徳川将軍家剣術指南役」の名目で各大名・各藩に忍びとしてしのびこませていました。
ところが、影流の劣化版である陰流目録允可しか授かっていない柳生新蔭t流一門に対して、江戸時代初期は「新當流」が各大名・各藩の領主から家臣に至るまで、大流行していましたので、すぐに忍びとバレて、剣の腕も劣るために斬り殺され、幕府には病死と届けられていました。
柳生一門で長生きできた者が数えるほどしか居ないのはそのためです。

近代においては大日本帝國陸軍省と帝國陸軍が日本の発明である忍びのすべを活用していました。
他国が知らないしのびのすべを活用していることもあり、大日本帝國陸軍は素晴らしく優秀だったのです。

現代においては、平成の御代に奇跡的に、直心影流三代に渡る宗家の愛弟子である直心影流十七代宗家秋吉博光がしのびのすべ(情報+心得+体術)を身に附けています。
例えば直心影流においては剣術(狭義)の基礎訓練の一見何気ない○○が忍びの心得であり体術となっております。
(気づいているのは宗家だけです。)

参考URL:http://www.nicovideo.jp/watch/sm13396172
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No.5の続きです。


「御庭之者」は「武鑑」にも載っている、五十~三百俵取りの士分です。   吉宗より直に特命を受けて秘密調査をします。   のちには将軍でなく老中などより特命を受けるようになりました。
士分の者では忍びの術など出来ないと思うのが普通ですがさにあらず。
大御所の家斉が薩摩藩主島津斉興に「そちの城の蘇鉄は見事なものじゃ」と話し、怪訝そうな島津候に対し「冗談と思うなら、一番大きい蘇鉄の根元を調べて見よ。   葵の紋の笄が差してある筈じゃ」といわれ調べるとその通りだったとの話が伝わっています。    忍びの術にも長けていました。
隠密はれっきとした、士分の者で、前の定義にある「忍者は下賤の者」というのに反しますが、忍びの術が使えれば忍者に入れてもよいでしょう。
この話が知られている内では、忍法を使い調査した最後の例になります。
ペリー艦隊の探索をした沢村甚三郎は忍法でなく、ぺりーに招待された日本側委員の随行員の中に入り、乗艦して調査したといわれます。   なお沢村家は忍家です。
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享保19年の「近江輿地誌略」に「甲賀、伊賀と号し、忍者という。

敵の城内にも自由に忍び入り、諸事を見聞し味方に告知する者あり。・・・・・・下賤の職にして、武士の職にあらず。」と書かれているそうです。
戦国時代の忍者(しのび)は諜報活動だけでなく、放火、騒ぎなど敵陣の後方撹乱や、奇襲作戦など兵士の働きもしました。   しかし手柄を立てた者は、下士として召抱えられ、平和な江戸時代には前記のように、諜報専門になり忍びの術も衰えました。
家康により服部半蔵の下で下士となった伊賀者は忍びの術は使えなくなりました。
島原の乱で兵士の働きもした最後の忍びは、幕府に召抱えられず、甲賀の里で忍びの鍛錬をしていた甲賀衆でした。     記録によると原城の詳しい絵図面は、家光の内覧に供され、また百雷筒を発射し其の隙に城内に忍び込み、食糧欠乏を調べたそうです。    その功で江戸に土地を与えられ移り住んだ者もいましたが、もはや忍びの術が役に立つ事はありませんでした。
幕府の役職にもありませんでした。
しかしのちに隠密御用(掛り)という役職が出来ます。
御存じの8代吉宗の「お庭の者(通称お庭番)」です。     吉宗が紀州より連れてきた、忍び出身?の家臣です。        続きはのちに。
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bungetsuです。


NO2.です。

(7)陽忍の七変化
陽忍は、いわゆる、大物スパイであるので、あらゆる人物に化けた。虚無僧、山伏、出家、商人、放下師(手品師)、猿楽師(猿まわし)、常の形(普通の人)、これらの七種類の変装用具を用意していた。これを「七方出の術(しちほうでのじゅつ)」と呼んだ。もちろん、扮装だけではすぐにバレてしまうので、ふだんから物腰や教養、技術などを身につけていなければならなかった。高級忍者たるゆえんである。

(8)陰忍のユニフォーム
忍び頭巾、上着、たっつけ(伊賀ばかま)、帯、忍び刀がユニフォーム。そして、携行品としては、手拭、鉤縄(かぎなわ)、石筆、薬、附竹(発火用具)を必ず身につけていた。よく、黒装束というが、黒よりも柿色が多かった。暗闇でも黒色は割合目につきやすいが、柿色は意外と見えない。さらに、血がついても目立たない。実際に柿の渋で染めたという。

(9)くノ一
忍法「くノ一」は、もちろん「女」である。これは、女を敵方の奥向きへ仕えさせて情報を収集するもの。「陽忍」の高等術の一つであった。

(10)特訓
忍者の家に子供が生まれると、畳の上に濡れた唐紙二枚を重ね貼りした襖を置く。親の忍者がその子の手を引きその上を歩かせる。子供は襖の端に置かれたお菓子が欲しくて「よちよち歩き」をする。当然、唐紙は破ける。それを叱りつけて唐紙を破らぬようになるまで毎日歩かせる。何千回、何万回と繰り返すうちに「足形」も残さないように歩けるようになるという。忍者が敵方へ潜入したとき、足音を殺し、足跡を残さないための特訓である。真綿からつむいだ細い糸を鼻の穴のすぐ上に貼り付ける。そよとも動かさずに呼吸をする。敵がまじかに潜むとき、息を殺すための修行である。大きな桶に水を満たし、その中に首を突っ込んで長時間耐える。これは潜水のための訓練。こうした幼少からの反復練習が驚異的な体術を生み出すのだ。伊藤銀月著「忍術極意秘伝書」の中に書かれてある。

(11)忍法のその後
徳川幕府が安定してくると、戦いもなくなり、当然のことながら、戦場での「忍法」も必要なくなっていった。したがって、「陰忍」はしだいに姿を消し、「陽忍」だけが残るようになった。一説には、寛永十四年(1637)の島原の乱で「陰忍」はすべて消滅したと言われている。それ以後は、「隠密」と呼んだ。

(12)隠密
御公儀隠密は、将軍直属でした。
そして、命令がくだると、自宅には帰らず、直ちに「大丸呉服店」の2階に行き、その任務に合った服装に着替え、そのまま旅に出ました。
隠密は、任務により1年も2年も江戸へ帰らないこともザラで、また、旅の途中や任務先で死亡しても、幕府は何もしてくれませんでした。
ただし、江戸に残って居る家族には、一生涯「扶持米」の支給はありましたし、音信が途絶えたことを確認すると、その子息を代わりとして「隠密」として雇いました。

以上ですが、
>>戦国時代の小説ではよく出てくる忍者が新選組の小説を読んでいてもあまり忍者が登場しないので気になりました。

上記に述べた通り、「忍者」から「隠密」に替わりましたので、新撰組の頃には、もう「忍者」とは呼んでいませんでした。
そして、明治政府誕生と同時に「隠密」の役目も消滅してしまいました。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>忍者を使っていた時期は?

回答から先に述べますと、
島原の乱<寛永14年(1637)10月25日~寛永15年(1638)2月28日>で、「陰忍(いんにん)の全てが消滅した・・・と言われています。(後述)

すでにご存知かとは思いますが、忍者の歴史を列挙してみます。

(1)忍者とは
起源は、聖徳太子の側近の大伴息人(おおとものそくじん)が記した書の中に「志能便(しのび)」がはじまりとされています。
名実ともに特殊技術と認められるようになったのは、奈良朝中期に遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が中国からもたらした「孫子(の兵法)」の中にスパイ術が書かれてあり、これを源とする。

(2)忍者の原形
修験者が体得し広めていった。
貴族が信仰するような優雅な仏教文化と違い、修験者は眼に見える現世的な力を見せて、庶民仏教として受け入れられことを目指した。
そこで、山中などの厳しい環境に身を置き、気合術、催眠術、医療術などを体得していった。これらの技術は日々進歩し、長く伝わっていった。

(3)「陽忍」と「陰忍」
まず、「陰忍(いんにん)」は一般的に知られる、種々の「技(わざ)」を使う忍者で、源平合戦のころの「義経流(ぎけいりゅう)」に端を発している。つまり、鞍馬山中で修行した「体術」を駆使する者である。
これに対して、「陽忍(ようにん)」は知能的な諜報、謀略を主としている。南北朝の「楠流(くすのきりゅう)」を受け継いだといわれている。

(4)忍者の格
忍者のランクとしては、「上忍(じょうにん)」、「中忍(ちゅうにん)」、「下忍(げにん)」の3階級に分かれる。「上忍」は豪族で、主に、「陽忍」を使った。「下忍」は、もっぱら、体術を使う「陰忍」であった。「中忍」は両方を使い、「下忍」の組頭的存在であった。

(5)伊賀と甲賀
どちらも、自然的条件がそなわっていた。
まず、伊賀(三重県)であるが、鈴鹿山系と笠置山系に囲まれ、外界からは隔絶していた。山岳修験者が好む山あり谷ありの絶好の修行場であった。また、京にも近く、古来より戦いの進撃路でもあり、敗残兵の潜入場所にもなった。宗家の「服部家」は、その土地の豪族であった。服部家は家康に仕え江戸時代に全盛期を迎えた。「半蔵門」は服部半蔵から名前をとっている。
一方、甲賀(滋賀県)は本来の地名としては「こうか」と言うが、忍法に関してのみ「こうが」と呼ぶのが一般的である。甲賀も鈴鹿山系と信楽(しがらき)盆地とそれらを囲む丘陵地であり、甲賀衆は普段は農業や行商人に身をやつし、「上忍」はおらず、「中忍」と「下忍」だけで構成されていた。甲賀衆は、織田信長を経て豊臣秀吉に仕えて手腕を発揮した。しかし、忍者は戦陣においても他人に「忍者」とわからないよう、また、同じ忍者同士でも悟られないようにしたという。そして、雇ってくれる者があれば敵味方関係なく働いたので、いちがいに、伊賀は○○方甲賀は△△方と所属を分けることはできなかった。
その他、雑賀衆(さいかしゅう、または、さいがしゅう)、根来衆(ねごろしゅう)なども忍法を駆使して戦いで活躍した。また、一説には「柳生」も剣とともに、忍法を用いたとも言われている。

(6)本当に伊賀対甲賀?
本来、甲賀衆も家康に尽くした。伊賀衆は、織田信長が戦のたびに神出鬼没のゲリラ戦に業を煮やして伊賀を攻めた。女、子供にいたるまで容赦なく殺戮したという。通称、「天正伊賀の乱」である。
この時、甲賀は家康の「とりなし」で信長に攻められることなく無事であった。したがって、家康には恩義を感じていた。
一方、伊賀衆は天正十年(1582)の本能寺の変で信長が討たれた時、家康は信長の招きで堺遊覧の最中であったが、信長の死を聞くや、家康は必死の形相で伊賀、甲賀の山中を逃げ回り、伊賀衆の助けを受けて伊賀の白子浜から海路三河に逃げ帰った。
また、慶長五年(1600)の関が原の戦いでは、甲賀衆は伏見城籠城に参戦し100人もの戦死者をだした。家康は幕府を開いてから、この甲賀衆の戦死者の子弟100人を召抱え「甲賀百人組」を結成させている。さらに、「伊賀同心」より1階級上の「与力」に任じている。伊賀も甲賀も家康を陰で支えた功績は多大なものであった。忍法的には、さほど違いはなかった。

文字数が限界ですので、NO2.をお届けします。
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情報収集は、忍び込んで・・・というのは、意外と少なく、公表された上方を分析するというのが諜報機関の基本的な仕事です。


http://www.soc.hit-u.ac.jp/~wakao/daimyo1.htm
http://www.soc.hit-u.ac.jp/~wakao/daimyo2.htm
江戸時代も同様に、一般的な情報して、幕府は分析しておりました。
浅野内匠頭がちょっと変な性格だとか、幕府は知っておりました。

では、これらの情報収集を誰がしていたかというと、忍者ということになります。
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ペリーが初めて来航したときに幕府は忍者に黒船に進入させて調査をしたそうです


忍者の働きが文書で記録されているのはこれが唯一だそうです
だとすると忍者の働きはこの件以外は何も分からないということです
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2009/12/29 18:00

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