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よく幽霊や神様の存在を否定するときに使う理由に『科学では証明できないから』という言葉があります。

ですが、この『科学』も本を正せば錬金術から派生した一つの物の見方に過ぎないと思うんですけど、どうして今の人は科学を理由に他の見方を全否定できるのかすごい不思議です。皆様の意見をお聞かせください。

A 回答 (25件中1~10件)

畏れ入りますが、率直に申し上げます。



『霊的な現象の「不在」を打ち消せる否定』の根拠が、
生存中に確保され得る訳ではなく、「不完全性定理」が諭してくれている通りに、
「非科学」を肯定する事の方が遥かに難しいです。

但し伝統技術の様に、
「視聴覚」に由来していない感覚が関わって参りますと、
誤解を生み易いでしょうね。
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どんな結論にも前提が必要だと思います。

科学の前提は実験だと思います。実験が不可能なものは科学では扱えないということなので科学で幽霊は扱えないという意味に問えばよいのではないでしょうか。科学が否定しているわけではないと思います。私も幽霊が怖いです。でも周囲の人と同じように存在するとは思えません。幽霊は周囲の人と同じように存在することが確かめられないからです。でも死んでしまった人が存在するかどうかはほとんど幽霊と同じようにあいまいになってきます。幽霊は死んだ人とあまり違わないように思います。逆に死んだ人は幽霊と同じなのかもしれません。
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私も質問者と同じ疑問を持っていました。

よく心霊特集で、心霊現象をマジックで再現して、これで科学的に心霊現象を否定しました。みたいな事を言っていましたが、私それこそ科学的でないと思います。いえ、それ以前に、証明の仕方に異議が多々あります。
 まず第一に、霊現象をマジックで再現できたらからといって、本当に否定になるでしょうか?もしかするとマジックでも再現できるが、実体験した人は本当に霊現象だったかもしれない。それは単に、「マジックで霊現象を再現できただけ」です。
 第二に、ポルターガイスト現象を低周波振動と判明して、一つの件を解決できた例。でも、もしかすると、他の例でも同じく低周波が原因のところがあるかもしれないですが、そういうのに該当しないのもあるかもしれない。なのに、なぜ「ポルターガイスト=低周波」の図式を堂々と提示できるのでしょうか?
 付け加えて、ポルターガイストだけが霊的な事件の全てではないですよね・・なぜ、テレビはポルターガイストを解決した。あぁ、霊は否定された。みたいな語りをするのでしょうか?ポルターガイストの件も例外があるかもしれないのに、一部の否定が全否定にするのはそれこそ非科学的と思います。
  
 最後に、科学的でないと言ってる人達に。科学、科学と謳っている人達は学生時代、どれくらい科学(化学)の教科書を開いてたのでしょうか。科学者を呼んで、一つの例を証明して、それを科学の科、の字も知らないのに自分の手柄のようにして、否定に必死にもちこもうとする姿を見ると、ずいぶんとフェアではないなと思います。私が科学の質問をしてきちんと答えられますか?その場に行って、質問をぶつけて、その上で違うケースはどうするんだと言ってやりたいです

 目に見えないからと言って否定していたら、キュリー婦人は放射線とかの事など気づかなかったろうし、パスツールも微生物なんて発見できなかったでしょう。こういう言い方は失礼かもしれませんが、否定する人達は小学校で顕微鏡を覗かせてもらえなかったら、今だに微生物を否定してたかもしれないんじゃありませんか?科学は「ありえない」から始まる学問ではないのですよ。
 ご自分達の都合の良いときだけ「科学的じゃない」なんて言葉使わないで下さい。学問を愛して、一生懸命勉強してる人達に失礼です!
 最後にたまたまネットで見つけたキュリー婦人の言葉を勝手に引用することをお許し下さい。

 「自然科学を研究する人は自然の前で子供のような気持ちでいなければなら
 ない。目の前にある現象が自分の知っている様々なメカニズムの組み合わ
 せに還元できると思うのは予断である」
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私は思うのですが、たとえば壁のシミが顔に見えたり、あるいは誰かに触られたような感触を覚えたりするのは、科学的に説明することは可能であると思います。

ですから、幽霊や神様と呼ばれたことが否定されるわけではないと思います。説明されるのであると思って、別に、幽霊や神様といったものを否定しているわけではないのではないでしょうか?

人は、いろいろなものに意味を見出すと言うことがあるかと思います。あるいはいろいろの感情を起こしたりします。
たとえば、葬儀の後に、公園を歩いていた。そのとき、一陣の風が吹いて、あなたの腕を触っていったとします。質問者様のような方であれば、故人がお別れの挨拶を言いにきた、と、感じられるかもしれない。
どうして、そのようなこと(気持ち)を説明しなければならないでしょう?
そうさ、風が吹いただけさ。と、他の方に弁解したとしても、こころでは大切な気持ちが起こっているでしょう。
人とは何でしょう?
科学的知見は、正しいこころで用いられれば、人々を豊かにするでしょう。
しかしながら、説明されても納得できないことについては、自ら見出さねばらない大事なことが、自分自身の胸に宿っているのであると思います。
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#1様の再現性が無いと言う事は致命的ですね。


それと幽霊や神様の特徴が確立された法則に反するなら、これを認めるなら少なくとも法則の不備を発見しなければなりません。
しかしこれは超難問ですよ。何しろその道の優秀な研究者達が長い時間をかけて何度も何度も仮説、実験、検証を繰り返して今のところこれに反する現象は一切見当たらない、そのような法則を覆す又は追加しなければならないのですから。

例えば【超能力で空中浮揚が出来る】と言う事を研究するには地球と人体間に働く重力とは反対の向きのそれ以上に大きな力が存在することを証明できなければなりませんが出来ますか?
話を簡単にする為に重力では無く万有引力の話をしますが二つの質量間に働く力は次の式で表されますが空中浮揚はこれに逆らう別な力を発見しなければなりません。
F=G*M*m/r^2

しかしこの世に存在する力は二種類の核力と重力、電磁力のみでこれ以外は見つかっていません。

で何が言いたいかと言うと幽霊や神を本気で存在すると考えるのは構いませんが具体的な特徴をおっしゃった場合【その特徴が自然科学の法則に反する又は説明できない】場合どうしますか?
逆に言えば法則に反しないなら、又は法則の不備が発見されれば可能性はゼロでは無いと言えます。

ですから幽霊は存在するかと言う場合幽霊の特徴をはっきりさせなければ考えようがありませんね。
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「ニコニコ動画」そのほかで「この職人は神ッ」


と称えられてる存在~実在する神の証例です

違うなら~同じ理屈で他の神も否定されます
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 私も前々から同じようなことを疑問に思っていました。

そのときに、私は哲学のカテゴリではなく、科学のカテゴリで質問してみました。
 参考までに
http://210.132.71.11/qa3406160.html

 では少しお話させていただきます。

>>よく幽霊や神様の存在を否定するときに使う理由に『科学では証明できないから』という言葉があります。

この「科学的証明」についてですが、私は科学の成績は本当に悪かったもので、偉そうにいえる立場ではありませんが、算数を使って説明させていただきます。
5+7=12
という計算があった時、
12-5=7
12-7=5
と、計算して最初の式が正しかったことを証明したりします。これが科学的な立場です。つまり、いつでもどこでも検算(確かめ算・見直し算)が出来るってことが重要なんです。これを「反証可能性」と言うそうです。
 逆に、幽霊や神というものは、いつでもどこでも検算できるわけではありません。こういったことを「反証不可能性」と言います。この反証不可能性こそが「非科学的」と言われる所以です。
 しかし、だからといって科学の立場は反証不可能性な価値体系、思想体系、概念を否定することは出来ません。なぜならば、科学は常に変化し続けています。何か一つの出来事に対して仮説が生まれ、そのときの科学を駆使して、証明をして定説になり、または新しい仮説が出て、そのときの科学を駆使して証明し定説となり・・・・の繰り返しです。科学は仮説の延長でしかなく、あくまで「現在の科学では幽霊や神を証明できない」というのがやっとだと思います。ですから、宗教は「非科学的」でいいんですよ。
 ですが、私はもちろん宗教の言っていることが、科学的にも証明されたりすることはもちろん否定しません。(例えば、煩悩を鎮める効果があるといわれるお香が、科学的にも人がリラックスする効果がある等)しかし、「いつか幽霊や神が科学で証明される」と言う趣旨の事を説いている宗教は、胡散臭く感じますね。テレビなどでよく見かける霊能力者と科学者の対決なんかは、視聴者を引き付けるための演出であって、あれを鵜呑みにする人はテレビ局の思う壺ですね。

>>この『科学』も本を正せば錬金術から派生した一つの物の見方に過ぎないと思うんですけど、どうして今の人は科学を理由に他の見方を全否定できるのかすごい不思議です。

 確かに科学の歴史を見ると西洋の錬金術や東洋の道教の思想を中心とした錬丹術や、キリスト教による加護など、宗教と科学は多くの接点を持ってきました。一口に宗教といっても多種多様な宗教があります。その中で科学が否定しにくい宗教というのもあるようですよ。例を挙げれば「仏教」です。アインシュタインは

現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれる宗教があるとすれば、それは「仏教」です。科学的探求は特殊な宗教的感情をひき起こしますが、仏教は愚かな狂信的宗教感情とはまったく違ったものです。

と述べたそうです。現代社会は科学の恩恵を受けて発達してきました。寒いときに暖かく、暑いときは涼しく、遠くへ速く近くへはより速くと、科学万能の時代を迎えます。しかしこうして発達したクーラーや車が、地球の温暖化を引き起こしている。原子力、アスベスト、フロンガス、人間を豊かにするために開発されたものが人間を苦しめているものは枚挙にいとまがありません。これこそが、アインシュタインが言う「科学的探求引き起こす特殊な宗教的感情」の結果なのでしょう。
 そういった現代科学のかけている部分を埋め合わせるのが「仏教」であると言います。『仏遺教経』には「小欲知足」と言う教えが出てまいります。「貪欲に求めるのではなく、今を満足する事」これが、「科学的探究が引き起こす特殊な宗教感情」を抑える教えとアインシュタインなどは感じたのではないでしょうか。

 全ての宗教がそうとはいえませんが、科学と宗教(この場合は仏教)は立場は違えど補い合うことが出来ると思います。もちろん、互いの土俵に土足では上がらないということが前提ですが、宗教を信仰する人も科学を旨とする人もそれがなかなかできないんでしょうね。

 ここで少し参考文献を紹介します。
〈科学的立場を知る本〉
『99・9%は仮説―思いこみで判断しないための考え方―』光文社新書 竹内薫 著
『科学と非科学の間』ちくま文庫 安斎育郎 著
『科学的思考とは何だろうか』ちくま新書 瀬戸一夫 著 
私が読みやすかったのを並べてみました。

〈科学の立場から宗教否定を試みた本〉
『神は妄想である―宗教との決別―』リチャード・ドーキンス 著
なかなかエキサイティングでした。けど、結局キリスト教から抜け出せてないし、感情的で宗教を否定したいですって言うのが前面に出すぎている気もしますが、読むとおもしろいですよ。

〈科学の立場から宗教の考察を試みた本〉
『カミとヒトの解剖学』養老孟司 著
『脳と仮想』茂木健一郎 著
何にでも脳を持ち出すノータリンと批判されるお二人ですが、なかなか良い所を突いてくるんですよ。

〈無宗教についての本〉
『日本人はなぜ無宗教なのか』ちくま新書 阿満利麿 著
無宗教と言うことについて考えているときに出会った本です。なんか読み終わるとすっとした気分になりました。

 もしよかったら読んでみてください。読み返すと一体何を言いたいのかぜんぜん分かりませんね(笑)すんませんです。急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
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「科学で証明できていないから」という言葉を使う人はいますが、それは正しくはありません。



正しくは「仮説を立証していないから」です。



「幽霊がいる」という人は、「幽霊がいる」という仮説を立てています。しかしそれを立証する事は、今のところ出来ていません。だから否定されています。

かつての科学技術も、立証される前は神話に等しいものです。

しかし、それが実験によって立証されて始めて、「存在する」と証明できます。証明できても信じてくれるとは限りません。地動説が良い例です。


そのため、「幽霊がいる」という仮説を立証しても、本当に信じてくれるまでは何百年もかかるかもしれません。しかし現在は立証すら出来ていません。


科学で証明できないからではありません。
立証できていないから、否定されているのです。


立証できていないものが全て「無し」とは限りません。
かつての科学技術の殆どは、初めは「仮説」という神話や御伽噺から始まり、実験によって「立証」され、義務教育の教科書に載る様になったのですから。幽霊も立証されれば、そう言う日が来るかもしれません。
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抽象という概念があります。



人間が求める頭の中の美しさです。
計算の誤差も、演算プロセッサに任せるとすぐに発生しますが、

01+01=10の様にラディカルに戻りアルゴリズムというこれまた抽象で作ったものはほとんど誤差がない。

何が良いかは本当いうとまだ分からないけど、『科学では証明できないから』という言葉の裏には、『科学では証明したい』という渇望があります。私は、錬金術は後で付いてきたもので、本来は自然というものに対する人間が感じる驚異、や畏怖からの逆説的なものからきていると思いますが。
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あなたの質問を見てから、私も不思議に思うようになりました。

「科学は完璧なものである」という考え方を植えつけさせるような現在の教育に問題があるようにおもいます。アインシュタインは、

「音楽は目的であり、学問もそうである。ただの人間が考える遊びに過ぎない」

なんてことをいっていたような気がします。私もこの意見には賛成です。ですから「科学が必ず正しい」とは限らないんですが、実際には科学のおかげで気象予報が出来たり、私たちは便利な生活をすることが出来ます。それに比べれば、科学ではないもの、たとえば超能力などが私たちの生活にもたらす影響、利益が非常に少ないため数の暴力で科学が過大評価されてしまったのではないかと思います。
科学では塩酸と水酸化ナトリウムで塩化ナトリウムが出来ると教えられます。この反応は実験する場所、時間、あるいは実験をする人がなんであろうと常に同じ結果を示します。しかし、超能力などの科学から見たら「ありえない」ものは必ずしも安定して同じ結果を生み出すわけではありません。人間の本能で考えたら常に同じ結果を返す科学のほうが信頼性を持つでしょう。テレビなんかで超能力者を呼んでは大失敗するところを放映したために「超能力は嘘っぱちだ。科学が正しいのだ」という意見が蔓延しているのだと思います。

あくまで意見ですので参考になれば幸いです。
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