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信長の四国への対応について。


戦国時代(特に信長が勢威を誇った当時)、四国と言えば辺境扱いをされ、そこに台頭してきた長宗我部元親など取るに足らない人物だと考えていたにしても、一応信長は元親嫡男・信親の烏帽子親だったし、平素交流が少なかったにしても形だけは同盟的なものだったように思います。元親の室は明智光秀家臣の斉藤利三の妹ですし、織田家とも縁はありました。


信長は元親に「四国の事、切り取り勝手」という朱印状まで発給したにもかかわらず、結局は土佐一国に押し込もうとしました。確かに「天下一統を目指していた最中、元親に四国全土を平定されると天下布武に影響が出るために元親を討とうとした」という理由はわかりますが、本当にそれだけが理由でしょうか?

信長の軍には所謂“方面軍司令官”がいますが、あの合理主義者と言われた信長のことです。「元親に四国の平定事業をさせて、平定直前に元親を討てば自ずと四国は我が領国になる。それまでは元親に存分に働かせて織田家は労せず」という、ある意味では元親を方面軍司令官的に使おうという考えはなかったのでしょうか?


織田信孝・丹羽長秀の四国出兵があまりにもタイミングが良すぎる気がしてならないのですが。

A 回答 (6件)

信長は三男の神戸三七郎信孝に、讃岐国を与えようとしていた節があります。


信長の対毛利戦略は、中国方面の秀吉軍とは別に新たに神戸信孝率いる四国遠征軍を新設して第2戦線の構築を企図していた模様です。
肝心の信長自身はと言うと、渡海して淡路島に大本営を設置し、現地にてこの二個方面軍を自在に指揮するという壮大な構想があったようです。(本能寺の変により潰えてしまいましたが・・・)
ともかく、信長の戦略構想には長宗我部の入り込む余地は無かったのではないでしょうか?
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NO.5の続きです



(2)信孝の領国形成
織田信孝は二男信雄より早生まれにも関わらず庶子であったため低く置かれ
領地は北伊勢二郡のみで馬揃えでも叔父の信包や従兄弟の信澄と同格にされ信孝は不満でした
その焦りは神吉城攻めで足軽の中に混じり奮戦していることでもわかります
そんな信孝を見て信長も信孝に領国を作ろうとし
当初は筒井順慶の養子として大和国主にしようとしますが
原田直政の討死、松永の謀反と不吉な事の起こる大和国主を避け、四国に新たに領国を作ろうとし
信孝自身も再三再四、四国遠征の旗頭を志願していたのです

(3)光秀の再度の稲葉氏からの家臣引き抜きに対する信長の怒り

光秀は稲葉一鉄の家臣であった斎藤利三を無断で引き抜いました
天正十年に入り再び稲葉家の重臣であった那波直治を無断で引き抜こうとしたが
稲葉側に発覚、一鉄は激怒し信長に直訴
直属であり、昵懇でもある一鉄の気持ちをくんだ信長は光秀を呼び出し詰問
那波直治は稲葉に戻し、斎藤利三には死罪を言い渡しました

なぜ斎藤利三が死罪になるのか
それは斎藤利三は長宗我部との取次役であり
(1)の三好へのテコ入れ、(2)の信孝の四国での領国形成に邪魔以外の何物でもないからだと言われています

そしてこの斎藤利三の死罪を言い渡されたのが本能寺の変の4日前
面目を潰された光秀と利三は・・ということになるのです


長々と失礼致しました
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はじめまして



貴方のおっしゃるキーワードである
信長、光秀、長宗我部、信孝、斎藤利三を全て網羅し
信長の四国政策の転換を多くの史料を用い詳細に述べてあるちょうど良い良書があります

『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』 桐野作人著 PHP新書
桐野氏は作家ですが、歴史学者顔負けの膨大な史料分析を行う方で
谷口克広氏にも高く評価されており、この著書も綿密な史料分析されています
御一読あれ

要約すると(多少私感も入るかも知れません)

(1)秀吉の長宗我部と対立する三好への直接的テコ入れ
秀吉は対毛利水軍を組織したいがため是が非でも三好水軍とその拠点淡路が欲しかった
淡路制圧のために黒田、生駒、明石則実、仙石らそうそうたるメンバーと兵1万を投入

元々、信長は対毛利のため長宗我部の四国制圧を容認していたが
秀吉の水軍組織でその必要がなくなったため
信長は土佐と阿波半国安堵という妥協案を出したが拒否された

長くなるので続きは次レスで

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。桐野氏の著書は私も持っておりますが、桐野氏の考察は史料の誤読・曲解が多いので、いささか信頼性がなく思います。

補足日時:2010/04/28 12:51
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近攻遠交は外交の戦術でしょうし、今川との紛争時も武田との関係に努め、


武田との紛争になると考えれば、上杉を抱き込む。
毛利との争いは、当然それを牽制の意味で、四国の誰かと組む、お互い様。
領主同士の喧嘩もそうですし、下々の隣り合う地続きの村同士も必ず仲が悪く
(だいたいが水の事、山の伐採権利)ひとたび、出入りとなれば、反対側の村と誼しみ
付けていて、合力してもらい、対応する。
毛利の水軍を、本願寺との最終戦で打ちのめして、ほぼ見通しがついた頃ですから
四国の欲が深ければ、打つというのは、予定どおりでしょう。
北も東もOK、脅威はありませんしね。
後は屈服させた四国勢と毛利勢でもって、九州を打つ、
四国勢は結局、条件を飲むはずと考えていたのではないでしょうか。
織田信孝・丹羽長秀の四国出兵はその脅かしのためと、
瀬戸の四国側制海権の駄目押しのためでしょう。仮に元親が徹底抗戦に出ても
秀吉の軍で、2方面から行けばよいのと、元親に殺された伊予や瀬戸内の地侍たちも
合力するでしょうし、元親に勝ち目はほとんどないでしょう。
タイミングが良く見えたのは、信長の余裕なんでしょう。
もう、直接の武力は必要なく、
脅かしで十分なほどになっていたということではないでしょうか。
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補足説明として、



信長の軍事力に前期と後期で大きく異なる点があります。信長軍が海を渡ることが容易であったか、なかったかの差異です。大軍が海を渡るには輸送力を支える経済力が必要です。これが整うまで、四国を攻めることが出来なかった。だから、当初は元親を懐柔し、いつでも攻める状態を確保できてから、圧力をかけたのです。

これはフランス革命後のナポレオン軍がドーバー海峡を渡ることが出来ずに、英国を攻めることができなかったことと似ています。ナポレオンは海上輸送能力が不足していたので、ドーバー海峡に海底トンネルを作って軍を送り込むことを検討したとも言われています。
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 「四国出兵」の本質は、長曽我部とは違うところにあると考えます。



 軍事の基本は兵力集中で、二方面作戦の回避はセオリーです。

 織田信長は、その父の代か引き継いだ、尾張の水運をベースにした商業活動に政権の経済基盤を置いていて、楽市楽座や琵琶湖・淀川の水運を手に入れ政権の経済力を増していきます。
 本能寺の変の前日、信長は博多の商人を茶で接待していることからもわかるように、毛利を征服し、明→博多→瀬戸内海→大坂という商業的大儲けのできる航路の独占を、既定路線と考えていました。

 毛利氏の中国地方の覇権は、瀬戸内海上交通利権と日本海海上交通・石見銀山によって成り立っており、「経済力」を基盤にした織田政権と似た性格を持っています。
 自分の政権と同じような性格ですから、「経済力の根拠を奪われると、毛利は自壊する」と織田信長は自信を持って読んでいたでしょう。

 ですから、四国出兵は対毛利戦略=日本統一構想の一部と見てよいと思われます。同時に毛利と長曽我部と戦うというものではないでしょう。
 長曽我部が守りを堅くして土佐から進出することがなければ、信長としては十分満足だったと思われます。

 山陽筋で、織田本隊+羽柴秀吉部隊と毛利本隊+小早川+吉川がにらみ合っている間に、織田信孝・丹羽長秀に讃岐・伊予を占領させ、瀬戸内海の両岸から、小早川の水軍を押さえてしまわなければなりません。
 四国の陸上が、旗色のはっきりしない地元弱小領主による統治である限り、毛利水軍の活動は押さえられません。

 また、明智軍は「出雲・石見」を与えるという説の言うように、姫路から津山に抜けて、伯耆から出雲へ進軍し、石見銀山を手に入れる進路が濃厚です。

 兵力的に、毛利本隊+小早川+吉川の兵力で、織田本隊+羽柴秀吉隊を押さえるのがやっとですから、四国や山陰筋に増援を送るのは困難です。

 このような信長の対毛利戦勝利後の構想からすれば、四国の瀬戸内海筋は織田の直轄地以外考えられません。

 毛利を滅ぼすまでは、四国中心に考える元親を阿波の三好一族の力と拮抗させ、長曽我部を土佐一国に封印すれば、純粋に『毛利VS織田』というシンプルな、リスクの少ない戦いを展開できます。
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