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哲学よりボランティア

哲学は、何の役に立つのでしょう?
たとえば「自分と何か?」という問いに対し、深い認識を得たとしましょう。
しかし、それが、(社会の、)何の役に立つのでしょうか?

「哲学する時間があれば、ボランティアをせよ!」

そう言う人がいたとします。

あなたなら、何と答えますか?
 

A 回答 (40件中11~20件)

哲学なんて屁の役にも立ちやしません、実際。

でも、役に立つ立たないだけで何かが測られる社会というのは、どうも狭量でよろしくないとは思います。屁の役にも立たない酔狂なことを考えている人間がいたって別にいいし、その方が世の中面白いと僕は思っています。なので、一向に役には立ちませんが、悪さはしませんので、この世界に置いてやってください。お願いします。

質問の答えですが、「哲学する時間があれば、ボランティアせよ」と言われたら、自分にちゃんとその気がありさえすれば、ボランティアします。ただ、自由時間とか、暇の合間に哲学的なことについて考えてしまっているかもしれません。何をしていても考えずにはいられないという奇妙な人間が、世の中には一定数いるんだと思います。
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。

>哲学なんて屁の役にも立ちやしません

その、断定的な言い方には恐れ入ります。
さすがに、自分は、そこまで極端には考えていませんが・・・・・

>一向に役には立ちませんが、悪さはしませんので

これは、面白いので、話を深めたいのですが、今回のテーマから外れるので、あまり言及は避けたいと思います。
ただ、自分は悪さもすると思いますけどね・・・・
 

お礼日時:2010/05/25 10:42

No.何ぼかで答えた者です。


ダラダラと的を得ていない回答ではなく、
哲学意義を一発で射抜いた回答が欲しいみたいですね。

哲学の世界ってとても広いのです。
デカルトの「我思う故に我あり」は哲学で必要な観念のごく一部を表した物です。
これだけではあなただけではなく、私の人生にとっても必要ではありません。

私は哲学とは単純に「考え抜くこと」とか「判断に必要な力、又は材料」と思ってます。
私にとっては若い頃の「葛藤や悩み」を解決するための方法的手段の一つでした。

ではなぜ哲学を勉強するのか?
面白いからです。化学や数学が面白い人にとっては面白いですよね。
でも一般社会で働いている人にはほとんど関係ありません。
しかし、あなたが特定の分野で働き出した時、必ず起こる問題があると思います。
その問題を解決するにはダラダラと考えて悩むより、先人の知恵を借り、
技術的に解決できた方が楽だと思います。
その助けになるのが哲学です。

例えば、法哲学で考えた場合、
「船が転覆し、脱出ボートで6人の乗客が脱出できたが救出されるまでの間、
船長が、乗客が生き残ることができるように、一番弱い給仕の少年を殺害し、
その人肉を食べて生存した場合。私達が裁判員だったら、
彼らがしたことは道徳的に許容できると考えるだろうか?」
これは実際に起こった問題ですが、
単純に「人肉を食べることが悪い、だから全員死刑」とはならないですよね。
きちんと問題を整理して、事に及ばなければ、その生存者だけではなく、
今後、同様な事件も同様に解決されていきます。

こで、きちんと論点を整理するのが哲学だと思います。
あらたに一から考えても途方も無い時間をかけるより、
かつて同様に考えた人の意見を参考にすれば解決が早いと思います。
この場合はベンサムの「功利主義」を元に考えたら、
思考が整理がついて問題を自分なりに解決できると思います。

法哲学の観念について言いましたが、きっとあなたの身近にも
考えるべき問題があると思います。

ボランティア(奉仕)も必要ですが、
哲学も無駄とは言えません。

私が未熟なため
結局一発では射抜いた答えは出せませんでした。
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。

>哲学意義を一発で射抜いた回答が欲しいみたいですね。
そうですね。それが難しければ、それに係る回答でもうれしいでけどね・・・

>私にとっては若い頃の「葛藤や悩み」を解決するための方法的手段の一つでした。
その具体例を、書いて欲しかったですね。求めていた回答に近い物がそこにあるかも知れません。

船の遭難の件は、興味深いですね。
できれば、どういう判決がでたか、知りたいですね。
(実は、類似の問題で、頭を痛めて考えている所です。)

再度、書き込み頂くと嬉しいです。
 

お礼日時:2010/05/25 10:59

>私の言うボランティアとは、その人の意思とは、直接関係せず、「社会奉仕」のように、多くの人に認知される、社会や、他人の役に立つ行為を考えています。



おっとっとっと、ずっこけそうになりました。ボランティアとは「『社会奉仕』のように」、と言うことは、ボランティアとは社会奉仕のことではなくて、「社会奉仕のようなもの」なんですね。もしそうなら、私はこの言葉を完全に誤解していました。私はボランティアとは社会奉仕のことだと思っていたので、こんな誰にでも意味のわかる立派な日本語があるのに、何故わざわざボランティアなどと聞き慣れない人には訳のわからない言葉を使うのか常々不審に思っていたのですが、なるほど、ボランティアなる行為は日本語では表現しきれない概念だったので、あえてカタカタを使っていたのですか。それは、知りませんでした。でも、カタカナは音だけなので、もしそれが社会奉仕を表していないのでしたら、私にはボランティアが何のことだか全く分らなくなってしまいました。

>質問の趣旨は、「哲学」の意義、有用性を問うているのです。その対比として、ボランティアを持ち出しているわけで、ボランティアの意味を議論することは本意ではありません。哲学の、意義、有用性を語っていただきたいのが、目的です。

あらゆる学問を論じるときの大前提は、無駄な議論の混乱をさけるために、自分で使う言葉や表現や、あるいは論理に責任をもち、こちらの言いたいことを出来るだけ透明に相手に伝える努力をしなければならないという義務を互いに履行していると言う前提です。その義務を守って頂かなければ、意味のない遣り取りに時間を費やすことになり、相手の方に大変な迷惑がかかります。

自分から意見を求めておきながら、迷惑だったら意見を述べなければ良いと言うわけにはいきません。これが、学問の議論だったら、単に質問者が皆から相手にされなくなるだけで済みます。しかし例えば、これが法廷での議論だったら、「私は『哲学よりボランティアの方が役に立つか』と聞いたが、私ははじめからボランティアの意味を議論する気はなかったのだ」などと言い出したら、裁判では「この方は、前に言ったことを自分の都合しだいですぐ覆してしまう方か、または、ご自分で何を言ってるのか分っていないか、あるいは、ご自分で言いたいことを適切に表現する能力の無い方である。孰れにしても、この方の言うことを責任ある言述とするわけにはいかない。したがって、その言述を証拠として採用るのは不適切である」と判断されてしまいます。そのような判断を下されてしまったら、その後になって本人がどんなに筋の通った議論を仕始めた所で、裁判出席者の心象を翻すことは絶望的になってしまいます。まっ、ここは裁判の席ではありませんので、貴方の無責任な表現で貴方が牢屋に入れられてしまうわけではありませんが、しかし、質問をなされる時には、もう少し考えを巡らして、自分が今文章にしたものが、果たしてそれで自分の言いたかったことや聞きたかったことを相手に誤解無く伝わる表現になっているかどうかの添削をして、皆様の貴重な思考作業を混乱せないように、そして、無駄な遣り取りが起こらないような努力をして頂きたいです。

私の印象では、質問さんはもう一度、何を質問したかったのかを整理し直して質問を立て直した方が、質問者さんの意向に対しても、より生産な議論が期待出来るのではないかと思います。実際、質問者さんが「ボランティアの意味を議論することは本意ではありません」とお書きになった後でも、多くの回答者の方が、貴方の質問文をそのまま素直に解釈して、哲学とボランティアに関して大変な思考のエネルギーを使いながら、貴方に言わせると聞いてもいないはずのことを、好意的に答えようとしているようですから。

端から見ていて、回答者の皆様の好意が無駄になっているのだと質問者さんから言われるのは忍びないです。
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この回答へのお礼

 
アドバイス、ありがとうございます。
誤解を与えた部分に関しては、お詫びいたします。
ただ、これだけ、言えば、分かっていただけるものと考えます。

もう少し、続けさせて下さい。 
 

お礼日時:2010/05/27 09:19

 私なら



 「直接、物事の役に立つことはない。しかし、間接的に役に立つものである」

 と、答えたい。

 哲学はバックボーン。人間の背骨。

 辞書を引きました。

 ☆バックボーン=人の生き方・信条などを貫いてゆるがないもの。しん。
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。
答えは、誤っていないかもしれません。

しかし、自分は、この答えは「不十分」に感じるのです。

具体性が乏しい感じです。
背骨とは、思考のどの部分を指しているのか、とか
分かりやすく書いて頂くと嬉しいです。

哲学は、教育に必要だ。政治に必要だ。
このような、言葉をいろいろ聞きます。
しかし、哲学が、具体的に、どう関与しているかの、具体的な説明を聞いたことがありません。

その、ジレンマも、今回の問いの発端になっています。
 

お礼日時:2010/05/25 10:51

質問者さんがアメリカの”ボランティア”事情にお詳しいのは良く分かりました。


ただ、このサイトの利用者の多くはその事情に詳しくないのです。

哲学とボランティアを比較するのはもう止めにしませんか。

ボランティアの意味が違っているのであれば無意味ですよ。
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この回答へのお礼

 
哲学とボランティアの比較は、外していただいて結構です。

他の回答者様へのお礼を読んで頂くとわかると思いますが、

哲学の「意義」「有用性」
つまり、何の役に立つの?と聞いているわけです。

その面で、回答いただければ、嬉しいです。
 

お礼日時:2010/05/25 11:02

No.16の者である。



>哲学は、一般の人には必要ないとの回答と受け取っていいですか?
まあ、概ねそうなのだが・・・。
「一般の人」と言うよりは、「大部分の人」と言うべきだと思う。
一般の人でもいつ足を骨折するか分からないように、いつ哲学に興味が湧くようになるのか分からないのである(滅多にないことかもしれないが、そういう人を、このサイトを含めて度々見かけたことがある)。

先ほどは長々と駄文を綴ってしまい、質問者に読解の苦労を強いてしまったのであれば、申し訳なかった。
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なんでボランティアをしなければいけないんですか?って聞き返します




おそらく、すべての人間の共通の願いは「よく生きる」ということだと思います。
そこで「じゃあボランティアをやろう」、と思う前に「そもそも生きるとはなんだろう」と問うのが哲学です。

「生きる」ということが何なのかわからないのに、「よく生きる」がどういうことなのか知るのは不可能です。

それが社会の何の役に立つのか、と聞かれていますが、社会というのは一人一人の人間で構成されています。
一人一人が「よく生きる」ための答えを見つけることこそが、本当に役に立つことです。
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。
質問内容に、深くかかわる答えだと思いました。

>「生きる」ということが何なのかわからないのに、「よく生きる」がどういうことなのか知るのは不可能です。

それでは、「生きる」ということが何なのかわかるようになるのでしょうか?
一生それを「問い」、死ぬまで分からないことも多いのではないでしょうか?

それよりは、ボランティアをと、問うたらどういう答えになりますか?
 

お礼日時:2010/05/27 09:27

僕は、のべ8年にわたって海外でボランティアしており、そこで


得られた知見で、ここで回答しています(過去回答をご参照下さい)。
日本国内の完成度の高い社会システム、整った環境で、歯車として
働く分には、哲学はいりません。
そこで何のためかは知りませんが、ボランティアをするためには、
哲学が必要です。
それまで「哲学はいらないからボランティアをしろ」と言われたから
やるのでは、それはボランティア=自発性ではなりません。
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>哲学は、何の役に立つのでしょう?



少なくとも、深く考えることにとっては十分に「役に立つ」のではないでしょうか。

そもそも質問者さんが「哲学は、何の役に立つのでしょう?」と問うたとき、もしかして、「哲学」以外の諸学問は「何かの役に立っているにもかかわらず」とお考えになったのではないでしょうか。

確かに、医学が人間の生命を救うことに「役に立つ」のは確かですが、なら「人間の生命を救うことにどんな価値があるのか?」と問われたら、質問者さんは哲学的な思考によらずして、いかにしてこの問いに答えられるおつもりでしょうか?
それとも、「人間の生命の価値」は自明であり、こういう問いそのものが愚問だとおっしゃるおつもりでしょうか?

他のいわゆる応用系の学問分野にしても大同小異でして、いずれも「(この学問が)何の役に立つのでしょうか?」と考える前に、はじめからそれが「何の役に立つ」かの答えが出てしまっていると言えますよね。

>「哲学する時間があれば、ボランティアをせよ!」

質問者さんが「哲学」と「ボランティア」を比較し、《ボランティア>哲学》という不等式を立てられたようですが、この判断の根拠をご自分で十分に吟味し、十分に納得した上でこのように訴えられたのでしょうか?
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No.15です。

お返事ありがとうございます。

>存在意義は認めます。
>しかし、それが、過大に評価されているのではないか?
>という、疑問を感じています。

納得します。過大ということであれば、
かつては意味があったが、今は無くなってきつつあると考える人はいますよね。
サルトルで哲学は終わりました、という人もいます。

「それでも残っているのは、それまで作られてきた
哲学の学派がとても権力を持っているからだ。
だから、必要もないのに大学の学部として生き残っている」
と考える人もいます。もうちょっと考えて見ましょう。

>デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」と言いました。
>色々疑い尽くして、考えている自分は、存在が疑いえないと、結論を導き出したと言うわけ
>です。
>その、思考の努力は、大変なものだったでしょう。
>しかし、「我思う、ゆえに我あり」を結論を得て、何が変わるでしょうか?
>だれが、救われるでしょうか?

おそらく、この考え方によって、最も変化があった人たちは、
「キリスト教の、ヨーロッパ人の、貴族の、男性」でしょう。

なぜなら、この人たちは自分たちの世界観にどーっぷり漬かっていて、
そして、ある日、「あれ、俺たち、なんか変なこと考えてねえ?」と
疑問を持ち始めていたからです。

それまで、彼らには、ヨーロッパの貴族の男性の社会しか見えていなかったのです。
というか、そこに所属している人が人間で、それ以外は虫とか犬とかと同列だったのです。
イスラム教徒とか、黒人とか、農奴とか、女性とかが。

ところがどうもそうじゃないらしい。
自分の常識はおかしいらしい。

「ヤバい。俺たち間違ってるかも。じゃあ、答えは?」
という中から、デカルトやらカントやらニーチェやら、
他にもいくらでも、哲学者が出てきました。

「何もかも、俺たちは間違ってたかもしれない。
 でも間違ってない事もある。自分だ。考えてる自分がいる。
 これだけは間違ってない。ここからスタートしよう!」

こんな感じで、彼らは「感激」したんでしょう。
そして、新しい時代を作ろうとしたんでしょう。

キリスト教の、ヨーロッパの、貴族の、男性だけではない、
新しい世界観が出てきたわけです。

というわけで、意味があったような気がします。

さて、翻って我々ですが、私たちは(多分)
多神教の、東洋の、日本の、市民です。
いまいち感激しろって言われてもこまりますわな。

というわけで、デカルトやカントには古典の価値はありますが、
それが直接私たちの生活に響くことはあまりなさそうです。
でも、大きな影響を与えた人たちなんだから、
研究する価値は一応ありそうです。

現代の哲学は、デカルトたちからちょっと離れて、
クオリアのことを研究しています。
サルトルで終わったと言われていた哲学は、
このクオリアで再び存在意義を持ち、社会に影響を与え始めました。

わかりやすいところで「クオリア」「マリーの部屋」「中国語の部屋」
なんかを検索してみてはどうでしょう。

これらは哲学の成果から、心理学、大脳生理学、ロボット工学なんかに
大きな影響を与え、社会に役立っています。
難しいですけど、面白いですよ。

ボランティアももちろん素晴らしいことですが、
哲学を勉強するのも同じように素晴らしいことだと、私は考えます。
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