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部品交換を続けていくうちに、最初の部品が1つもなくなっていたら
カテゴリ違いでしたら、すみません。
自動車等の修理、人間の代謝、組織の人員交替どれでもそうですが
最初の状態と共通のものがなくなってしまったら
それは元のものと同一性?があると言えるのか
ずっと前から疑問に思っていました。

誕生の時と比較して共通した原子は一つもないかもしれないのに
自分を誕生の時と同じ名前で呼ぶことが適当なのか
校名までも変わってしまったようなチームが
「何十年ぶりの甲子園出場」と言われることに意味があるのか
上手く表現できてないですが、そんな辺りがモヤモヤしています。

「1分前,1秒前,…の自分とは何らかの連続性があるのだから
その連続性に於いて…」とか「野球チームにも伝統が…」みたいな
考えはあるのですが漠然としすぎていて、まとまりません。

哲学を学んだ経験は皆無ですので
わかりやすい用語でご教示ねがいます。

A 回答 (18件中11~18件)

>それは元のものと同一性?があると言えるのか



要素どうしの関係に注目すれば、同一性を維持していると言えると思います。
要素のみに注目すれば同一性はないと言えます。

ただし、「自動車」と述べているわけですから、それは部品で構造化されたものを指しますから、当然、要素(部品)どうしの関係を示すものなので同一性を維持していると言えると思います。

哲学的には、タイプとトークンの違いでしょうかね。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

例えば長期の自動車レースだとして
故障の度に材質や構造が違うけれど
互換性のあるものを交換したとします。

その自動車の部品がゴール時には
全て入れ替わったとしたら
その補修に使われた部品だけを使って
ゴール直前で自動車を組み立てたのと
何が違いますか?

漠然と違うのはわかるんですが
もし仮にその自動車が優勝して
自分が2位だったら、割り切れない気がします。

補足日時:2010/08/11 19:18
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>最初の状態と共通のものがなくなってしまったらそれは元のものと同一性があると言えるのか



今から2500年前にその疑問は解決されていました。

その教えによれば、同一性は無いのです。
この事を諸法無我と言います。

ゴータマ・シッダールタというインド人が哲学して三つの真理を発見しました。
すなわち、
1.諸行無常印(無常印)
2.諸法無我印(無我印)
3.涅槃寂静印(涅槃印)
です。

今回のご質問は、二番目の諸法無我といういう教えで回答されています。
質問者さんご自身が良くご理解されているように、自動車等の修理、人間の代謝、組織の人員交替など、万物は常に変化しており、常なるものは無いんです。これを諸行無常と言います。

諸行無常なのですから、当然に諸法無我です。

伝統だとか、文化だとかは一般に守る価値の有るものですが、それとて究極には「我」を主張していることになりますので、ゴータマ・シッダールタから見れば無意味なものだったのでしょうね。
したがって、彼自身は、この三つの真理を書き留めたり、布教することさえしなかった。
まわりの凡人たちが熱心に発言を書き留め、また布教につとめたので、現代にいたるまで仏教として2500年の長きにわたって多くの人の悩みを解決してきたのですね。

>誕生の時と比較して共通した原子は一つもないかもしれないのに自分を誕生の時と同じ名前で呼ぶことが適当なのか

適当ではありません。

名は体を表すという以上、そして体は諸行無常である以上、名前をどんどん替えたらよろしい。
芸能や相撲の世界では成長して一人前になった時点で襲名といって名前を替えるのです。
宮本村出身のタケゾウ君も、一人前になってから名前の読みをかえて宮本武蔵と名乗る様になりましたね。
やくざの親分だけじゃなくて、もっと多くの人が人生の変遷に合わせて名前を変えてゆけば良いのです。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

「同じ名前で呼ぶことが適当なのか」に関しても回答いただきましたが
「校名までも変わってしまったようなチーム」であっても
甲子園では「○年ぶり○回目の出場」と同一視していたり

歴史上の人物についても出生から描いていたり
連続性を踏まえて捉えようとする人は多いと思います。

補足日時:2010/08/11 19:26
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私は素人ですし別に新しいことも考えられませんが、同じということはどういうことかということだろうと思います。

生物のDNAでも分子は違いますから、同じというのは塩基配列のことで、分子のことではありません。人間の自我意識も同じではないでしょうか。あるいはホメオスタシスと言われているものでもやはり同じではないでしょうか。同じということを定義しようとしてもできないように思います。
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貴方の質問は抽象化能力とは何か問いと裏表の問題ですね。

この宇宙の中には同じことを繰り返すことは絶対に有りません。例えば科学が科学たる所以はその現象の再現性にある何んてまるっきり科学とは何かを判っていない人が言うようなことがありますが、その実験だって、やってり時間と場所が違います。だから再現出来る筈が無いのです。では何を再現しているのか。それを判断するのが抽象化と言うことです。ある現象の実験に関してそれを行う前に、その現象に付いて何が一義的に本質的であり、何が二義的なことでありと、その人の主観をもとに重要性に関する序列を付ける。別な言い方をすると、自分にとって重要であると思えない要素を意識的に捨て去って、それでも残っている性質についてそれが共通であるかないかを判断している訳です。この重要でない要素を捨て去る行為を抽象化と言うのです。

ところで適切な抽象化は誰にでも出来る訳ではありません。例えばここに3冊の本と3本のバナナが在ったとして、チンパンジーに何か共通な物は無いかと聞いてご覧なさい。
チンパンジーはきっと共通した物は何もないと言うかも知れませんよ。何故ならバナナは食べられるが、本は食べられないからだと言うと思います。このように、抽象化の能力には優劣が在るのです。

他の例では、例えば貴方を含めて貴方の周りに必ず一人か二人、何度も同じ失敗をする人がいると思います。その時その失敗をした人に向かって「お前は何でいつも同じ失敗ばかりやるのだ」と非難してご覧なさい。その人はきっと「いやこれとあれは同じじゃない。だってあれは夕方に起こったが、今回は朝に起こったじゃないか」とか何とか何か言い立てて言い訳をする筈です。その方は、一つ一つの経験を抽象化してその共通点を見付けると言う能力に欠けているので、経験から学ぶことが出来ないのです。

さて、いよいよ部品が全て入れ替わっても同じ物かどうかと言う問いに移りましょう。確かに部品はそれを成り立たせている物に関する一つの要素ですが、それで全てなのでしょうか。別な言い方をするとその部品と言う要素を全て取り除いてしまったら、最早何も残っていないのでしょうか。もしそう主張なされるのでしたら、貴方の抽象化の能力はそこまで止まりだと言うことですね。チンパンジーでなかったら、3冊の本と3本のバナナの間の各要素の物質的な色や形や味を取り去っても、まだ何か共通した物が残っていると言うことを見付け出すことが出来ますね。私達の存在は確かに物質で出来ていますが、貴方が貴方であるのは単に物質だけでは規定出来ない、物質を取り去って抽象化してもまだ残っているものがあるのではないですか。その抽象化を出来ない人にとっては、部品が全て入れ替わってしまえば最早同じ物では在りません。でもその抽象化を出来る人には物質全てが入れ替わっていてもやはり抽象化されたレベルで同じものがあると言っているのです。

上でも述べましたが、チンパンジーの例のように適切な抽象化は誰にでも出来るものでは在りません。ですから、もし貴方にとって部品が全て入れ替わったら最早自分ではないと考えるならそれはそれで一つの正解です。
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貴質問を読ませていただいて、福岡伸一氏が「動的平衡」ということを言っていたのを思い出しました。


私たちの体を含む生物は、食って、吸って、飲んで、その一方で排泄し、吐きしたりして自身の体の構成分子を常に新しいものにしている。実体としては、数ヶ月前の自分とはまったく別物になっているということは確かです。
分子は環境からやってきて一時淀みとしてのわれわれの体を構成し、再び環境へ戻っていく。同一性を保障しているのはその中で個々の細胞単位に受け継がれていく遺伝子だということですが、仰る法人、学校だって受け継いでいる「よき伝統」というものはあると思いますし、優秀な会社ホンダやソニーのDNA というものも確かに存在しているだろうと思います。ただそれはよほど強烈なものでなければ時間と環境の中で変化し、生物のDNA のようなしっかりした継続性はないのでしょうが、やはり伝統というものを守る意志がその主体にすこしでもあれば、たいていは有意で存在し続けるだろうと思います。

哲学にはなりませんでしたが、ご参考になれば。
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創業・・・年の会社はどうしますか?


受け継がれているのは、精神だけで中身は時代の要請で殆ど変わっています。
貴方が何十年も貧乏生活をしてきたある日BIGで数億円当たりました。
精神上も元とは同一性がなくなりますね?
所詮同一性とか統一性ってそんなものだと思っています。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
創業○○年の会社にもその疑問は成り立ちます。
会長や社長も交替して、精神すら変わっていたら…

甲子園が始まったので、その話題になってしまいますが
「古豪」「強豪」等の言葉に
どれほどの意味があるのかと思ってしまいます。

補足日時:2010/08/07 20:49
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私もうまく言えないんですが。



生命や歴史は絶えずうねりのなかにいるということでしょうか。
そこに便宜上、言葉で目印をつけて方向を定めているということ
なのかと。だから、それは案外思っている以上にあいまいで不確
かなものなのかと思うのですが、どうでしょう。

この回答への補足

ありがとうございます。

私がこの疑問を持ったのは
途中で修理可能なカーレースの時だったと思います。
そのレース自体は何らかの制限があったと思いますが
車の部品もドライバーも全て交換可能だったら…
と思ったのが最初だったと思います。

補足日時:2010/08/07 20:57
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sak_sak さん こんにちは^^


僕なりに思うところを書いてみますね。

そのようなことを御釈迦様が指摘しているのだと思います。

起こる性質のものごとは、瞬間変化生滅し続けている。【諸行無常】

感覚器官もその対象物質もそれらの触による認識も全ては常に変化している。「私」といっているものを構成する、システムも変化生滅するもの。ゆえに、固定した私などというものはなく、幻想に過ぎない【諸法無我】

私というシステムもそれ以外も変化するものゆえ(何かの現象を欲して(嫌って)も、次の瞬間欲し(嫌っ)た自分自体がもういないし、欲し(嫌っ)たものももうない・・・)本来価値をつけられるようなものはない【諸行苦】

にもかかわらず、認識の情報を「固定したもの」として捉えそれを「固定した私」が・・・観ている・感動させられたなどと感情に発展させていく。そうして心の憂いが生まれていく。この認識のバグを直し、無常・苦・無我を覚れば、憂いは現れることはない。【涅槃寂静】

仏教の大元といわれるパーリ語の仏典ファンなりの今のところの解釈です^^;

この錯覚を無くす為の条件をそろえる&現実と思惟の乖離を無くす&現実に苦しむ総量を減らすという道が【八正道】であると思います。

八正道の実践の中でも、慈悲の冥想やヴィパッサナー修習はお勧めですよ^^

何か思索の役に立てば幸いです。

~生きとしいけるものが幸せでありますように~

この回答への補足

回答ありがとうございます。

仏教建築の中には国宝がたくさんありますが
相次ぐ改修工事で当時のものがすっかり無くなってしまったら
その建築物には国宝として保存する価値があるのでしょうか?

どんなに時代の先端技術を使ったものとはいえ
当時の技術と全く同じではないわけですし
数百年くらい前には「当時と同じ技術を使う」という
発想が見られない改修工事も多々あるようです。

補足日時:2010/08/07 20:54
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