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1970年とはどんな年だったのでしょうか

A 回答 (10件)

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万博ですね。




三波春夫の

こんにちは こんにちは 西のくにから

こんにちは こんにちは 東のくにから

こんにちは こんにちは 世界のひとが

こんにちは こんにちは さくらの国で

1970年の こんにちは

こんにちは こんにちは 握手をしよう

という歌が流行りました。

月の石が飾られてそれをみるためにみんな何時間も並びました。

私は幼稚園児だったので親に手を引かれて並びました。
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一番の思い出は大阪万博に行ってきました。


1970年と聞くと、万博のテーマソングで歌われた、三波春男の「1970年よ、こんにちは・・・」という歌詞が浮かんできます。
この年から「タイムカプセル」が流行して、私も実家の庭に埋めたけど、2000年に掘り出す予定がすっかり失念し、家の改築でどうかなってしまった。
万年筆とか写真とか入れてあったが、たぶん腐ったんでしょう。

次に記憶にあるのが三島由紀夫の割腹自殺、テレビで見ていました。

ボーリングの中山律子さんも記憶にあり、パーフェクトの試合もうっすら記憶にあります。
当時はレーンを見つめるまなざしにそそられましたが、翌年あたりからシャンプーのCMにも出て、今のアイドル並みの人気でしたね。

この年からグループサウンズが急にはやらなくなり、年末にザ・タイガースも解散宣言、それ以前に他のバンドも消えていったので、時代の終焉は感じていました。
年末の紅白に和田アキ子が初出場、美空ひばりが司会をやっていました、酒を飲みながら見ていたので、最後は記憶にない。

TV番組で記憶があるのは「奥様は18歳」、主演の岡崎友紀はNHKドラマ「あね いもうと」のとし子のイメージが強かったので、ちょっと意外だったが、面白い番組だった。
夫役の石立鉄男のファンになり、後年大原麗子と競演した雑居時代(73年)まで見ていた、石立鉄男も大原麗子も亡くなりましたね。
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この年の出来事は年表を見ていただくとして、それ以外のことを…。



終戦から25年経ち、翌年ヒットした「戦争を知らない子供たち」という歌が発表された年でしたが、世の中では「戦争を体験した大人たち」が中核を占めていました。私は高校に入学した年でしたが、中学・高校には出征して実際に戦地で戦った経験がある年配の先生もいて、生々しい戦争体験を時おり聞かせてくれました。当時の先生の思想信条はもとより様々でしたが、「あのような悲惨な戦争は二度と繰り返してはならない」という一点だけは共通していたように思います。

なお、この2年前の1968年が明治百年に当たります。1970年には明治生まれの最後の世代はまだ60歳に達していませんでした。当時サラリーマンの定年は55歳のところが多かったのですが、佐藤総理大臣をはじめ政財界などの指導的な立場にある人はほとんど明治時代の生まれでした。ちなみにこの佐藤首相が初めての20世紀生まれ(1901年=明治34年)の日本の首相です。また後に「団塊の世代」と呼ばれる「第1次ベビーブーム世代」が20代前半で、社会人として活躍し始めていた年でもあります。

個人的な思い出としてはやはり大阪の万国博覧会です。私もその中の一人でしたが、炎天下でも大勢の人が何時間も行列して待ち、アメリカ館の月の石を見たことなど、大変なエネルギーを体感しました。
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1970年と言えば、まず思いつくのは『大阪万博』ですね。

初の月面着陸に成功したアポロ11号が持ち帰った「月の石」が展示された「アメリカ館」には連日とまではいかないまでも、長蛇の列が出来たと言います。その万博跡地も今は公園に整備され、その翌年から始まったヒーロー番組「仮面ライダー」では「死神カメレオン」との決戦の場ともなりました。何せその時のタイトルが「死神カメレオン 決斗!万博跡」。そのままやんけ、と今になって思いますが、平和の象徴である万博跡地で闘わせる事がすごい。また、万博に番組「スター千一夜」の中継で100回以上は行ったという「石坂浩二」さんの証言では、万博開催前に神主さんがお払いをしたと言っています。それ自体は別に不自然でも何でもないのですが、そのお払いの仕方が凄い!ヘリコプターに強度の強いワイヤーロープで縛り付けられた神主さんが宙吊りになりながら会場全体を「お払い」したというのですから、大胆と言うか無謀と言うか・・・。

『よど号ハイジャック事件』も起きましたね。一部の過激派学生中心による「革命」と言う名の「狂気」に満ちた行動が世を震え上がらせていた時代です。この2年後の1972年に「連合赤軍」による「あさま山荘占拠・攻防戦」が10日間に渡り行われ、坂口弘死刑囚を中心とした5名が逮捕されました。「よど号事件」は赤軍派の田宮高麿がリーダーのグループが、日航機「よど号」を占拠。「北朝鮮へ向かえ」と強要し、北に向かって飛ぶ「よど号」に対し韓国の「管制官」が機転を利かせ「金浦空港」を北の空港に見立て誘導させ、一旦は「金浦空港」に着陸します。時の運輸政務次官「山村新治郎」が「俺が人質になるから他の乗客を解放せよ」と田宮と交渉。山村政務次官は人質となり、乗客は解放され「男・山村」と言われました。その後、よど号は一路「北」へ。犯人グループはまんまと北へ亡命を果たしたわけです。今でも国際手配されてますから、帰国したら即逮捕されます。よど号事件は今でも続いているのです。

映画『アポロ13(サーティーン)』で話題になったアポロ13号が打ち上げられたのも、この年です。この映画は実話なんです。地上にいるNASAの関係者が必死にアポロを地球に帰還させようとした努力と、アポロの乗組員の強靭な意志は全世界を感動させ、3名の乗組員は無事帰還。NASAはこれを『偉大なる失敗』と称し(いかにもアメリカらしいフレーズ)、以後の教訓としたのです。

大相撲では「北の富士」と「玉の海」が初場所後に同時横綱昇進。「北玉時代」が幕を開けます。この年の優勝者は初場所「北の富士」、春場所「大鵬」、夏場所「北の富士」、名古屋場所「北の富士」、秋場所「玉の海」、九州場所「玉の海」となっており、まさに「北玉時代」でした。しかしその後、玉の海が肝不全による心臓発作で急死。享年27歳という若さでした。ライバル北の富士は玉の海の偉業をたたえ、本来なら雲竜型の土俵入りの型でしたが、1度だけ玉の海の不知火型の土俵入りを披露し、感動を呼びました。北の富士は巡業先で玉の海の急死を伝えられ、伝えた関係者によれば北の富士は「あの解説の玉の海さんか?」と聞き直したそうです。しかし「横綱玉の海」と聞かされしばし呆然自失したそうです。

プロ野球では巨人がロッテを破り6年連続日本一に。


総括すれば、赤軍派によるテロ行為や事件は多々ありましたが、比較的『平和な年』ではなかったかと思います。1970年(昭和45年)と聞いて何を思い浮かべるかと聞かれれば大多数の人が『大阪万博』を挙げるでしょう。怪獣ブームが起きたのは昭和46年からで、「帰ってきたウルトラマン」「ミラーマン」等多数のヒーローがブラウン管に登場し、子供達の心を捉えました(かく言う私もそう)。

1970年とはそんな年です。先程も書いた通り比較的「平和な年」と言えます。
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具体的な事実はすでに出ていますので、ご質問の趣旨を政治的なものと考えて、個人的な考えを述べます。



政治の世界で1970年と言えば、米国との安全保障条約(安保)の改定時期と言う事になるでしょう。

1960年に岸内閣によって安保が締結された時、戦後の再建の礎とされて来た理想的平和主義を覆すものとの論議が起き、国会の周りはデモ隊で包囲される様な大騒動がありました。
騒動の最中に女子学生が死亡するなどがあり、このデモは国民大半に心情的支持を受け、安保締結後に岸内閣は倒れました。
ある意味で戦後初めて国論が二分されたと言える事態で、その安保の改定期である1970年は、安保反対派にとっては次の決戦が行なわれる時期と位置付けられました。

1960年の安保騒動の車輪の一つだった学生運動は、日本にだけ発生したものではなく、その後のベトナム戦争や、各国の政治事情によって盛り上がっていき、韓国やインドネシアなどでは政権転覆、フランス等の先進国でも国政に変化を起こすほどの影響を与えました。

日本の学生運動はその世界情況の中で、1970年こそ自分達の出番と考えていましたが、別の理由から自然発生した日大・東大での学生運動の盛り上がりにより、その前に燃え上がって1969年には消えてしまう結果となりました。

1970年は大まかには「何事もなく安保が改定され」、年末にはまだ占領統治されていた沖縄コザで騒乱が起きて、沖縄返還に繋がっていきました。

そういった流れを今から見れば、1970年は日本の政治が戦後の混乱から落ち着いた年、逆の見方で言えば政治熱が冷めた年になりますかね。

当時の若者=団塊の世代は政治熱が冷めた後は経済熱に変わり、米国頼みの経済から米国にも対抗する経済国家を造る戦士となって行きましたが、その象徴として大阪万博が在ったとも言えます。

上海万博がその入場記録を国の威信を掛けて塗り替えるかもしれませんが、自発的参加で国民人口の約8割の入場者を記録したと言う熱気は、途轍もないものだったと言う事が出来るでしょう。
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 団塊の世代ですので、当時20歳前後でした。


 すでに、40年を経過していますので、18歳の時、20歳の時など自分の年齢による記憶はありますが、1970年という個人によらない記憶はほとんどありません。それは言い方が、昭和45年だとしても同じです。

 そういった少ない記憶の中で、その年は日付のある記憶が2日間だけあります。

 ひとつは、1970年7月7日、
 もう一つは、1970年11月25日 です。

 11月25日が、三島由紀夫の自決した日であることは知られていますが、7月7日は、あまり知られていません。

 その日は、同じ三島由紀夫が、「果たし得ていない約束—私の中の二十五年」というエッセイを、サンケイ新聞に寄せた日です。

 そのエッセイの末尾です。
『私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大國が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。』

 三島由紀夫について考える時、11月25日に配られた「檄文」よりも、読み返すことの多い文章です。

 太平洋戦争終了から25年を過ぎて、多くの社会機構で権力の中枢が世代交代をして、次の時代が始まった年、とでもいうのでしょうか。
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高度成長期の真っただ中ですかね。


私はまだ高校生から就職へと社会に出た頃です。

まだ一ドルが300円前後の頃でしたか。物は溢れお金を出せば何でも買える時代でしたし、懐は就職したてのころでも寂しさはありませんでした。
今の若者にはない暗いイメージはなく(若い方失礼!)当時の若者は外で青春していましたね。
もちろんパソコンも携帯もありませんし、それなりにコミュニケーションは取る方法は持っていましたから不便はありません。
それがかえっていまにはないフレンドリーになれたのも事実です。
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1970年2月11日国産おおすみ衛星が、東京大学、糸川英夫教授と学生チームが世界最低予算、世界最小ラムダ固体燃料ロケット、世界で初

めて誘導装置を搭載しないで、ソ連、米国、フランスのついで世界で4番目で自主開発技術ロケットで打ち上げを成功して日本の工業技術の高さをアピールしました、この年に開催された大阪万博では、ソ連は、有人宇宙船、人工衛星、惑星探査機など実物を展示して宇宙技術の高さをアピールして、アメリカも1969年7月20日、人類初の月面着陸したアポロ有人宇宙船、月から持ち帰った月の石ヲ展示して宇宙技術のアピールしました、大阪万博では日本は、サンヨー電器が開発した電動自転車をコンパニオンが会場内を走行したり、携帯電話の元祖、ハンディーフォーンを無料で貸し出して来客者に自宅への電話を体験させました、1970年はカラーテレビがほとんどの家庭に普及して、マイカーも日産のサニー、トヨタのカローラが大衆車として家庭に1台ずつ普及していた時代です、日本は経済成長のピークであり、日本製の半導体はトップシェアーで、日本は電子立国と呼ばれ、花形産業でした、自動車も価格が安く、燃費が良く、故障しない、排気ガスがきれいということで欧米で人気があり、自動車メーカーはホクホクの時代です、泥沼化するベトナム戦争で日本国内で反戦運動がおき、学生運動やデモがあり、豊かな日本、米ソ冷戦で、平和ボケ日本人へ対する警告だったかもしれません、沖縄がまだアメリカの占領地でパスポートがないといけない時代です、給料が上がるが物価も上がる時代です、大量生産大量消費でスーパーが各地にできて物が良く売れた時代です、自動車も車検が来る前に買い換えるという時代でした、交通事故の死者が1万人を越える交通戦争、公害問題も各地で裁判沙汰となり、繁栄と、暗い影が混在する時代でした、学生運動が活発化して、取締りが強化された時代です、
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