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桶狭間の戦いの大まかな流れを教えてください。

1000字以内でお願いします。

できれば、あまりにも細かくなりすぎないで頂きたいです。

細かな情景や細かな心理状況以外で、尚且つ今川氏と織田氏の桶狭間の戦いの前後を含む大体の流れはきっちり把握したいと思っています。


回答お待ちしております。

A 回答 (3件)

織田族、今川族の小競合いが本格的戦闘に発展



今川族の大将が、織田族の奇襲に遭って殺され、家来は四散

家来の一部が謀反して独立し、今川族は衰退した


簡潔♪
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なぜ


桶狭間の戦いが注目されるのか


古い日本人(の一部)は、正しいことは勝ち負けを全く無視してでも堅持する

と言う考え方を美しいとしていたので

大軍を少数で打ち破った、信長は英雄になりました(実際はそんな人物じゃないんだけどね)
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>桶狭間の戦いの大まかな流れを教えてください。

駿河、遠江、三河の太守であった今川治部大輔義元が、かねてより念願の上洛を実現させるべく、25,000の大軍に出動命令を出したのは、永禄3年(1560)5月1日のことであった。
5月10日の先陣に続いて、義元の率いる本陣も12日には駿河を発ち、藤枝を経て13日には掛川、16日には岡崎に到着した。
一方、織田方は、信秀の死後、その子上総介信長が後を継いだが、若干27歳であり、また、世間の風評として「うつけ者」と呼ばれていたので、義元は、簡単に尾張を攻略できると考えていた。
「義元上洛」の報せを受けた信長は、多数のスッパを雇い、今川軍の行動を逐一報告させていた。
今川軍の先方隊5,000、信長軍は総勢で3,000、ここで戦っては信長軍の損失は多大なものとなり、義元の本隊が国境に到着する以前に負け戦になってしまう。
だが、今川軍の動きを知るにつれて、今川軍の弱点が見つかった。
1.今川軍の先方隊は、5月14日赤坂から藤川へ進軍。15日には矢作(やはぎ)、池鯉鮒(ちりふ)に入ったが、本隊はまだ吉田であった。
2.さらに、今川軍の先方隊は16日には沓掛だが、本隊は岡崎。
3.先方隊17日には、早くも大高、鳴海に入るも、本隊が沓掛に入ったのは18日であった。
4.その上、先方隊は、砦の攻略ばかりを気にとられて敵の情報を得る活動は何もしていないらしい。
5.25,000の内の5,000は本隊とかなり離れている。
--これなら勝てるかも知れない--
信長は一瞬そう思った。だが、どこで仕掛けるか・・・。
信長の頭には尾張の領内の地図がめまぐるしく駆け巡った。
鎌倉往還を北上すると、低い丘がだらだらと続く不規則な台地に出る。鳴海丘陵である。
丘と丘の間には「窪」とか「狭間」と呼ばれる窪地が点在する。
丘陵地帯に入って間もなく間米(まごめ)で左に向かうと桶狭間村に出る。間米と桶狭間の間には「田楽狭間」と呼ばれる狭い道となる。いかなる大軍であっても、ここでは縦長に行動せざるを得ない。
--ここで勝負をするか・・・--
そして、スッパに指示を出した。
義元本隊が間米に入ったのは巳の刻(午前11時)頃であった。
近くの住職や神主たちが、手に手に祝いの酒や肴を持参して今川本隊に祝辞を述べた。信長の策略であった。
「ありがたく頂戴しておこう」
義元は輿の上から礼を述べた。
やがて、雲行きも悪くなり、義元本隊は桶狭間に着いた。
「雲行きが良くない。ここで一休みじゃ」
義元も輿から降りて、祝にもらった酒、肴での酒宴が始まった。
「今じゃ!」
信長が一声叫んで丘陵地から駒で一気に駆け下りた。
すっかり酒宴に溺れていた義元本隊は、全くの戦意喪失で手向かう者が一人もいない状態であった。
「義元の首、頂戴したり!」
信長の雄たけびだけが丘陵地に一際大きく響いた。
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