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淡路島の管理は、明治時代前までは、徳島藩に属しており、代々、稲田氏が管理していました。
しかし、明治時代になって廃藩置県が行われると、代々管理をしていた稲田氏が政府に不服を申し出たのですが、そのあとどうやって兵庫県に属するようになったのかがいまいちわからないのです。
詳しく分かる方、教えてください!困ってます!

A 回答 (2件)

淡路島(全島)が兵庫県に編入されるに至たるキッカケは


「庚午事変」だったかもしれませんね^^

「庚午事変」自体の解説などは、
「庚午事変の群像/徳島県立文書館」が詳しいかと思います。
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/tenjikai/8D …

なお上記から一部抜粋すると

…その他の処分について(国立公文書館所蔵)『公文録徳島騒擾始末』で見ると、
徳島藩領から稲田支配地を引き離すため稲田家は(明治3年)十月十五日正式に北海道移住が言い渡されている。
しかし、移住が終了するまでの期間、稲田家の領地を淡路島に集中させて兵庫県に編入することも同時に決めている。
…これらも換算され、明治四年四月になって、淡路津名郡四十三ヶ村計三万余石が兵庫県に編入された。
しかし、同年八月には廃藩置県が行われ、淡路の村々は再び全て徳島に県庁のある名東県に編入されることとなった。…

以上のとおり「庚午事変」の処分結果として、淡路北部が一時的(約半年間)に兵庫県に編入されたものの、
廃藩置県によって再び淡路島(全島)が四国側の名東県(阿波及び淡路全域)に編入された流れがありますから
淡路島(全島)が最終的(明治9年7月~)に兵庫県に編入された原因はどうやら他にあるようです。

当時の県域変遷については、兵庫県庁のWEBサイトに詳細があります。
http://web.pref.hyogo.jp/pa13/pa13_000000013.html

上記から一部抜粋すると

さらに、明治9年(1876)8月、飾磨県と豊岡・名東両県の一部が兵庫県に併合されて、ほぼ現在の県域が確定しました。
これ以後を第3次兵庫県といいます。
このような大きな県域になった理由については、次のようなことが言われています。
但馬の出身で、内務卿大久保利通のもとで地租改正に従事し、その後、県知事や内務省の局長などを歴任した櫻井努という人がいました。
櫻井は、府県統合に際し、大久保から豊岡県と鳥取県の統合に関して意見を求められたそうです。
櫻井は、「豊岡・鳥取両県は歴史的に関係が深いが、両県を往来する山間部の交通が不便です。
かといって兵庫県と統合すると、面積が大きすぎます。
豊岡県は、飾磨県と併合するのが良いと思います」と述べますが、
大久保から、「開港場である兵庫県の力を充実させるように考え直せ」と言われ、第3次兵庫県の原案を考え出しました。
大久保はこの案を「一府県の増減に過ぎぬが、人々が幸福になって、県庁ひとつを減らすことができるなら、一挙両得である」と賞賛したということです。

以上、どうやら時の内務卿大久保利通の一言が原因だとか?

『じぶん更新日記』のサイトにも以下のような事が…
http://www.geocities.jp/hasep1997/_9/04/12.htm

しかし、そのいっぽう、播磨・淡路・但馬など旧7国もの地域から構成される兵庫県では、
播磨地域(当時は「飾磨県」)などから強い要望があったにもかかわらず、
けっきょく分割・独立を果たすことはできなかった。
番組によればその理由は、
当時は、外貨を稼ぐという国策のため、但馬(合併前は「豊岡県」)の絹を神戸(合併前は「兵庫県」)の港から輸出する必要があった。
神戸の整備には、国ではなく県の予算を確保する必要があったが、豊岡県と兵庫県だけでは税収不足であった。
そこで広大な農業地域をもつ播磨や淡路を統合する必要があった。
ちなみに、明治13年の統計によれば、合併後の兵庫県の税収において播磨地域からの税収の割合は52%にものぼっていたという。
兵庫県の広域主義は大久保利通の力によるところが大きかった。

以上少しでもヒントになれば幸いです^^
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この回答へのお礼

とても詳しい回答をありがとうございます。

お礼日時:2011/03/02 12:32

「庚午事変(こうごじへん)別名稲田騒動(いなだそうどう)ともよばれる」


1870年に当時の徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、
家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。

「明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島本藩の家臣は士族とされたが、
陪臣(徳島本藩の家臣)である稲田氏の家臣は卒族とされた事に稲田氏の家臣は納得できず、
自分達の士族編入を徳島本藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや今度は洲本を中心に
淡路を徳島本藩から分藩独立させて稲田氏を藩主とする稲田藩(洲本藩)の設立を目指す
(そうすれば自分達は士族になる)ようになり、明治新政府にも独立を働きかけていくようになる。
稲田側は幕末時の活躍によりすぐ認められると思っていた。
稲田側こうした一連の行動に怒った本藩側の一部過激派藩士らが、
明治3年5月13日(1870年6月11日)、洲本城下の稲田家とその藩士らの屋敷を襲撃した。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9A%E5%8D%88% …

とあるように、本土(徳島)と島(淡路島)間の抜き差しならない
敵対関係がこの事件により表面化し、それを鎮静化する目的で
淡路島が兵庫県側にくみいれられた。ということではないでしょうか。
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この回答へのお礼

詳しくありがとうございます。ベストアンサーとあわせてまとめていきたいと思います。

お礼日時:2010/11/18 18:53

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