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例えばこの質問をするのは私で無くても、AさんでもBさんでもCさんでも出来ますよね。
何かを為すにしろ、それは誰かで代替することは出来ますよね。
私である必要性は無い。

すると、うまく言葉にしにくいですが、無価値とは言い切れませんが、虚無のようなもの
を感じます。

人間誰しも「私しか歩めない人生を」と考えると思います。
つまり価値があるような人生をです。もしくは誰かが為しえなかったことなどを為すといった。
しかし上で書いたように、誰かに置き換えることも出来ませんか?
すると「私しか歩めない人生」ではなくなります。普遍的(普通)になるといった感じです。

結論として、この人生を生きるのは別に私で無くてもいいはずです。
しかしです。
どういうわけかたまたま、私がこの人生を歩んでいます。
「この」私がこの人生を歩んでいる、必然性はなく偶然です。
実はこの偶然がすごいのではないでしょうか。
偶然の奇跡といったところでしょうか。
そう考えると、「この」私がこの人生を生きているのは、普遍でなくなり、1つの奇跡になるのでは
ないでしょうか。

質問の内容は
・表題の通り、この人生を生きていくのは私で無くてもいいですよね?
別に他の人でもいいはずです。
・ただ、「この」私がこの人生を生きていっているのは、実は他に変えようのない
ものではないのでは?
ということです。

まだまだ考えが足りないかもしれませんが、よろしくお願いします。

A 回答 (17件中1~10件)

形而上学の問いですね。

仰るとおり全ての考え方が肯定されるという視点にたつと仰るとおりで、自意識が必ずしも自己の認識を意味しないとも言えるので、他人が行っている可能性も否定できません。また他方の質問も同様で視点によっては肯定されますし、両者は両立することも見方によっては可能でしょう。
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>そう考えると、「この」私がこの人生を生きているのは、普遍でなくなり、1つの奇跡になるのでは


ないでしょうか。

全くおっしゃるとおりでしょう。

>表題の通り、この人生を生きていくのは私で無くてもいいですよね?
別に他の人でもいいはずです。

殆んどそのとおりです。

>ただ、「この」私がこの人生を生きていっているのは、実は他に変えようのない
ものではないのでは?
ということです。

これも殆んどそのとおり。

「殆んど」と注釈したのは、「私で無くてもいい」「他の人でもいい」「他に変えようのないものではない」と現在形で語っているからです。
「私で無くてもよかった」「他の人でもよかった」「他に変えようのないものではなかった」と過去形で捉えるべきでしょう。
それにも拘らず、現在、あなたは存在している。
だからこそ奇跡と呼べる、という理屈になるはずです。

ただ、奇跡の結果としての存在だからといって、特別な存在、ということにはつながりません。
なぜなら、存在しているものは全て奇跡なのですから、奇跡であるという理由だけで、存在自体が特別ということにはならないからです。
つまり、奇跡ではあるが特別ではない存在としての私が存在している、ということで、その事実は変えられません。
そのことに虚無を感じるのは感性が青いか豊かか、どちらかでしょう。

ご質問の骨子は、
>私である必要性は無い。
すると、うまく言葉にしにくいですが、無価値とは言い切れませんが、虚無のようなもの
を感じます。

という箇所だろうと思われますが、デカルトが「我思うゆえに我あり」という結論づけに至るまでの過程も似たようなものだったのかもしれません。
詳しいことは知りませんが、自分という存在の拠って立つところ、いわゆるアイデンティティを求める過程において、「私が、今このように思い悩んでいる、というその事実こそは、誰のものでもない、まさに私のものであり、それが私がまぎれもなく存在していることの証明だ」と考えたわけでしょう。
 
おそらくですが、dissapoint さんも、(大半の人間はそうですが)「何をしたいのか」がまだはっきりしていないために、自分の存在の基盤が不安定なように感じるのだろうという気がします。

  
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zakky74でございます。



>再びお答えします。

>>すると、見ている人、見ている存在の経験、見ている存在の認識によって同じりんごというのは1つたりともないという認識をdissapointさんはされているという事でございましょうか?

>はい、そうです。「りんご」という概念でくくって見ている人たちは話をしていると思います。
>机、日本、Aさんも同様です。Aさんという人なら分かりやすいですね。好意的に見てくれる人もいれば、生理的に嫌いだ、という人もいるでしょう。どちらか片一方はありえません。

>そして5年後もだと思います。5年もあれば認識もいくらか変わるでしょうし。

なるほどでございますね。

するとdissapointさんの認識から見ますと、例えば表題の質問を、Aさんがするのと、Bさんがするのと、Cさんがするのとでは、それは全く同じ質問ではありませんし、その質問を受け取った僕から見ても全く同じ質問ではないという事となるのでございましょう。

しかしそうだとしますと、表題にある「誰かで代替する事ができますよね?」ですとか「私でなくてもいい訳です」との判断が出ないのではないでしょうか?

この点、dissapointさんは如何お考えでございましょうか?
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もし、生存の単位が個体なら、個体間の競合が進化の実態であり、「自分でなくても誰でもいい(比較)」という考えも起きます。


しかし、社会生命(分業化&組織化)に於いては、全体が生存単位であり、組織化の発達=数が進化の実態であり、「誰でも同じ」だからといって、その人が減れば社会の力が弱まる、全ての個人の損失です。

そして、そうした社会生命としての自覚化(愛)に於ける、自己の身体を超えた意志こそが、死による肉体の消失を絶対的限界としない、無限の彼方、永遠の未来に於ける意志の達成=最大限の精神的充足を可能にするのです。
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 あなたでなくてはいけないのです。


 なぜなら、あなたが体験することによって、あなたの理解や意識があがるからです。経験によって成長し、あなたはあなた自身を体験してる事が大事な事です。
 この世界には多くの偶然があります。その偶然の中に、不思議な幸運やバチが見えますし、つまり利益や不利益など、偶然のように見えますが、深く多くのつながりを読み解くと、必然だとわかる事もあります。そのいろんな状態が入り混じって経験してることがあなた自身を生きるという事ではないでしょうか。

 もう少し広く見れば、植物と人間のように、相互に補完しあってるのが生命維持には必要だとわかります。 つまり植物がなくなれば酸素がなくなり、人間は死んでしまう。
 人は自分が1個の生命と見ますが、植物なしには生きられません。また水や光も必要です。
 それらを1つとして生命と見ると、あなたの存在は、あなたがわからなくても、他者の誰かを生かす補完作業をしてるはずです。植物が自分の酸素で、他の生命を生かしている事を知らないように、あなたもあなた自身の働きに気づいてないでしょうし、また周囲の存在があなたを生かすために補完作業をしてるとあなた自身わからないかもしれませんね。
 ですから、あなたが太陽だとして、あなたがいなくなれば、誰かの世界が闇になってしまうかもしれませんね。
 ほかの人はほかの人で、周囲に補完作業をしてるはずですから、変わりはいないのです。
 
 しかし、どんなに考えたとしても、あなたがほかの人と代われるかといえば、、現実には不可能な事ぐらいわかるでしょう。
 亡くなった両親の変わりは誰も出来ません。手伝ってくれるかもしれませんが、その本人とまったく同じに変わるという事は出来ないのはわかってるはずです。
 
 ですから、あなたがいるおかげで、恋愛して毎日いきいきと生きてる異性がどこかにいるかもしれません。あたたが知らずにどこかで補完作業をしてるのかもしれません。
 それを知ることが、尊厳を知る事です。人が大事という事を思い知らされます。
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もしヘレンケラーが私程度の知能しかなかったら、奇跡の人にはならなかったろうね。

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zakky74でございます。



>質問にお答えします。
>同じには見えないでしょう。それは人それぞれいろんな経験や認識の差異があるからです。私には「このりんご、おいしそう」と見えても、Aさんには「このりんご傷が多い。きっとまずいだろう」といったように捉えるからです。

質問にお応え頂きまして、ありがとうございます。

なるほどですね。

人それぞれ色んな経験や認識の差異があるのでしたら、確かに全く違うりんごに見えている訳でございましょう。すると、見ている人、見ている存在の経験、見ている存在の認識によって同じりんごというのは1つたりともないという認識をdissapointさんはされているという事でございましょうか?

そして、同様にして机、日本、Aさんなどにしましても、同じ机、同じ日本、同じAさんは、やはり人それぞれ色んな経験や認識の差異によって、1つたりともないという認識をdissapointさんはされているという事でございましょうか?

そして、dissapointさんご自身も、Aさんから見て、Bさんから見て、Cさんから見て、5年前のdissapointさんから見て、5年後のdissapointさんから見て、・・・同じに見える事は1つたりともないという認識をされているという事でございましょうか?

再度のご質問ですが、宜しくお願い致します。

この回答への補足

再びお答えします。

>すると、見ている人、見ている存在の経験、見ている存在の認識によって同じりんごというのは1つたりともないという認識をdissapointさんはされているという事でございましょうか?
はい、そうです。「りんご」という概念でくくって見ている人たちは話をしていると思います。

机、日本、Aさんも同様です。Aさんという人なら分かりやすいですね。好意的に見てくれる人もいれば、
生理的に嫌いだ、という人もいるでしょう。どちらか片一方はありえません。

そして5年後もだと思います。5年もあれば認識もいくらか変わるでしょうし。

補足日時:2011/01/21 15:08
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76億人の一人なので奇跡と思います。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

まるで天文学的な数字の確率ですね。ならば奇跡と同意義になると思います。

お礼日時:2011/02/01 22:53

もし貴方がお子様を残さなかったならば、貴方がいなくても世の中何も変わらないと言う可能性もあり得るでしょう。

ですが、貴方の子孫で何代か、あるいは数十代後の方が、人類史で決定的な事績をあげ、人間社会を一変させてしまう可能性も残されています。勿論その人は自分の祖先に貴方がいたと言うことことを探ることが出来なくなってしまっているかもしれません。しかし、それでもそんなことが起こったら、それは貴方でなくてはならなかったのです。だから別の他の人と言うわけには行きませんよ。また、たとえ貴方がお子さんを残さなくても、貴方の相方になって貰いたいと思っていた方が、貴方を意識的に避けたために他の方と一緒になったとして、その方の子孫の誰かが人類社会を一変させたとした場合にも、それは貴方が居たから起こったことです。他の方では駄目だったのです。また、貴方は子孫は残したとして、その子孫の方がお子様を残さなかったとした場合でも、その方がいた故に、その人を避けた人が人類社会に決定的な事績を残す子孫を残すことだってあり得ます。だから、その場合にも、他の方では駄目だったのです。

貴方の誤解は、貴方が自分だけか、あるいはほんの小さな人間集団の単位の中だけでで生きていると思っているところにあるようです。だから、貴方は人類の進歩に無関係だと思い込んでいる。しかしそれは間違いです。今の世界を形作って来たのは、この世に必ずしも名を残した人達ばかりではなく、数知れない名も無い人達も重要な役割を演じて来たのです。貴方は、貴方の文化と歴史の産物であり、その文化と歴史を次の世代に伝承して行くことに関して重要な役割を演じていることに気が付いていないと言う印象を得ました。
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#1



>しかし例えば仕事で事務的なことをしていたとして、それは別に私がやる必要はありませんよね。
>(決して私がしたくないとか、そういう意味ではありません)誰かにとって代われます。

客観と主観をきちんと分けて考えなくてはいけません。
おっしゃる通り、私の代わりに私の仕事をする人はいくらでもいます(客観的)
しかし、私にとって私の代わりはいないのです(主観的)
私が会社から給料をもらうためには私が働かなければなりません。
誰かが代わりに働いたとしても会社は私に給料を支払いません。
私が努力しなければ私には何の報酬も与えられません。
私が働かなければ私はホームレスになるでしょう。
そういう意味で私にとって私の代わりは居ないのです。


>すると、私しか出来ない!というものはなくて、別に私のすることは誰にでもとって代われると思いませんか?

それとこれは話が違うと思いますよ。
60億の人間の中で自分しかできないことはそうはないでしょう。
私は私のために仕事をするのです。
なぜならその報酬は私がもらえるからです。
べつに私しかできないからではありませんでしょう。
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