No.1
- 回答日時:
こんにちは。
江戸時代の生活を実際に見た訳ではありませんが、私の祖父母は父方が明治15年と19年、母方が明治12年と15年生まれですから、明治時代の写真を何枚か見てます。
母方の曾祖母は、会津戊辰戦争の様子を孫になる母に聞かせてたそうですから、間違いなく江戸時代生まれです。
当時の写真を見た限りでは、明治時代でも庶民は男女を問わず着物を着てましたから、寒い時期は「どてら」という綿を入れた上着を着物の上から羽織ってたはずです。
また、寒い時期の素足はなかったのではないでしょうか?
「足袋」は古くからありましたから、寒い時期は庶民の男でも足袋は履いてたと思います。
(母方の祖父は足袋の愛用者でした)
なお、私の父母は明治44年と大正9年生まれですが、私が子供時代の昭和30年頃までは、綿入れ(どてら)や足袋を厳寒期には利用してましたし、私自身も綿入れを羽織り足袋を履いて下駄履きで遊んだ記憶があります。
足袋の「鞐(こはぜ)」は子供には留め難かった記憶がありますが、この頃は「靴下足袋」と言って、親指だけが分かれるミトンの手袋の靴下バージョンがありましたから、下駄や草履が難なく履けました。
ちなみに、庶民の暖房器具は「火鉢」と「掘り炬燵」ぐらいでしたが、昔は便利な道具がなかったせいか、何事をするにも「身体を動かしてました」から寒さはさほど感じなかったと思います。
私も「子供は風の子」と言われて育った世代ですから、真冬は手の甲に皹(ひび・あかぎれ)を作りながらも元気に外遊びをしてましたから、寒さなんかは辛いとは思いませんでした。
従って、江戸時代の庶民も大差ない生活だったと思います。
ご回答ありがとうございます。私が小さいころ遊びに行った実家では、
堀炬燵と火鉢がまだ現役で使われていました。だだっぴろいところで
ふるえてあたっていたものです。
私たち家族は東京にでていて、コンクリの公団式住宅住まいであり、
灯油ストーブで暖をとり、こたつも電気ゴタツだったので、ひどく面白い
体験をした気がします。
どてらは使っていませんが、ちゃんちゃんこは手軽で温かいので、
今でも室内着で使っています。思えば子供のころは半ズボンで駆け回って
いたものですが、今は厚手のタイツに分厚いコートなしでは冬の寒空を
歩けない身になってしまいました。
No.2
- 回答日時:
いわゆる「綿入(わたいれ)」ですね。
江戸の頃は夏服~冬服という区別はありません。読んで字の如く、夏に着ていた着物に、寒くなってきたら裏打ちをして綿を入れて防寒着にします。後は基本、重ね着です。でも今みたいにセーターとか無いので、寒がりの人には厳しい時代だった様です?
この時代、衣料品は大変な貴重品で、季節毎に新品の着物を買える人はかなり裕福な大店(大商人)とか、侍なら大名クラスの人たちだけです。庶民は通常、結婚式でも無い限り古着を着ています。
男衆が素足なのは、特に江戸の町では“粋(いき)”である事が何よりも重視されていましたので。寒いからと言って足袋を履く様では粋では無いと考えていたからです。この辺の描写は『好色一代男』に詳しく書かれています。イケメンのファッションは各在るべしと色々書かれています。
ただし江戸時代は特に流行廃りが激しい時代だったので、男でも足袋を履いた方がイケてるとされた時代もありました。また上方(関西)と江戸(関東)では全くと言って良いほど風俗が異なっていました。
またこれも重要な要素ですが、江戸時代は武士も含めて個人の自由に好きな服装を着る事は法律で禁じられています(表向きは贅沢を禁止するという名目で何度も倹約令が出されています)。なのでその人がどの様な職業階層に属しているかという事も、服装には非常に影響します。
当時は今のような毛糸のセーターやメリヤスの肌着などないわけですから、
冬は寒かったでしょうね。中国(当時はもう清ですね)やモンゴルでは、
ズボンに筒袖で厳冬期対策をほどこしていたわけですから、服装が
もう少し自由化されていれば、江戸時代の庶民の服装も個性豊かなものに
なったかもしれませんね。
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
1。
足: 足袋(たび)を履きました。素足は一種のファッションステイトメントで、「ださい」か「あったかい」かで粋な江戸の若い衆は、迷ったことでしょう。2。 体: 一重(ひとえ)物ではなく、裏地のある袷(あわせ)を着、上に綿入れの着物を着る。綿は植物性の棉より、蚕の繭を引き伸ばして作った真綿が、温かかったようです。
3。 外出着: 長めの外套のようなもの、雪の日は傘に合羽、高下駄を履き、前の部分に足袋が濡れないよう「爪革」(つまかわ)をつけた。
4、暖房: 町の屋内は、火鉢、餅を焼いたところ。農家では囲炉裏。
社会階級で、衣服にも違いがあったと思われますが、下の「江戸百景」に描かれた安藤広重の愛宕下藪小路の一部で、通行人の様子が分かります。
No.4
- 回答日時:
皆様の仰っていることは、江戸時代後期から晩期の話ですね。
現代人が持つ江戸時代の社会・風俗のイメージは主にTV時代劇により形成されたものでしょう。TVで描かれる江戸時代は、19世紀を舞台にしていますね。文化;文政~幕末辺り。17世紀末~18世紀初頭が舞台であるはずの『水戸黄門』でさえそう。
木綿の国内生産が本格化したのは17世紀中盤以降でしょうし、絹の生産も古代より始まっていましたが、微々たる物。両方とも江戸期前半は輸入に頼っていました。庶民には手の出ない高価な代物。とすれば、後は麻しかないですね。衣類や寝具を麻だけで冬をしのぐのは過酷だったでしょうね。重ね着で対処したとしか考えられません。
No.5
- 回答日時:
#3です。
忘れ物です。広重の絵の右端の人が着ているのは「蓑」(みの)です。江戸城を造ったと言われる太田道灌と、「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞかなしき」との関連は、下記にもありますが
http://homepage3.nifty.com/youzantei/mitisirube/ …
話の真偽は兎も角、武士が雨や雪の日に着たものも「みの」と呼ばれたのは想像が付きます。
なお頭につける笠(かさ)と、手に持つ傘(かさ)の両方が描かれていますが、両手を使う(武士や職人)は前者、ただ歩いている人は後者、だと思います。
No.6
- 回答日時:
日本における養蚕は紀元前200年、弥生時代にさかのぼります。
http://www.silk.or.jp/kaiko/kaiko_yousan.html
下記では、室町時代に木綿が栽培されるようになる前は「わた」と言えば真綿をさした、とあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%B6%BF
江戸時代は貨幣経済は一部の都市に限られ、まだ物々交換が大きな割合を占め、庶民の手で高価な絹織物を買うことはありませんでしたが、物々交換で冬温かい真綿の綿入れが広く使われていたことは、下記の丹前やどてらの歴史でも分かります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E5%89%8D
ご丁寧なご回答ありがとうございます。
私の両親の実家は養蚕で有名な群馬県で、時期になると
独特の繭を煮詰めるにおいが立ち込めたものでした。
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