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加羅は5世紀ごろ当時の日本(大和政権)が
朝鮮半島に有していた支配地域(勢力範囲)と認識しています。
高校時代の日本史の教科書でもそのように習いました。

確か任那とも呼ばれてたと思います。

先日、韓国の方とその件で意見の違いがありました。
その方がおっしゃるには

「加羅などない。そんなものは日本に来てから初めて知った、日本の教科書は間違っている」

言い返そうかと思いましたが

彼女と私の言い分は結局

・自国の教育で習った
・自国の教科書に書いてあってそれを信頼している

それだけが根拠なのです。そこで加羅の存在について教えてください。


1.存在していたが、実態はよく解らない
2.存在していて「日本の支配が及んでいた」といえるほど深いつながりを持っていた
3.存在していたが、日本とはほとんど関わりがなかった
4.そもそも存在しなかった

いろいろ考えてみましたが、どうなのでしょうか?

A 回答 (9件)

実は日本の教科書の記述も昔と今とではかなり変化しています。

同じ山川出版社の高校の日本史教科書でも以下のように違います。

私が使った40年前の教科書:大和朝廷は4世紀後半になると、倭人が古くから関心をもっていた南朝鮮の鉄資源の確保などの必要から、百済と結んで大軍を朝鮮におくった。その結果、半島南端の弁韓諸国の地に領土の任那を樹立し、高句麗とも対立するようになった。(『精選日本史(改定版)』18頁 昭和47年3月発行)

子どもが使った最近の教科書:さらに4世紀後半に高句麗が南下策を進めると、朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために、はやくからかつての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)<注>と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)も、高句麗と争うことになった。

注:馬韓諸国では百済が、辰韓諸国では新羅が台頭したのに対し、弁韓とよばれた朝鮮半島南部の地域では4~6世紀になっても小国の分立状態が続いた。『日本書紀』では伽耶諸国を「任那(みまな)」とよんでいる。(『詳説日本史』22頁 2007年3月発行 2002年4月文部科学省検定済)

ご質問に即して申し上げますと、私が高校生だった40年前の試験問題であれば(2.)が正解となるでしょう。40年前の教科書には「領土の任那を樹立し」と明確に書かれていますから。ただし、今の日本の古代史研究者で4世紀後半の朝鮮半島南部について「任那という日本の領土が存在した」と書いてもよいと考える人はあまりいない、というより、多くの研究者はこの時代のこの地域に「日本の領土」という表現(概念)を用いること自体が不適切だと考えるのではないでしょうか。

さてそれでは、現在の考え方ではどうかといえば、「最近の教科書」の注にあるように、弁韓とよばれた朝鮮半島南部の地域では4~6世紀になっても小国の分立状態(「伽耶」諸国)が続いていた、ということと、この伽耶諸国を後の時代に編纂された『日本書紀』では「任那」とよんでいる、という2点はまず確実だと考えます。

しかしこの伽耶諸国の実態と倭国(ヤマト政権)との関係がどうであったか、というもっとも知りたい肝心な点は、ご指摘のとおり限られた史料しかないため詳しくは分かりません。ただ倭国(ヤマト政権)が伽耶諸国を恒常的に支配していたという証拠を示すことは困難でしょう。(「最近の教科書」でも「密接な関係」としか言っていません)そこで強いて選べば(1.)でしょう。

いずれにせよ古代史のこの部分は、近代の日本と朝鮮との関係とも関わり、日本でも韓国でも政治的には微妙な問題であることには十分留意する必要があると思います。(もちろんだからといって政治的な配慮で歴史学上の誠実さを損なうようなことがあってはならないと考えます。)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

参考になりました。

お礼日時:2012/04/24 16:30

>princelilac 回答日時:2012/04/15 07:34 1を支持します。


>大前提として、古代史を研究する際には、「古文書や碑文に書かれていることを100%の事実と考えてはいけない」ということです。歴史は時の為政者、権力者が自分の威光を示し、統治の正当性を広めるために捏造されているとの考えから出発しないといけません。

捏造する意図は?
そもそもどういう意図で捏造する必要があったのでしょうか?

日本、中国、そして朝鮮にある碑文、全て整合性が取れているから信じられているのだと思います。




>当時の日本はまだ小国が乱立しているような状態だったと言われています。国内の統一もままならない時期に、半島に出向いて、たとえ小国であろうと、他国を支配できるでしょうか?「交流があった」程度だと思います。加羅を支配していたとなると、当時の政権の威光が示せるというのが、日本側の歴史です。一方半島には、自国の王が敵を撃退したという歴史を書くことができます。


朝鮮南部は他国でしょうか?
古来より倭人の勢力圏内と見るほうが自然では?
小国が乱立とは具体的にどういう国が乱立していたのでしょうか?

日本の東北地方のほうが、その当時は他国では?
現在の国家の枠組みで考えるのはいかがなものか。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

本当に難しいと感じています。

やはり古代のことは
文献と史跡から見える部分の整合性で考えるべきですね。

お礼日時:2012/04/19 16:44

1を支持します。


 大前提として、古代史を研究する際には、「古文書や碑文に書かれていることを100%の事実と考えてはいけない」ということです。歴史は時の為政者、権力者が自分の威光を示し、統治の正当性を広めるために捏造されているとの考えから出発しないといけません。今でもシナやコリアでは史実を意図的に歪曲させて、他国に金品を要求するような「歴史」を作り続けています。現代の世の中でさえこんなことが起こるのですから、1500年以上も前のことを書いた文書を鵜呑みにしてはいけません。
 当時の日本はまだ小国が乱立しているような状態だったと言われています。国内の統一もままならない時期に、半島に出向いて、たとえ小国であろうと、他国を支配できるでしょうか?「交流があった」程度だと思います。加羅を支配していたとなると、当時の政権の威光が示せるというのが、日本側の歴史です。一方半島には、自国の王が敵を撃退したという歴史を書くことができます。
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横ですが



>しかし、それでは辻褄の合わないことが発生すると思います。

>たとえば、考古学調査の中で「加羅」の存在を示す木簡が出てきたら韓国は
>どうするのでしょうか?

焼きすてるんじゃないでしょうか?
実際貴重な文献が焼かれたり破壊されたり、墨で黒く塗られたりしていますし・・・。



>また、地域の歴史を研究したり教えたりする際に、
>加羅がなかったとしたらその部分はどのように教えるのでしょうか?

何も教えないのでは?
百済、新羅の支配地域とするのではないでしょうか。



さて本題ですが他の方も書かれているとおり、「好太王碑」を見れば(2)が肯定されますね

ウィキより。
そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた[5]。



これを見ると、任那・加羅が倭の策源地となっているのがわかりますし、百済は倭の属国のような形になり、百済も倭に侵食されているのがわかります。
そして、その強大な倭の軍を高句麗王の好太王が撃破したということがわかります。

これを裏付ける資料が、中国の正史や日本書紀に記述されているため、日中では通説となっていますが、
韓国では、高句麗が海を渡って倭に攻め込んで、倭を撃破したことになっています。

意味がわかりませんよねw
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この回答へのお礼

>韓国では、高句麗が海を渡って倭に攻め込んで、倭を撃破したことになっています。

争点になる部分を「教えない」(敢えて触れない)までは
対応としてはありかもしれません。

しかし、ないものをあるかのように教えるのはダメだと思います。

お礼日時:2012/04/19 16:40

 加羅でなく、伽耶という名称で韓国の高校の歴史の教科書にも載ってますよ。


 伽耶(かや、 カヤ)という名前でおっしゃってみたら如何でしょう。
 カヤでわからなかったら、歴史の教科書をちゃんと読まなかった人ですね。

 ちょっと前の教科書ですが。

 古代社会の発展
   2、三国の成立と発展
     (1)三国の成立
        六伽耶

 と、ちゃんと「六伽耶」という項目が1つ作ってあって記述があります。

 「早くから青銅器文化が発達していたナクトン江の下流地方には、鉄器時代になってから六伽耶が成立した。高霊(コリョン、地名)の大伽耶と金海(キメ、地名)の金官伽耶が主勢力であった伽耶の勢力は、楽浪、日本(※ 倭 でなく、 日本 と書いてある)と頻繁に交流した。・・・・・・・」

 『日本書紀』を見ると、伽耶、加羅がたいへんよく出て来ます。1度、ちょうどこの時代が書かれてるところの現代日本語訳をお手に取られるとおもしろいですよ。図書館にあると思います。文庫本タイプのもあるので電車の中でも持ちやすいです。
 日本が作った資料とは言え、朝鮮半島に古い資料が無いので貴重な資料です。

 また、韓国人はナショナリズムを掲げるのが何よりも美徳とされる国ですので(日本と正反対の価値観です)、何でもナショナリズムに合致するように合致するように考え、主張します。思考自体がそうなってます。
 韓国人の考えでは邪馬台国も朝鮮半島の国の支配下に位置していた国だそうです。
 根拠は?  ありません。「そうだったらいいなぁ。」という想像です。

 数年前に韓国の有名な小説家が釜山日報に『大伽耶帝国』という連載小説を書きました。
 伽耶は「帝国」じゃありませんでした。小国の連合体で、統一した一人の王がいる王国ですらありませんでした。しかし、「帝国」という皇帝がいた立派な国家で、倭などを支配していたかのように書き、韓国人を喜ばせました。
 こういう大創作歴史小説が韓国人には受け、すぐにドラマ化だ、映画化だの話が出ます。

 昨年、邪馬台国の王女を百済の王子が娶(めと)り、野蛮国だった倭を文明化してあげるという内容の歴史ドラマが国営KBSで放送されました。これは何と日本にも輸出され、BSの民放いくつかで繰り返し放送されています。これを真実だと信じる視聴者によるQが当gooのQ&Aサイトにも寄せられています。みなさん、信じやすいこと。


 前方後円墳が韓国南部でも見つかっていることは、最近は多くの人が知ることとなりました。
 埋葬方式というのは、最も変わりにくい文化の一つです。それが韓国南部地域で見つかっていることからも日本と共通の文化があったことは明らかです。

 また、好太王碑や『日本書紀』の記述からも、朝鮮半島南部に倭の何らかの軍事的政治的拠点があったことは認められています。


 1と2の両方でしょう。
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この回答へのお礼

>前方後円墳が韓国南部でも見つかっていることは、最近は多くの人が知ることとなりました。
>埋葬方式というのは、最も変わりにくい文化の一つです。それが韓国南部地域で見つかっていることか>らも日本と共通の文化があったことは明らかです。


日本とのつながりを示すものですね。

どんな形にしろ加羅などなかったという話しにはならないとおもいました。

お礼日時:2012/04/24 16:29

1.が近いと思います。



まず知っていただきたいのは、5世紀では日本も朝鮮もまだ国といえる実態など無かったということです。現代人は何でも現代基準で歴史を認識しようとするから話がめちゃくちゃになってしまう。
その時点では、日本も朝鮮も国境も領土も主権も法制度も何一つ確立されていません。誰の領地をどう呼ぶかだけの違いしかありません。領民には民族意識も国民意識も全然育っていません。

例えば、15世紀の樺太アイヌの酋長が松前氏に服属しましたが、それが江戸時代の松前藩の統治につながっています。樺太アイヌの酋長にすれば、同じ樺太でウィルタやニブフなどの北方少数民族とトラブることがありましたから、和人を味方につけておきたいという判断があったのかも知れません。松前氏は北海道南部の松前地方に本拠を置いていましたが、代官を樺太に派遣して樺太南部も統治していました。

樺太アイヌは狩猟採集民族だったので、ついに国を作るところまでは至らなかった。狩猟採集民族は人口が少なく支配階級を養う生産力もなく、また文字も持たず、官僚機構を持ち得ないからです。狩猟採集民族は民の間でトラブルが起きても酋長が「ワシの顔に免じて、勘弁してやってくれ」で全て丸く収まってしまう。だから国を持つ必要がない。ところが農耕民族はそうはいかない。土地や水利権を巡るトラブルは生存権にかかわる命懸けの抗争となります。それは酋長の口先介入では収まらない。
農耕民族で豪族が成長するのは、そうして複雑に利害が対立するからです。そうしたトラブルを未然に避ける為に主従関係が生まれて、組織化されていきます。

西洋にも眼を向けましょう。中世イングランドにノルマン朝時代がありました。元々はフランス沿岸を荒らしまわったバイキングが、フランク王国の王族から、領地をやるから、これ以上沿岸を荒らさないでくれと領地を得たことから始まっています。それがノルマンジー地方。いまではフランスの一部です。ところがフランスの領地だけでは飽き足らずに、イングランドに侵攻してイングランドも領地にしてしまった。それがノルマン朝です。ノルマン朝は百年戦争でフランスの領地を失い、イングランドの経営に専念することになる。それが現代のイギリスとフランスの国境となり、百年戦争がイギリスとフランスの民族意識の醸成にもつながっています。

樺太もイングランドも比較的時代が新しいから、文献史料も残されていて、そうした歴史がわかります。

ところが5世紀の朝鮮半島には、ほとんど文献資料と呼べるものが存在しない。とはいえ、広開土王碑文などによって伽羅の存在は疑う余地はありません。そういう名前が存在したことは新羅や百済と区別する必要があったからです。ただどういう実態かまでは明白ではないのです。

現代の韓国人は偏狭な民族意識を鼓舞する為の国定教科書に洗脳されていますから、そうした歴史を客観的に見ることはできないのでしょう。そういう人と論争するのは時間の無駄で建設的な意味は全くない。

ではフランス人はノルマンジー地方の歴史を封殺しているだろうか。もちろん、そんなことはない。

念のため、付け加えれば、歴史は教科書で学べるものではない。学校の授業は、猿の脳みそのレベルに合わせた程度のしろものに過ぎません。現代人は余りにも馬鹿すぎるので正直疲れます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>ところが5世紀の朝鮮半島には、ほとんど文献資料と呼べるものが存在しない。とはいえ、広開土王碑>文などによって伽羅の存在は疑う余地はありません。そういう名前が存在したことは新羅や百済と区別>する必要があったからです。ただどういう実態かまでは明白ではないのです。


領土という概念は現代のものだと思います。
また行政区分や統治機構があった訳でもないので、加羅が日本の支配地域だったというのは
言いすぎかもしれないとは思います。

ただ、実情はともかくそのよう地域があったということは
消し去ってはならないと思っています。

お礼日時:2012/04/13 16:04

>そこで加羅の存在について教えてください。



高句麗の広開土王碑文にも、存在が書かれていますね。
中国の古文書にも、記載があります。
ところが、韓国の学会では「どちらも否定」しているようです。
「広開土王碑文は、朝鮮を日本が支配した時に改ざんした」との事。
国定教科書を読むと分かりますが、多くがフィクションですよ。
1980年代のUCLAでも、面白い話が伝わっています。
韓国の留学生が「私の習った歴史と異なる」と、教授に反論。
教授は「フィクションには、興味が無い」と回答。
蒙古襲来も、実は「高麗の忠烈王が、元世祖に日本侵略を進言」しています。
「軍船・食料は、高麗が準備する。先陣もたまわる」とね。(高麗史)
が、国定教科書では「元が、高麗に命令した」と180度異なって教えています。
たった、3行程の記述しかありません。
(秀吉の朝鮮出兵は、数十ページにも及んで記載があります)
1895年の中国からの独立も、何ら記載がありません。史上初の独立国家誕生なんですがね。
日清戦争後の下関条約第1条「清国は、朝鮮の独立を承認する」
まぁ、韓国は「自国に都合が悪い歴史は、意図的に消す」政策があります。
日本海名称も、1600年頃には既に定着していた名称ですよね。
が、「軍国主義の日本が、朝鮮支配時に東海から日本海に名前を変えた!」と歴史でも教えていますよ。
※貼付画像は、1600年年代前後でキリスト教宣教師が布教に用いていた中国製の地図。
※朝鮮半島も、中国の支配下にあると書いています。
質問者さまが会った韓国人も、誤った歴史を学んだに過ぎません。
韓国では、中国と同じで反日以外に教育・思想・言論の自由はありません。
(韓国内で、親日と看做されると子々孫々まで不利益を受けますよ)
BoAにしても、日本への出稼ぎが終われば「反日活動団体会員として、毎年5000万を寄付している」事で有名です。
私が買ったBoAのCD代金の一部が、日章旗を燃やす時のライター代になっているかも?
(献金功績が認められて、今では名誉会員です)
東方神起も、BoAと同じ反日活動団体の重要メンバーですよね。せっせと、寄付を行なっているのでしようか?
韓国に住む韓国人も(一部を除く)在日韓国人も、基本的考えは同じです。
質問者さまも、その韓国人も自分の考えを信じれば良いのです。
「加羅(伽耶)について」の回答画像3
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この回答へのお礼

結局「日本が嫌い」「日本を認めたくない」という意識から
「加羅」存在が韓国の教科書から消えてしまったのでしょう。

加羅など日本の影響力のあった(または、その可能性のある)
地域が朝鮮半島に存在していたとを認めたくないから消したということでしょうか。


>韓国は「自国に都合が悪い歴史は、意図的に消す」政策


しかし、それでは辻褄の合わないことが発生すると思います。

たとえば、考古学調査の中で「加羅」の存在を示す木簡が出てきたら韓国は
どうするのでしょうか?

また、地域の歴史を研究したり教えたりする際に、
加羅がなかったとしたらその部分はどのように教えるのでしょうか?

全くフィクションになるか話題に触れないかしかないと思いますが。


学問としての歴史は感情的な問題はさておき
真実の追究にこそ価値があるはずです。

このようなことを続ければ、真実の継承が失われてしまうことにもなりかねません。
韓国はその喪失を恐れないのでしょうか?
(それとも国民教育向け歴史とは別に、学問的真実はこっそり研究・保存されているのでしょうか?)


いずれにしても、韓国の知り合いとはもうこの話題はしないことにしました。

お礼日時:2012/04/13 15:04

日本がどの程度関わっていたかまでははっきりわかりませんが、存在したことは間違いないと思います。



単にその韓国の方の勉強不足なのではないかと…

高句麗(現在の北朝鮮がある位置)という国に建てられた広開土王碑に「加羅」の名前が出てきます。
これは高句麗の広開土王という王様の功績を称えた碑で、教科書や副教材にも載っているはずです。

昔は「広開土王碑」は日本軍によって改竄されたものだと言われていたこともありましたが、何年か前に中国だったか北朝鮮だったかの学者さんによって完全に否定されたはずです。

まぁ韓国ではこの碑についてことごとくいちゃもんつけていますから、韓国の方との論争にこの例を挙げるのは適切ではないでしょうけれど。

でも加羅(伽耶)という国名は中国の史料にもたくさん出てきますし、“ない”はずはないですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>高句麗(現在の北朝鮮がある位置)という国に建てられた広開土王碑に「加羅」の名前が出てきます。
>これは高句麗の広開土王という王様の功績を称えた碑で、教科書や副教材にも載っているはずです。

少なくとも存在だけは否定できないのではないかと思いました。

ただ、韓国では「広開土王碑」の内容も韓国では否定されているんですね。

お礼日時:2012/04/13 14:47

どちらかと言えば2だと思いますが、1の「実態はよく解らない」も真だろうと思います。

なにぶん史料が少ないので。

日本書紀には継体天皇の時代に任那4県を新羅に割譲し、後にこの件で関った大伴金村が失脚したなどのことが書かれています。比較すべきものもないので史料の信憑性ということはつきまとうのですが、無理に捏造してまで記録しておくような話でもないし、金村が失脚した欽明朝あたりとなると史料の信頼性もぐっとましてくるころですので、端から疑ってかかる必要はないだろうと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>日本書紀には継体天皇の時代に任那4県を新羅に割譲し、後にこの件で関った大伴金村が失脚した

「新羅に割譲した」というからには日本の支配が及んでいたと考えるべきなのでしょうが、
日本書紀だけの記述なら少し微妙ですね。

>金村が失脚した欽明朝あたりとなると史料の信頼性もぐっとましてくるころですので、端から疑ってか>かる必要はないだろうと思います。

そのころの記述は比較的信頼性が高いということなんですね

お礼日時:2012/04/13 13:10

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